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あれはなんだったんだろう 未分類

なんともいえない感じとか。

なんともいえない空模様。冬でも春でもなく。雲を見ても「冬だな」とか「春だな」とか思わないし。お花や光には「春だな」と感じるのだけど。あと鼻水。花粉だよねえ、これ。乾きもひどいのにどうして鼻水だけは出るわけ。人間ってほとんど水分だから?だったら外に出すだけではなくこの喉の渇きや肌の乾燥も自分でどうにかしてほしい。自分の水分、自分にとどまって。あと風。春一番。これを超えたらやっと春!そして桜。桜が咲いたらすぐにまた1日だけ雪!とかなるのかしらね。暖かい冬には大雪が降る、とこの前の雪の日に聞いた。冬が寒くないのは私には嬉しいけど温暖化は止まらなそう。JAXAに行ったときも温室効果ガス観測技術衛星「いぶき」の模型の前で説明してもらったけど地球はどうなることやら。そして人もどうなることやら。私もどうなることやら。

昨晩も句友のリマインドのおかげで俳句を出せた。毎回ぎりぎり。それでもこうして作る機会を作っておかないと、というか、最近になってようやく継続的に句会にでたりする意義がこれまでとは異なる実感を伴ってわかったというか継続的、定期的なお稽古事の価値がわかったというか、精神分析みたいな毎日のお稽古みたいなことをしていながら今更何を、だが、精神分析のおかげで色々わかったというのもある。時間がないんだよなあ。

ブラタモリの女性アナウンサーの起用に関する記事に対してある人がああいう男女の起用の仕方に怒っていた。基本的に女を見下している設定だということが制作側にはわからないのだと思うのだけど女の方もそれを文化として取り入れて振る舞っているから他人事だと色々いえても自分のこととなると全く気づいてなかったりする。どっかで自分だけは別という意識が働いてしまうのだろうねえ。身内じゃないし。書いたり喋ったりするのがうまいとそっちでなんとなく補える面も大きいだろうし。それはお互いを見下している側面があるわけだけどそれも一緒に生活したりしない部分的な付き合いだと美味しいとこどりしてればいいだけなので関係性が変わることはないし。前に、常識を覆された!みたいなことをしょっちゅう言っている他人のモノ好きな男女の話を実際のエピソードをもとにして別の場所で書いたのだけど、その人が「そのあとどう動くかが大事ですよね!」みたいなこと言っててやっぱりこういう人に限ってこういうこと言うんだなあ、と思った。人にひどいことした人に限って「失敗が大事!」とか言ったりするでしょう。なんでも「失敗」として位置付けてるんだろうねえ。された方は「あれはなんだったんだろう」とずっと闇の中に置いてけぼりになったりするのに。「前を向こう!」と同じノリがひどいなあと思う。まあ、自分にはできないことをいうのが私たち、というのも本当だろうけどあまりに自分たちのことを棚上げしているのはどうかと思う、それでお金もらってたりすると。仕事でなければある程度は好きにして、っていうところあるけど公私混同はそういう意味でも難しいですね。私は男女比率を考えていなそうなイベントとかいかにも権威に媚びている場所には行かないか、行ったら何かいうかしているけどそういう私でも全然意識できていないところが多いわけでこの前富永京子さんのポッドキャスト聞いて涙が出てしまった。この話も書きたいけどやることやらねば。富永京子さんは本もおしゃべりもおすすめなのでチェックしてみてください。良い一日になりますように。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

プロとか人間とか。

薄緑のお茶がきれい。何もかも進んでいないけどお茶はいつもきれい。空の色も水色とピンクになるようなならないような色が境界線なくしててきれい。昨晩は明日までに読まなくてはいけない本を探し回って終わってしまってなんにもなんにも進んでいないのだけどなんにもベイベーだな、って今思ったのは前に身内が「何度もベイベー」って曲を舞台用に作ってそれが私の中を流れてきたから。ほんと単純で最初はなんだその曲って笑っていたのだけどプロにアレンジをお願いしたらとんでもなくかっこいい曲になって返ってきてプロすごい・・・と思ったのだ。しかもその人とてもいい人で、とまで書いて「あ、これは別の人だったかも」といつも通り記憶の揺れがひどい。いい人!素敵な人!やさしい!って思うことがたくさんあるから混ざってしまう。「プロすごい・・・」と思うことも本当によくあってこの前も「ちょっと意味がわからない」と思うくらいすごい人に会ったのだけど一緒にいたり会話できたりするんだよね。動物とは通じ合っている気はするけど会話はできないし。プロってなんだ、という話でもあるけど対話ができる、ということまで含めてプロだと思う。

でも人間ってわからないものでとっても素敵でとっても大好きと思っていた人に「あれ?」と思う瞬間があったとして、そのときは「この人に限ってそんなはずないか」という感じでなかったことにするのだけど小さな違和感は大抵正しかったりする。悲しいことに。前にその人の全体がなんだかわからないまま勢いみたいな感じで親しくなった人がいた。その時点で「あれ?」という感覚をいくつも持っていたのだけど否認していた。その人には配偶者と愛するペットがいてそのペットが死んだあともそのペットについて呟くたびにたくさん「いいね」がつくほど動物好きで有名だった。その人の家にはほかの動物もいたけどそのペットだけは特別だったようで家族がほかのペットの死を悲しんでいる日もその人はごきげんに愛想を振りまいていた。私がそういうエピソードに「あれ?」と思うのは、その人が人に対しても突然冷たくなるところがある人でいわゆる「さめる」様子がよく伝わってきて、怖いと感じることがあったから。そしてその直感が正しかったことは悲しみが共有されなかったペットが死んで一年もしないうちにわかった。人を全体としてみていたら絶対にできないことってあると思うのだけど部分で見ている人はやってしまってから「だっておまえがひどいことするからじゃないか!」みたいな感じで何も言っていないのに不安定になったりしてしまう。本からそれだけ学べるのに人からは決まった範囲でしか学べないのか、SNSではそれだけ発信できるのに受信範囲はそれだけか(見なければいいから)と驚いたりもしたが自分の攻撃性によって被害的になりやすい人との対話は難しい。ああ、このセリフってあのアニメの男の子のセリフだな、と思ったけどアニメって本当に人のそういうところをよく描き出している。人の関係における複雑さを単純化する力がすごい。プロたちすごい。今日もいろんな人から学ぼう。私の仕事はとりあえずそのまま置いておくところからかな。現象大事。事実大事。

鳥たちも元気っぽい。がんばりましょう。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 精神分析 言葉

9月27日朝。

キッチンで色々しているうちに空の青が薄くなってきた。きれい。54袋入りの麦茶が消費できていないけれどこれは2巡目なのかな。8月初旬に青森に行く前から作っていたと思うのだけど、と書いていたら「あ、これ2袋目かも」と思えてきた。前に空になった袋に別のゴミを入れたイメージが浮かんできた。青森、楽しかったな。猛烈に熱くて猛烈な陽射しでまだ日焼けの跡がくっきり残っている。最終日に行政の方にたくさん説明をしていただいた八戸ブックセンターでは24日(日)「本のまち八戸ブックフェス2023」が開催されたとのこと。私も知っている関東の出版社も参加されていた様子。会場はこの八戸ブックセンターと「八戸まちなか広場マチニワ」「八戸ポータルミュージアムはっち」。街づくりの時にこれらを拠点として街をぐるっと回れるように設計したというのも聞いた。私たちは何も知らないままそれらをぐるっと回ってブックセンターに到着したので街づくりは成功している。

あ、雨だ。さっき天気予報をみて朝だけ少し雨マークがついていて「ふーん」と思っていたら本当に降った。降り込んではこなそうだから窓は閉めない。鈴虫が遠くの下の方で鳴いている。水平線を想った。空はもうだいぶ明るい。

別のところにも書いたが、人の心を殺して身体を傷つけるような人でも外では優しく穏やかに軽薄なおしゃべりをしながら快楽優先で過ごすことは当然ありなのだが、知識があったり書くのが上手ということだけで臨床の知にまで踏み込んできたりするのは厄介だなと思う。もちろん賢い人の行動よりお言葉のほうが関係のない人には貴重で、知的な部分だけで「学際的」であることも大切かもしれない。でも、現場での搾取や現場でトラウマが作られる可能性に言及するのであれば、同時に、法的にも規約的にも規制されない部外者をお友達感覚で現場に関わらせて消費者からお金をとることについても鈍感であってはいけないのではないか。少なくとも人をモノのように扱う人に自動的に書く場が与えられているのをみると世の中の仕組みだなあとうんざりする。見えない暴力は蔓延るばかり。現場を守る環境を壊す仕組みを見ながら現場で仕事をするというのは不毛だが不毛さから何かを見出す仕事だから無思考にはなりたくない。そんな社会でも自らの思考や心ある身体を守ろうと思う人は患者としてやってくるだろう。すでに傷ついた心身と共に。言葉と力で言いたいことだけ押し通そうとしているだけの人を見破ることはできなくても戸惑いや疑惑を感じたら相談する場と出会ってほしい。背中を見せれば触ってもいいと思っているような人たちは現実にいる。一度受け入れれば何してもいいと思っている人も現実にいる。自分の暴力性もナルシシズムも否認して相手が悪いとする人に効く治療はあるかもしれないがないかもしれない。そういう人が治療を自ら求めるとしたら自分が相手にしたことを自分が体験したときかもしれない。やはりこの仕事は傷ついた人たちに向けられているので弱い立場の人の声をかき消すような構造や仕組みに対してできる抵抗を考えないといけない。専門性はそのためにあるのだろうから。

今日こそ地道に。コロナもインフルエンザも流行っているようなので皆さん、どうぞお気をつけて。体温調節も難しいと思うけど脱いだり着たりできるようにしましょう。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション

反転、バウンダリー

人って簡単にこうなる。やってること変わらないじゃん。反転反転反転。どちらにも転ばず両面見せながら人を憎まずやっていくのはそんなに難しいことだろうか。そもそも憎むほど愛してる?もしそうなら体を張れるのでは?なんの覚悟もなく女のおいしいところだけ使う搾取男を「賢人」とか「知の巨人」とか簡単に言い換え虚像を実像にたやすく変換できるSNS時代、だらしない身体は快楽のためにはがんばるがその時間が過ぎればすぐしんどくなる。自分を気持ちよくさせてくれる人以外に心を動かすのは負担。女も男も公私混同で共謀する、様々な形で。バウンダリーの問題は難しい、と外国の人とも話した。あれこれの事件も起きるわけだ。自分を部分ではなく全体としてみてくれる人たちと今日も一日。

https://note.com/ami3note/n/na7eaf5e3366a?sub_rt=share_pw

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 お菓子

余裕のなさとか

缶がガラガラと大量に落とされる音を聞いて目が覚めた。多分大量のレモンサワーの缶がプラスチックの箱の中に投げ込まれたのだろう。ベランダから覗こうかと思ったが外に出られる格好ではなかったのでやめた。でもまあ起こされたついでにと着替えて裸足で靴を履き外へ出た。風が弱い。もう少し吹いてくれていいのに。通りにはすでに誰もいなかった。箱の中は予想通りレモンサワーの缶で底は見えなくなっていたがいつもみたいに溢れんばかりではなかった。スーパーの3円のビニール袋を傾けて発泡酒とビールテイスト飲料の缶をガラガラと箱に落とした。レモンサワーが見えなくなった。ビニール袋に一本がくっついて落ちてくれないので手で剥がして置いた。ほとんど乗らない私のマウンテンバイクもどきにかけた傘がまだ少し濡れている気がしてわかりづらい平面のボタンを押し込んでサドルに立てかけた。薄い日陰ができた。まだ光が弱い。今日も曇り空だろうか。キッチンに戻ると一本だけ缶が置いてあった。捨て忘れた。朝そこに立った時に「これも捨てなくちゃ」と思ったのにな。

さて今日は教えてもらたチーズケーキのお店に寄りたいのだけど移動時間を考えると余裕がなさそうだ。うーん。でもキャロットケーキが届く予定もある、そういえば。以前散歩コースに美味しいキャロットケーキを出してくれるお店があった。人気のある店だったが遠くへ移転してしまった。移転先は結構田舎で車がないといけない。相変わらず地元の人に愛されているらしく売切の毎日らしい。よかった。キャロットケーキは見た目もとってもかわいい。見かけると思わず寄っていってしまう。こんがりした茶色にクリームチーズの白。この前も外から覗いたパン屋さんにキャロットケーキを見かけて思わず寄っていってしまった。そこのは断面が正方形ですごくきれいな地層みたいだった。惚れ惚れした。でもかなり大きい。一人分のカットみたいなんだけど。うーん。なんかもったいないから誰かといるときにしようと泣く泣く諦めた。その日から通りかかるたびに「今日はあるかな」とガラスの向こうを探してしまう。あると嬉しくなる。ないと「これからかな」「もう売り切れちゃったのかな」と思う。そしてチャンスがある日に限って余裕がないか忘れてしまうかする。美味しいものがそこかしこにあるからな。

あら。大きな声がして赤ちゃんが泣き出した。大丈夫かしら。この辺、また赤ちゃんが生まれてたんだ。しばらく聞こえてなかったんだけど。赤ちゃんの泣き声もどんどん変わる。保育園の子どもたちも元気かな。土曜保育はいつもと違うおもちゃで遊べるかもしれないね。みんな色々あるだろうけど元気に育つんだよ。

昨日、不買運動について一瞬考えた。人物と作品は関係ないと私は思っているがそう思えない関係があることも知っている。作品によって名を成した人に心も体も弄ばれ仕事もままならず収入も減った人がその人がいろんな種類のパートナーに囲まれて平然と次の作品に向かっていることを知ったらまた日常の行為とかけ離れたよくみれば軽薄なだけの作品(と関連した諸々)に金が入って相手を利用する資源や機会を増やすのかと不買運動に乗り出すことは十分にある。ただ、サークル的関係は解体しない方向で動くから運動と呼べるほどの大きな動きにはならないだろうし多くの女もそこに巻き込まれているわけだからシスターフッドなんてまるで感じられずまた絶望と孤独に陥るだけけかもしれない。それでも「声をあげる」としたらそれは決して黙らない相手に「こんな状態でもまだ生きてるよ」ということを知らせたいからかもしれない。でもそれだって軽薄に知性を活用して人を騙しながら誰かと嘘っぽい幸福な関係を築いている人は自分がしたことまで知的に面白がって距離をとれてしまうのですでに切り捨てられている可能性が高いかもしれない。毎日、高橋ユキさんのツイートでいろんな事件を知るのだけどああいう犯罪とこういう搾取って量と程度以外でどうわけていくわけ、とそこに連続性を見出しながらもそれが法的に罪ではなければ罪ではないという事実に戦う気力すらなくなることだってある。罪悪感を感じない人でも法的に「罪」というレッテルを貼られたら罪人になるわけだけどそれはレッテルでしかないし反転可能な場合もあるから難しい。むしろ法的には被害者とされる人の方が孤独で小さな抵抗を試みるたびに罪悪感に苦しんでいたりもする。都合よく使われ言葉を限定され身体は発散の場所にされ我慢は労われるどころか言葉にしなかったことを「どこに書いてあるんですか」と責められたり。「傷つく」という言葉を簡単に考えたりいろんな側面から検証しないとと検証もせず言っているだけの人はこういう目にあったことがない幸運の持ち主かもしれない。そんな余裕ないことっていっぱいあるんだけど。仕事をしないと生活が維持できないから怒りや気持ち悪さや理不尽に学ぶしかないとどうにかこうにか切り替えようとしてもすごく時間も気力も奪われてどうにもできない体験ってしたことある人って多いと思うんだけどだからといって他人は他人。そういうときだけ割り切れる。誰だって自分のことが一番大事で気持ちよくいたいものね。意味とか価値とか考える余裕もなくそういう目に遭い、それでも生きているという事実に応じていくしかない状態で自分のことも誰のことも殺めず生きていくためにはどうしたらいいのだろうと苦しい夜を過ごす人たちはどうすればいいのでしょうね。言葉で追い詰め身体を傷つける人に限って「そうしないためには」とか他人事のように言ったり書いたりしはじめるからせめてそういうときはすかさず「あのときのあれはなんだったんだろう」と呟くくらいはしておくとかね。不買運動も小さな抵抗。小さな抵抗は小さな祈り。届かずとも自分が生きていくために、と思えばいいのかしらね。

今朝はローゼンハイムのバウムクーヘンと紅茶でした。外はいつの間にか日差しでいっぱい。難しいことだらけだけど今日も一日、なんとかかんとか。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 言葉

ペンは剣よりも、焦点を少しずつ、学ぶ

まさにペンは剣よりも強し。別の意味で。暴力よりも暴力的とでもいうのかな。昨日は比較できないものを対比的に書くことはなかったことにする技術であることも学びました。身体を傷つけられずに学べるなら不快さと痛みを引き起こす暴力性はある程度必要ってことかもしれないですね。相手の心も体も弄んで傷つけるような人の表現はそう捉えることは難しいですけど。そうされた人はそういう人の表現に触れるたびに何時間も何日間も苦痛をただ耐える時間を過ごさねばならなかったりするから。いっそのこと、と考える人だっているのはそういう人が黙ることはほとんどないからかもしれません。千葉雅也さんが先日フィルタリングのために「物理的に瞬時に目を閉じる」とツイートしていました。私もやっています。(ミュートしているのに)またか、と思いつつ反射的に目を閉じる、薄く開けて焦点をぼやかしながら画面を閉じるバツ印を探す、また目を閉じる、落ち着くまでその状態に身を委ねる。ペンは剣よりも強し。なのでしょうか。

あっという間に1時間、2時間が過ぎた。まるで何事もなかったかのように家事をし、おしゃべりをしているのは生体防御反応だ。こんな状態になってから長くなってきた。突然の刺激に晒され衝撃を受け続けるなか「まただ」とその衝撃を予測しながら目を開け続けることをするようになった。一方でできるだけ距離をとるようにミュートをした。それでもこのネット社会、軽薄な言葉ほど軽々しく網の目をすり抜けるように現れることがある。瞬間的に目を閉じる。じっと嵐に耐える。そのまま眠ってしまうこともある。生体はうまくできている。生き残るために、適応するために何をするかといえばそこから学ぼうとする。暴露療法のような方法をとりはじめた。恐々目を開ける。焦点を本当に少しずつ合わせながら見てみる。最初は全部は見られない。それでも少し目を開ける時間が増えたことをモチベーションに変える・・みたいな。なんなんでしょう、この努力は。この時間は。と思うでしょう。でも学びは残る。比較できないものを対比的に書くことはなかったことにする技技術なんだなぁ。これが「賢人」の技術かぁ。スプリットされたこころで思考停止のままでいられる技術。自らの被害感と不快感を癒してくれる人は大切よね。遠くへ追いやったそれは今まで通りポイ捨てしてきた対象に処理してもらえばいいのだから。そういうのもテクノロジー。ペンは剣よりも強しをチャットなんちゃらにいれたらこんなお話もできるのかしら。そういうデータならいくらでもあるだろうから。

早い時間にメロンを食べてしまったから寂しい。勝手に一日締め切りを延ばしてしまったものを朝のうちにやらねば。世界には辛いことがたくさん。「癒す」という言葉に対する不快感ってなんなのかしら。今日も学びましょう、と軽々しく言いづらいのはさっき書いたみたいに強い痛みを想定できるから。精神分析もそういう痛みを想定している。本とかでは学べない「知」に向けて友達や家族に支えられてやっていけたらいいけれど。今日も理不尽さにのみこまれつつ生き残る方向でいけたらいいけれど。とりあえずとりあえず、ですね。気のきいたこと何も言えないけどどうぞご無事でお過ごしください。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

「実験」

時折強い風の音がする。嫌だな。雨がひどくならなければいいけど。

これが全部実験だったら嫌だな。実際そうだったのかもしれない。人体実験。向こうはこちらを使い、こちらはそれにのった。契約書のない契約。新しい環境に適応するためにがんばっているのを支えられたらと思った。居場所を失っているように見えた。使ってもらえる時間を作るために着々と仕事をした。自分の疲れは会えば自然とひっこんだ。「がんばれがんばれ」と大きな背中を小さくポンポンとした夏のことも覚えている。どうなってしまうんだろう、と感じながら、それまで経験したことのない不安と喜びと不気味さを感じながら。結局、実験にはならなかった。人をコントロールなどできないのだから当たり前だ。実験だと思えば少しは楽になるのかなと思っただけ。なるはずなかった。責任をとる必要のない肉体関係が想定されているらしいことを気づいていたけどまさか本当にそんな、というのはきれいごとで、そのまさかのこの人に人のこころなんてあるのだろうかと疑い、いつも不安を打ち消しながら過ごした。これは実験なんだから。最初から契約なんてないのだから。言葉なんて通じないのだから。自分を人間だと思うから苦しい。犬みたいに扱われたので「犬みたい」というと「似たようなもんだ」と言われた。上手に飼い主を愛せないとすぐ次のペットがほしくなっちゃう飼い主と一緒にいるためにはどうしたらいいのか。目的がすでに不毛すぎるが狂い始めたこころはそれに気づけない。言葉で主張したら悪意にとられる。理解が遅くても意地悪と思われる。怖い。ご機嫌でいてもらうために無理を重ねた。でも無理だった。もっとお手軽に利用できる幼くて依存的な相手ができたことにはすぐに気づいた。「○○パートナーです!」の「!」の軽薄さ。うんざりしつつも愛したが何も指摘されたくなかったその人はこちらをコントロールするために言葉を使い始めた。嘘をつかずに隠し事を続けているのだから後ろめたかったのだろう。言葉で言いくるめるのは得意技だ。地道にかけられてきた圧力の正体を見た気がした。やはりハラスメントやDVの構図を持っている人だった。それでも、それでも、と思ってしまう。ここで追い縋ってはならない。とりあえず逃げないと。相当なダメージに機能しにくくなっているこころを感じながらこれまでの言動と出来事を記録した。その人の親兄弟、今の家族に対する態度の幼稚さも裏付けとなった。それでも人間は愚かだ。傷が深くなって回復が遅れるだけなのにそんな人のことを考え続けることで時間を無駄にしてしまう。「実験」とかいって。愚かだ。

ああ、湧き上がる猛烈な怒りをこの風みたいに一気に振りかざせる形にできたらいいのに。怒りを言葉に置き換えられてもそれは鬱の始まり。深まるばかりの悲しみに動けなくなる。いつまでこんな地獄が続くのだろう。

などということをブコウスキーや川井俊夫さんみたいな荒々しさで書けたらいいのに。

雨はやまないらしい。窓を打つ音が聞こえる。風がないと雨音は静かだ鳥が一気に近づいてきて離れた。鋭い鳴き声。

GWは國分功一郎weekと書いたがひとまず今日でひと段落。インスタに何冊か読んだ本をあげた。読むべき本が溜まっている。私が國分さんを知りその運動と思考を追うきっかけとなった東京都小平市の都道328号線建設計画の是非を問う住民投票。あれから10年となるのに合わせ、今日の午後、小平では玉川上水周辺の環境保全を考えるシンポジウム「小平の玉川上水の自然が危ない」が行われるという。市民団体「みどりのつながり市民会議」共同代表で市議でもある水口和恵さんが「住民投票十周年に改めて328号線計画を考える」、麻布大いのちの博物館名誉学芸員の高槻成紀さんが「小平の自然の豊かさと道路による分断の影響」と題して講演すると東京新聞に書いてあった。ここに名前は上がっていないが國分さんも少しお話をされるという。後日配信もされるらしいのでそちらもチェックしたい。

いつも通り眠れないまま朝を迎えてしまった人もいるかもしれない。起き上がれないなら起きたままでという人もいるかもしれない。それでも、それでも、とやっていくのかな、今日も。とりあえず委ねてみようか、というか疲れ切ってそれしかできないかもしれない。どうか今日もご無事で。先のことはわからない。ただそれだけを忘れずに。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 散歩

女王様のおやつ、工場見学、消しゴムマジック

今朝は群馬県高崎市に工場があるガトーフェスタハラダの群馬限定ラスク「グーテ・デ・レーヌ キャラメルショコラ」をいただきます。高崎市にある珈琲屋さんのコーヒーと。さて女王様のおやつ、とのこと。なるほど。ゴージャスな作り。なんでこれが群馬限定販売なのかな。普通のグーテ・デ・レーヌもあるんだね。レーズンサンドと合わせてるんだ!美味しそう。ぐんまちゃんのイラストが描いてあるわけでもないしなぜだ?まんまと買ってしまったではないか。おいしいからいいけどさ。ここは工場見学にいくと生ラスクも試食させてもらえるの。これがとっても美味しかった。生ラスクって言い方でいいのかしら。まだ少し柔らかくて表面にお砂糖だっけな、それをその場で炙ってくれてすぐいただけるのです。飲み物つきでいただけるスペースもきちんとあるし。県民としてはこんな田舎へ誰がくるのだろう(私は行くよ)と出かけた工場見学だったのに混んでたー。特にショップ。工場をまじまじと見学しているのはわたしたちくらいだったけどね。工場見学ってとても面白い。小学生の時に行った前橋市六供の清掃工場と下水処理場の中身は覚えていないけど温水プールとのセットでその仕組みとか感動した。あの辺は遺跡も多くて古墳みたいなところも行ったな。あとから国立中学附属の小学校はバスで行くんだよ、と聞いたけど確かに私の通っていた公立小学校は子供の足では遠いだろうと今なら思うほどの距離を歩かせていた気がする。ああいう「付属は」みたいな言い方って面白いし変。群馬のお受験なんてそこくらいだものね、受験に対する意識が低い学校でもそういう言葉だけはなんとなく使うようになるのだから面白い。

昨日も寝不足のままうつぶせで倒れこんでいたから顔が変。見慣れない顔になってる。出来事をまるでなかったことにして平然と軽薄でいられるのはなぜかということをここ半年くらいずっと考えているのだけど精神分析のセッションでは瞬間的にでも長期的にでも生じる状態。意識化ということが強調されがちだけど無意識化のプロセスだと思っている。精神分析場面でなくてもDVやハラスメント事案の多くにそういうのって見られるでしょう。そんなことしておいてよくそんなこと言えるよなってやつ。向こうはこっちにそう言わせない圧力をもって「自分のしていることがわかってるのか」とかいってきたりするから怖くて何も言えなくなってしまったり悪循環。誰かを喰い物にしてただの排泄物にしたり詐欺みたいな行動に役立てたりなんにしても「もの」扱いしてしまう心性は相手がいない状態、つまりナルシシズムの文脈が一番語りやすいと思う。相手がいないから平然と相手に押しつけて自分だけさっぱりしてしまう心性。相手のことを人として見てればそんなことはできないと思うのだけどなかなか。最近、写真の編集で「消しゴムマジック」ってあるでしょう。あれを人間関係でやってる感じといえばいいのかな。むしろああいうのは人間の性質がテクノロジー化したともいえるのか。DMとかと同じで一方が消してももう一方のは消せないし、オンラインからはほぼ永遠に相手はいなくならないのでそういうマジックを気楽に使わない方は苦しい。使えない方がいいけどね、魔法的なことは。ドラえもん的なことは。アンパンマン的なことは。万能感はケアとセットならともかく、と思うけど、自分のいったこと、したことは棚上げどころかマジックで一括消去してケアとか環境型セクシュアルハラスメントについて語って賞賛と共感を得てしまう「いい人」でいるとかいう場合もあるでしょ。それってどうなんだろう。そうなりたいわけではない人でも相手を部分的に利用したくなるときはあると思うけど怖さや理不尽さが強烈な場合は問題にしていかないと。自分のせいにすることでなくしてしまわないように。今日もみんなで考えられたらいいですね。

先日、神代植物公園へいったら藤が満開でした。バラ園のバラの蕾もいっぱい。ハンカチの木の花も満開。緑はすでに少しずつ濃くなってきています。少しずつ少しずつ。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

「意地悪」とか「ひどい」とか。

まだ薄暗いというか明け方が曇り空なのかこの時間にしては空が黒っぽく感じる。カラスの鳴き声をいつもより大きく感じたせいかもしれない。

坂上から坂下に向かっている途中、二人の間に白いものが落ちた。「鳩?」「カラス?意地悪されたのかな」「意地悪ではないでしょ。移動式トイレだと思われたのでは」どうでもいい話で笑いながら「あ、パン屋さんだ」「このお店いい感じ」と初めての坂道を下った。

トイレットブレストというクライン派の用語がある。精神分析プロセスの描写に使う言葉だ。移動式トイレの発想はその用語を思い起こさせた。

こんな話もある。

「ひどいことしてきたのはみんな女」って言ってた、と中年の男が心配そうに仕事で利害関係のある女に相談された話をした、不倫相手に対して。そういうことを家庭持ち彼氏に愚痴る中年女性に対して大抵の人なら感じそうなことを男も感じたようだったがその女にはそうしたくないようだった。無条件で「サイコー」と言ってくれる女はキープしたかった。男は他人の人生相談に公開でのることがあった。自分の相談は週一で手早く食事をして身体を弄れる相手にした。「誰でもいいわけではない」と言いながら「女にばかりひどいことをされる」という女が自分を心配してくれるLINEを嬉しそうにみせた。週一でその女の満足そうなコメントと共にSNSに映りこむうちに身体だけの女とは別れた。「生活に口出しされたのが嫌だった。意地悪をされているみたいだった」というのが別れた理由だった。

「意地悪」について考える。それぞれがそれぞれの場面でいろんな口調で「意地悪」とか「ひどい」とかいう言葉を使う。排出について。「あの本は誰々と誰々の子どもみたいなものだからね」「どうせ排泄物なんだから好きに言葉にすればいいんだよ」。いろんな水準の排出について。うーん。カラスは意地悪ではない、と思う。人間だって意地悪をしたくてしているのではない、と思いたい。うーん。排出と消化と取り入れ。誰かを都合よく利用するのではないあり方って案外難しいかも?自分だけはそんなことしない、なんてことはないだろうから。まあ、とりあえず今日もはじめましょう。何があってもなくてもとりあえず。

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あれはなんだったんだろう 散歩

絡まる空回る、でも。

31日になってしまった。どうしようどうしよう。あー。と言っていてもやるしかないのだけど。あー。

今日は暖いですね。バタバタ動いたからかしら。暖かいといいな。今年も北沢川緑道をお散歩しながらお花見をしました。シモキタはどんどん変わっていくけどここはあまり変わらない。整備はされたけど自然っていうのは変えようがないというか人間が作るものとは変わるスピードも違うし人間の勝手で変えようとしてもなかなか難しいからバッサリ伐ってしまおうみたいな発想になるんじゃないかしらね。本当にひどいと思うけど。何様、と同じ人間なのに思う。同じ人間だから何かできたらいいのだけど。むー。なぜにこんなに無力。

人間に対しても何もできないのが基本だなとは思う。相手を変えることはできない。どんなに苦しくても相手を消してしまうことはできない。相手はこちらを意識から消してしまったりできるみたいだけど、と思うときほど苦しい。事件化されていない多くの事例で何が人を傷つけるって知らないふりなかったふりされることですよね。というかこの人は自分がしたことに対して問題意識を持つことにどうしても耐えられないし、相手の気持ちを想像する負担に耐えられないらしいということに気づいてしまうと絶望しかない。何事もなかったように自分の存在を認めてもらうことに専念しほしいものは手に入れる、そういう努力は惜しまない姿を見るのは苦しい。一方なかったことにするにはそのくらいしないとというのもあるのかもしれない。美味しい想いをしつづけながら誰かから搾取したことをまるでされた側の妄想みたいにいったり人の身体を傷つけたのに被害を受けたのは自分だといったり。そしてこういうことは第三者からは「よくあること」と言われたり。悲しいことに本当に変わらない、こういう世界。うんざりで悲しくて救いがなくてでも支えはあって。でもその支えだって色々で。絡まりつづけ空回りしつづけでもなんだか続いていく毎日。耐えられないのに進んでいってしまうから耐えてるような感じになってる毎日。こうやってなんとか引き伸ばされているような時間とか命とかを「だったらいいじゃん」で済ませてしまわないように今日も目の前の相手との責任や色々を忘れてしまうことがありませんように、と自分に言い聞かせる。責任と尊厳。意識していけたらと思う。

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あれはなんだったんだろう 仕事

「あれはなんだったんだろう」を問い続ける。

WBC決勝は仕事中にちょこちょこと経過と結果だけ聞いて夜テレビで後半だけみたけどやっぱり最初から見ないと盛り上がらないね。準決勝は見てたから一日中「いい試合だったねー」といい続けていた。

今日は木曜日か。土曜日からもう5日目か、とあえて数えたくなるのは土曜に自分が作ることになった文書があってそれを今日までにやらねばだから。毎日なにかしら資料作ってるけど種類によって負担がまるで違う。今日のは書き始めてしまえば時間はかからない気がするが気持ちの負担が大きい。ただどうにかなると思えるのは差出人が二人でもう一人にチェックしてもらえるから。信頼する人が控えていてくれる安心感は大きい。週末も様々な負担にともに静かに持ち堪えてくれる人たちと昨日届いた文書に関する話し合いのための話し合い。すでに結果が出ているものは結果に対しては無力でもそのプロセスに対しては無力ではない、ということで地道に活動してきた。大体の仕事は「あれはなんだったんだろう」を少しずつ明るみに出していくことだ。今起きていることが結果だとしたらそれはもう仕方ない。でも「人生は続く」。これからのためにやっておけることはやっておく。「人生は続く」。昨日はなぜか数人のTLや他の場所でこの言葉をみかけた。戦いの中でたとえ無力でも、ということだった。傷つきを避けることはできない。心ない人はどこまでも心ないし、なにが相手を傷つけたのかまるでわかっていない場合も多い。「ごめん」「なにに謝ってるの?」「・・・・」というやつだ。傷つくというのも色々で自分の欲望が少し邪魔されたと感じるだけで不快さを募らせて勝手に被害的になっていく場合もある。ほとんど空想の世界で膨張したそれを合理化&知性化し押し付けてくる言動は本当にひどいもので押し付けられたほうが精神や生活に支障を来すことも多い。実際に病院に行ったり時間をとられることも多いなか相手は平然と楽しそうな姿をSNSにあげていたりするのもよくある現実だ。わかっていない、あるいは分かりたくないのだからこういう地獄のような出来事が生じるのも必然か。この場合も相手を変えることはできないという意味では無力だ。わかっていても傷は痛み続けるしとても辛いだろう。その中でなにがなくともできることがあるとしたらなかったことにしないで人生を続けていくことだろう。「あれはなんだったんだろう」を問い続けることだ。昨日目にした彼らの言葉は多くの失望と絶望を今も体験しつつ書かれたものだった。痛みや傷つきに終わりがないのであればそうする以外ないというだけのことだがそうつぶやきながら実際に地道な戦いを続ける彼らを尊敬する。私は戦うまではいかないし戦ってもいないのに戦いに巻き込まれるのもうんざりだしそうされることで随分消耗してきたので回復しながら交渉とそのための準備をする感じ。支えは多い。どうにもならなくてもどうにかなるという感じもする。

というわけで文書を作りましょう。みなさんはどんな感じですか。自分の気持ちも身体も大切にすることに価値を見いだせますうに。搾取には抵抗していけますように。今日も一日。どうぞご無事で。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 俳句

俺俺倫理に抵抗す

鳥が鳴いてる。句友が増えていく。年齢も職業も知らないで俳句を巡ってやりとりしているだけの人も多いがむしろその言葉選びにその人らしさはでているようにも思う。句会はクローズドだけど俳句は誰にでもできるし私がいる句会はどれもとてもオープン。楽しいし勉強になる。

noteで「あれはなんだったんだろう」解明のため俺が倫理みたいな人を取り巻く家族やそこそこ歳をとった永遠少女や飼い犬のことをネタとして書きつけるときはとても嫌な気持ちになる。気持ち悪いパターンが一切変わらないから。一方で言葉豊かな句友たちと話しているといろんなことに気づく。普段使いの言葉で身も蓋もなく景色を描写する。読み方も自由なので自分では気づけなかったであろうことにもたくさん気づく。こんな豊かさを背景に搾取と依存によって退行を維持する人たちのことを考え続ける。考えるのが嫌でというかそのキャパが少なすぎて不快なものはすぐに外に押し付けてしまうのだろうから大人がやるべきことをやりましょう、という感じ。西村賢太みたいに書きたいけど全く無理なので逆に身も蓋もないことを書いて俺俺倫理に身の回りの人が騙されないように注意しないと。しないとってこともないけどこれからを生きる世代がせめて人の身体を弄ぶようなことをしないように、そうされないように、とかすごく最低限のことを考えてしまう。そういうことが普通に起きているから。どんなに知識が豊富で口がうまくても言葉がパターン的で深みがなくなんか自分のことばかりと感じる人と関係が近くなったとき、違和感さえ否認しなければ悲しい思いをしなくてもすむかもしれない。いろんな要因で自分で自分を騙すことをする私たちだから事態は変わりにくいけどまずは知ることで抵抗、対抗。退行するなら専門家のいる安全な場所で。何がなくともやっていきましょう。今日もどうぞご無事で。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション

お喋り、バッティングセンター、月曜日

よく話しよく笑った週末だった。大切な話もたくさんできてやっぱりこういう場が大切だね、と頷きあった。話している内容というより話すこと自体の大切さ。「普通」に言いたいことが言えるって当たり前ではないんだ、という感覚はポストコロナという感じもした。コロナ禍における「あれはなんだったんだろう」を相対化できる時期がきたのだろうか。まあしたくもないか。まるでなかったことにして進んでいく世界を前に置いてけぼりの感覚を維持している「あれはなんだったんだろう」状態のまま「人間って・・・」と考え続けるのは私の仕事でもあるし心身を守るすべでもある。「きっと今日もまた」と予想していたくせに傷ついたり衝撃を受けたりする体験に慣れることはないが慣れないことで維持されている自由や倫理だってあるだろう。違和感や不快感を対象まるごとなかったことにして平然と口にされる自由や倫理なんてそれこそ不快だけどそういうのに蝕まれながらもなかったことにだけはしないということも大切だろう。

久しぶりにバッティングセンターへいった。ゲーセン兼バッティングセンターだけどゲームをやりにここにくる人もいるのだろうか。バッティングの合間とか待ち時間にやる人の方が多そうというかゲーム台の前の椅子に人はいてもゲームをしている人はあまりいなかった。バッティングは二打席目はそこそこ当たったがなんかもう姿勢とかもろもろどんなだっけという感じだし腕がすぐに疲れてしまってそのあとやったストラックアウトなんてバウンドした球で2枚抜けただけだった。球技全般得意だったのなんてもう遠い昔のこと。身体がバキバキだ。そうでなくても加齢による身体の悩みは増えるばかり、と同時に同年代のみんなの共感と持ち寄られる情報の質は高まるばかり。不注意による怪我の多さとかはほとんど共感を得られなかったけど。バッティングセンターは自打球にさえ気をつければいい狭くてやることがシンプルな安全空間だから私には向いてる。常に運動不足だからまた行こう。東京は水曜から雨だって。雨の日でもバッティングセンターなら行けるね。時々こうしてバッティングセンター熱が高まると歴史とかも気になってきて「バッティングセンター 歴史」で検索してみた。やっぱり調べてる人っているんだねえ、何事も。『日本バッティングセンター考』(カルロス矢吹/双葉社)という本が見つかりましたよ。本紹介を読んで全国のバッティングセンターにいってみたくなった。今度旅に出るときは必ずその土地のバッティングセンターやそれっぽい娯楽施設をチェックしよう。これまでの旅を思い返しても田舎の3,4,5階くらいの総合スーパー的な施設のぽかーんとしたスペースに卓球台があったりしたもんな、そういえば。もちろん見つければやる。卓球もバッティングと同じで娯楽とトレーニングの境界が薄い気がする。たまにめちゃくちゃ上手い人が打ち合ってたりするもの、そういうスーパーの一角で。温泉卓球とかもそうね。

とか書いてるうちに月曜日、という言い方も変だけど休みはおしまい。「きっと今日もまた」という失望や絶望に沈んだとしてもいずれ回復できるようにこころの隙間を残しておけるといいですね、お互い。とりあえず今日をご無事に。

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あれはなんだったんだろう

3月10日(金)

今月も発表か。その機会があるのはありがたいが・・・と思ったが今日ではなかった。しかも今日までのことをやっていないことに今気づいた。色々気づくのが遅いのもいつものことすぎて、え?雨?窓を開けた。風もすごい。なぜ?いや特に不思議はないか。そんな日もあろう。アイフォんで天気予報をみたらちょうど私が出る時間は雨だそうです。ということは東京の多くの人にとってそうかもしれませんぞ。気をつけてまいりましょう。

山梨県北杜市でケーキ屋さん(配送のみ)をしている友人のケーキが届いた。花豆のパウンドケーキがシンプルで美味しく3つの花豆が散らばった断片もかわいい。花豆が地元で有名なことを自閉症の人たちと週末過ごしていた場所で教えてもらった。その美味しさもそこで知った。

川内倫子さんの写真集『やまなみ』はやまなみ工房という福祉事業所の方々を撮ったものであの光は私が彼らと過ごした場所でも体験したものだった。もちろんこういう雨風も。

耐え難いことがますます耐え難いことになる仕組みといえばいいのだろうか。あれはなんだったんだろう、と一年近くブログを書き続け、公開しない場所でも書き続け少しわかってきたことがある。痛みの最中にSNSとかで発散するのではなくある程度長文でその状態を書くことをしている人は多いと思うが、複数の形式で書きつけておくのもいいと思う。私が忘れない。それがすごく大事なんだと確認するような日々は今も続いている。いずれさらに別の形にしたい。

明日は3月11日。また石巻へいこう。南三陸、相双地区、塩釜へ行こう。震災直後、一年後、数年後に行った地域だ。たくさん労ってもらった場所だ。どうしてあなたの方が、と思うかもしれないがこっちもあっちもごっちゃになって一緒にいればそんなことが自然に起きてお互いに涙声になったりするものなんだ、ということも知った。

少しずつ。癒えない傷も少しずつ。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 精神分析、本

プリズム、やり直し

鳥が鳴いてる。カーテン開けられない。飛んでいっちゃうから。でもカーテン開けないと見えない。生活はジレンマだらけだな、とか急に大きそうなことをいってみる。鳥の世界の方がずっと広くて大きいけど。

すぐそばでスズメの大きな声がした。一羽じゃ出せない大きさ。『スイミー』(好学社)を思い出した。そっちの方を見上げる。いた!小さな木にいっぱい止まってる。一緒にいた人は最初気づかなかった。まさかこんないっぱい木と同じような色したのが止まってるって思わなかったみたい。毎日そこがねぐらなの?こんなに風が強いのに一晩中そこでそうやって丸まって寝るの?大好きなスズメのことも全然知らない。

まさかこんないっぱいいるとは、そうなんだよね。こっちは大体いつも同じ目線でしかものをみてないから向こうにとっては当たり前のこともすごく新鮮でびっくりちゃうことがあるんだよね、という話もした。よくよくみるように知るようになってから全然見え方が変わったものや人について話し、話しているうちにそのものや人のことをもっと共有したくなったといって色々教えてくれた。私は私でまた別の印象を持つわけでそうするともっとそれらについての見え方って変わる。プリズム♪YUKIの曲、よく歌ってたな。

♪いじわるな人がとやかく言うけれど 私は、どこかでまちがえたかしら?♪

今日はまちがえないぞ。この前すっぽかした予定を移してもらったの。すっぽかしたのだから移してもらったとは言わないか。すっぽかすつもりはなかったのだけど。すっぽかすつもりですっぽかす人だっているでしょ。日曜日に何も予定がない日はないはずなのにその日は「何もない!」と勘違いしてプチトリップに行ってしまった。そしたらLINEが。がーん。アイフォンに入ってない。入れたはずなんだけどなんかアイフォんのカレンダーに同じ予定が二重で出ることがあってその一個を消すと両方消えちゃうみたいなの。どうして?同期の問題?動機の問題?いやいや。だっていつもすごく楽しみにしてる予定だもん。そこでやり直しの機会をいただいたわけです。ごめんね、みんな。お詫びのお土産あり〼。お詫びのお土産って言うのも変か。でも本当ごめんよ、ありがとう。

昨日も海外でトレーニングしている友人からのメールでさ、とまた私側の忘却による不義理があったわけですが何度でもやり直せる関係の相手だからきっと大丈夫。ごめんなさい。

やり直せない関係は自分か相手が死ぬ場合以外、本来あるのかしらね。コミュニケーションを断たれることはやっていきたくないというコミュニケーションだからやり直す以前。基盤が壊されてしまうわけだから。やり直しには共有された何かが必要だものね。精神分析の防衛機制の分類は本当に有用。そういう分類でも使って仮の理解しなくちゃ耐え難い心ない反応にもたくさん出会うものね。こころが壊れないように、殺されないようにできることを実際に死にそうな人たちと一緒にいて自分たちが共有できそうなのは言葉だから言葉中心にできることを探って作り上げてきた治療文化を外側からわかったように語る人もいるけどそれはそれでコミュニケーションする気がないというか知的に素早くコミュニケーションできる人としかコミュニケーションしたくないとか色々あるのかしらね。私はコミュニケーションは時間をかけて続けていくものとしか思っていないので「正しさ」について何かいいながら何かの方法を「これぞ正しき方法」みたいに教えている人とやっていくのはいまのところ難しそう。どんな丁寧な物言いでどんなに信頼されていても陰で人を切り捨ててるような人がそういう教えによってお金をもらっていたりもするわけで、でも現実ってそういうことに溢れてる。教員のセクハラとかもそうだろうし。私たちの仕事だってある人にはこうである人には全く別物だろうし。だから実践を通じて訓練するわけだけど。ほかの人にいっても「まさかあの人が」と一面的な見方しかしてもらえず偏った聞き方しかしてもらえないようなコミュニケーションは死にたくなるほど苦しいしそうやって傷ついた人たちと関わるような仕事だから今日もいいとか悪いとか正しいとか間違ってるの前に何度でもやり直せるための条件について考えましょう。それを壊してくる圧力や暴力のことも同時に。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション

子育てとかこれとあれの違いとか。

小さい子と遊ぶとそれ以外のことはなにもできなくなる。子供1人で大人が3人以上いればひとりが遊んでもうふたりがしゃべっている時間もあるが結局全員の注意は子供に注がれている。楽しくて楽しくてなんとか眠らないようにいろんなことをする子供がおかしくてかわいくてみんなで笑う。ようやく腕に抱かれて眠りそうな子供のそばであとのふたりは声を潜める。小さな身体でチュパチュパと音を立てながら眠りに落ちようとする姿に懐かしさを覚える。懐かしいと愛しいはセットで生じる。子供がいる大変さを語りながら子供に時間をとられながら子供と一緒によく笑い子供の仕草に驚き発達を心配し「そうか」と何かを発見しということを子供のそばで繰り返す。自分のしたいことすべきことは全く進まない。それでもなんとか進める。大変としか言いようがない毎日だがそれはネガティブな意味だけではなくとにかく予測不可能だということが想定される毎日だからだろう。私は子供と関わるのは仕事でも趣味でも生活でもあるのでわりと役に立ちありがたがられるしいろんな親たちといろんな子供と遊びながら話をしてきた。子育てを語るというより子育てをしているその人が語ることはそばにいる子供の語りでもある。彼らの親の語りでもある。ひとりの人に生きている歴史、生きようとされている歴史、そういうのが大切にされればいいなと思いながら話を聞く。当事者として語ることと第三者として語ることは当然異なる。当事者のくせにあっという間に第三者として語れてしまうこともある。子育てをしている人にはそれができない。だからきついということもあるだろう。なかったことに、いなかったことにできたらどんなに楽か。負担を引き受ける方の願いは大抵望ましくないものとされる。おかしなものだ。どうして自分だけ逃れらられると思ってるんだろう、実際逃れられてしまうのだろう。前者は個人の問題で後者の社会の構造のせいだとかざっくりしたことをいっておこう。戦争が起きている世界のすぐそばで心はもちろん身体的な搾取を行う一方で人の相談にのって感謝されたり大きなこと、丁寧なきれいごとをいって大きさを問わずメディアと共謀しナルシシズムを満たされている個人は子育てをしている人の横で何も見えていないかのようにしてでも見えているから急に怒鳴ったり暴力を振るったりしながら外では「いい人」でいる人と何が違うのだろう。あれはなんだったんだろう問題がこれとあれは何が違ったんだろう問題として私の中で変換されがちな今日この頃。やるべきことやりながら感じたこと今日も色々書きつけていきましょう。

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あれはなんだったんだろう コミュニケーション 読書

知識

早朝から國分功一郎さんたちのUTCP公開セミナーをみていた。2月18日(土)午後に行われた柄谷行人『力と交換様式』(岩波書店)の合評会の映像のアーカイブ。1:28:55あたりから本編、というのが面白い。動く國分さんがいるのに何も聞こえないし何か始まる気配がないから私のパソコンがおかしいのかと思った。会場には柄谷行人ご本人がいらしていたとのこと。いいねえ。そのあとご本人からのフィードバックもいただけたのよね、きっと。私はまだ読んでないけどDの到来か。こういう話だけ聞いていると面白いような気がしてしまうけど知識も教養も足りなすぎるからまずはとりあえず読むだな。いつもそうだ。

言語論の講義を受けて発表もした。話題にでた三木那由他『言葉の展望台』(講談社)を再読しようと思ったが読みやすいそっちはいつでも読む気になるだろうからモチベーションが落ちないうちに途中までしか読んでいなかった『グライス 理性の哲学 コミュニケーションから形而上学まで』を開いた。あ、話題に出たのは『会話を哲学する コミュニケーションとマヌピュレーション』(光文社)のほうか。昨年刊行された『実践 力動フォーミュレーション——事例から学ぶ連想テキスト法』(岩崎学術出版社)の刊行記念に監修者の妙木浩之先生が寄せた文章にもこの本は登場する。

コミュニケーションは断たれてしまったら何も生じない。それは未来にとっては危険なことだ。いくら本を読んだところで知識を身につけたところで実際のあり方をずっと問い続けて自らも実践していくことがなければ言ってるだけの人たちと変わらない。言ってるだけであっても言えてるだけマシかもよとも思うが。文章を書くその人がどんな人であろうと読んだり聞いたりすれば助かる人も多いだろうからそれはそれで一つのコミュニケーションのあり方なのだろう。そういう乖離を見せつけられる距離で絶望を繰り返しさらにコミュニケーションを断たれたとしても(ひどいことは大抵最後までひどい)知識は知識だ。とても冷めた気持ちで言葉を物質として淡々と取り込む工夫も必要だ。三木さんの本を読むとなおさらそんな気持ちになる。動けないという意味で時間が止まる。思考が停止する。それでも時計は動き続けひどい人はひどいまま今日も元気だろう。冷めた気持ちで淡々と。いずれ使えるように素直に取り込んでいこう、それが誰から発せられたものであっても、正しいと言われる知識であれば。

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あれはなんだったんだろう 精神分析

「問題」「事件」「よくあること」とか。

寝不足だけど眠くはない。この場合、寝不足というのはショートスリーパーの人でもこのくらいは寝るんじゃないの?みたいな基準と比較しているだけなので私が眠くないのなら全く構わないのかもしれないが多分どうせきっとこの後すぐ眠くなって移動とかが辛くなりそう。

ここでも何度も使っている表現がある。特定の人をさしているようでそうでもないみたいな書き方も頻繁にしている。昔、私の先生が本を出したときに「この本を読んだ先生の患者さんは皆さんご自身のことだと思うのかも」といったら「そうかもね」と先生は笑った。ものすごくたくさんの人それぞれと膨大な時間を過ごして記録を書き続ける生活をしていれば人のある程度普遍的な部分というのを描写できるようになるので読む側はどこかしらに自分と先生との関係や自分の特徴を見出す。というか人ってなんかどこにでも自分を見出すでしょう。八百万の神と多くの人は抵抗なく共存していて自分の性格とか運勢とか言い当てられちゃったりするわけだし。

私は自分を含めた女が身体と心を傷つけられたと感じた、感じている、感じ続けている場合の状態をいろんなふうに書いているのだけどほんと言葉っていかようにもとれるよな、と思うことがしばしば。たとえばひろゆきみたいな人のことを書くことでひろゆきを問題視するリベラルで無難な「いい人」のことも書いているみたいなことがよく起きていると感じる。そういう重なり合いがセクシュアリティに関する出来事を「問題」としたり「事件ではない」とか「よくあること」としたりすることと関係あると思っている。境界線はどこかしら。巧妙に発信し、巧妙に誤読するというように意識的にやることもできるけど何も考えずに読んだり聞いたりしているのに相手の意図や別の人との受け取りと全く違ったということだって生じる。特定の人のセクシュアリティをひどく傷つけると同時に別の人のセクシュアリティに良きものとして絡んでいく社会的には人気者、なんていくらでも聞いたことがあると思うけどこういうのを実感を持って考えていくと法律の壁や連帯の難しさとかものすごくいろんなことに陰鬱としてくるんだな。社会的に裁かれることもなく平然と賞賛と共感をえる小さい社会でのインフルエンサーでももっと公の偉い人、すごい人でも誰か特定の人のセクシュアルなこころを踏み躙りつづけている可能性というかそういう実態があることを描写し続けることは大切だと思う。

さて、週末は前意識と無意識の間で言葉がどのように変容していくかを考えることになりそう。痛みの多い毎日に防衛一方で過ごすのは自分のこころを殺しているようで辛すぎるけどそうでもしないと外に出ることもできず身を潜めるしかない人もいることに思いを馳せつつ今日も。

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あれはなんだったんだろう 精神分析

見えないことの扱われ方

山梨銘菓「くろ玉」、かわいいし上品な美味しさだった。

どうしてこの人のやることは支持されてこの人のやることは事件にされたのだろう。行為としてはほとんど同じなのに、と話すことがある。ここでも「あれはなんだったんだろう」シリーズで書いたと思うけど主にセクシュアリティに関することは思弁ではなく具体的に個別的に考える必要があるのでいくらかの加工をしつつ残しておくことが大切だと思う。女の身体が絡む場合はいつという時間の観点も必要だろう。「年齢とか関係ない」とか気楽にいえる人はそれはそれで幸福かもしれないが人の痛みに鈍感でいられているということかもしれない。

友達と話したりnoteに創作をしていると支配や搾取の芽は欲望がある限りそれぞれが持っていると感じる。同じような体験を繰り返すことで前の体験をなかったことにしたり、抑圧を強めることで別の仕方で表現したり、それらの構造を探りつつ目の前の相手との関係で葛藤したり、それぞれのあり方でそれらの現れ方や外からの評価は全く異なると感じる。でも一番感じるのはそれが問題や事件として認識されるかどうかはそれまでの環境が少なからず影響しているということ。環境というよりは構造といった方がいいかもしれない。

SNSにみられるパターン的な共感、同調の行為は自己顕示欲を見知らぬ人に満たしてもらうことを可能にしただけでなく、かわいいと思えなくなったら捨てられてしまうペットのように扱われる人、そう扱う人を増やしたかもしれない。「まさかそんなことをする人とは」というほどにも近くない「良い」部分だけで関わり合える関係における共感、賞賛はそれを受ける人には気持ちよく、そうでない自分、そうでない関係を葛藤的に否認したりしながら様々なネガテイブな気持ちと関わり合う面倒を減らす効果もあるのだろう。ひとりをポイ捨てしても多くの人が変わらず好きでいてくれている、という量の問題。トロッコ問題を意味のない問題設定としていたあの人も自分のこととなるとそんな感じだった。大丈夫、みんながいる、という場合の意味も変わってきているのかもしれない。

二次被害、三次被害という言い方をすることがあるがその言い方ってどうなんだろう。たとえばポイ捨てされた人が傷つき続けるか、回復するかは確かにその相手がその件で社会的にどう判断されるかも関係するだろうし、その人が元々持つ資源や環境やその後のケア的な何かと出会えるかどうかも関係するだろう。一方、二次三次とかでなくただずっと継続して膨らむばかりの傷つきもある。これは何よりもその出来事の終わり方が関係しているのではないかと思う。心身を密に付き合わせるなかで積み重ねてきたものをどう扱われるのかというのはその人の人生を左右するでしょう。周りからは決して見えないことに対してお互いがどう責任をとるのかということでもある。難しいけど今日も生きていかないとね。いかないとってことはないけどなんとかがんばろ。

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あれはなんだったんだろう 言葉

実験、「あと」、「被害」

資料を作らねば、と毎日言っていて、それなりに作っているのだけど次から次へと。ここに書くようなことと違って吟味が必要なので時間がかかってしまう。がそういう作業が背景にないとこんなところでこんな実験みたいなことをしていても意味がない。私にとって、だけど。ここは実験場所だったり自分の状態を確かめる場所にもなっているから。言葉が出てくるスピードとかトーンとかは自分にしか感じられていないのだけれど内容よりもそっちの方に意識を向けて今日のそれがどうであってもしいつもと違うならどうしてかということをなんとなく考えながらこうしている。バスケ部時代に連日とてもきついフットワークをやっていた。身体の動きとしてはもう染み付いているから、というか新しい動きが加わるときにそれまでの動きがいかに染み付いているかがわかるのだけど、そういう自動的に動く身体を基盤とした行為に無意識が宿っている気がするのかもね。身体の調子が悪い時って意識的には何も考えてないみたいな状態になりにくいもの。バスケで怪我したときみたいに庇いながら動く

とどうしても全体のバランスが悪くなるし。というか当時結構な怪我してても部活休まなかったのはどうしてだろう。普通休むだろ、と今なら思う。いろんなおかしなことをしてしまってるよね、毎日。きっと今日も何かしらするでしょう、あとから思えばどうしちゃったんだよみたいなことを。その「あと」がいつになるかわからないけれど。

ここ数ヶ月、被害と加害ではなく「被害」についてずっと考えている。臨床では加害者臨床ということがあるのだけど被害者臨床とは言わない。普段の臨床で被害か加害かで考えることも少ない。そんな単純ではないから。それでもある出来事から「被害」と呼びうるものが確実にあることを知ってそれについてずっと考えている。その人がそういえばそう、みたいな言葉の使い方ではなくてむしろそういう風な言葉の使用を含めてその言葉が使われる意味を考えている。

あ、資料作らねばだった。あと少し。東京は今日は晴れ。昨日も晴れだったっけ?とにもかくにもどうぞお元気で。怪我とか風邪とかにも気をつけてお過ごしください。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 読書

マアム、「心配」、上野千鶴子

とても大きくて甘い苺を食べて調子に乗って苺のカントリーマーム、違うマアムか、いざ書くとなるとわからなくなるものね、書いてみてあれ?と気づくものでもあるけど、こうやって。そのね、カントリーマアムをですよ、あれ温めると美味しいでしょう、だから電子レンジにインしてチンしたわけです。ちょっと背中向けて冷蔵庫開けたらPPPってなって振り向いたらすごい煙。警報器がならなくてよかった。カントリーマアム一枚で朝っぱらから何やってんだ。煙追い出すために窓開けたからせっかく暖まったお部屋もまた冷えちゃったしもう苺の色もなくなったマアムをちょこっと齧ってみたけどだめだ。焦げすぎて食べ物ではなくなってる・・・というブルーな早朝でした。空はまだブルーではないですね。うすーい水色。それにしてもあんなお焦げになってしまっても甘い匂いだけはする。マアムの甘味、力ある。

このブログはうそほんと話の集積だってここでよく書いてるけど意外な友人がこれを読んでくれていたらしくしかも心配までしてくれた。全部ほんとの話だと思ったみたい。別のところでも書いたけどここは私が小さな頃から見たり聞いたり読んだり体験したりしてきたもので臨床上のリアリティと結びついてある程度パターンになっているものを素材に指が動くままに書いている。それがどんなささやかなものであったとしてもなんらかの体験に基づかない文章なんて書けないとはいえ吟味が必要なことはこんなサラサラ書けない。実際の体験ってものすごい複雑で、しかも具体的な相手がいる場合は言語も相当不自由になる。精神分析では自由連想と名付けられたものがいかに困難かということを体験するわけだけどそれと同じ。書きものでも指が動かなくなる。年末年始の休みの間はまるで書けなかった。仕事で構造化されている日常から離れたことでパターンが見出せなくなってしまったみたいだった。その分、知らない土地で新しい体験もたくさんできたからそういうことを重ねていくうちにいずれそれらもここで書けるような形に変化していくんじゃないかな。フロイトは「欲動と欲動の運命」のなかで精神分析が科学であるということをいうために体験と抽象概念の関係を冒頭で述べているのだけど、それはフロイトがいわゆる4大症例を体験した後だからこそのこと。それはそれとして、たとえここで書くことが全て今の私に起きていることだとしても心配しないで大丈夫。というか「心配」って力のある言葉だと思う。早速この言葉をめぐるキッツイエピソードも思い出すけど加工できないくらい生々しいので書き言葉にできない。みんなが「心配」って言葉を使うときはどんなときだろう。この言葉はとても興味深い言葉なのでまたいずれ。書きながら自分の状態を観察しているとも何度か書いたけど、今こうして思い出すとキッツイエピソードに対して「あれはなんだったんだろう」という問いが生まれて少し距離ができる。ごろんと転がしておくしかなかったナマモノが思考の対象になってくる感じ。昨日も書いたかもだけど言葉にすればいいってものでは全然ないのだけど言葉にしたときのこういう動きには十分な注意を向けることが大切だと思う。

あ、時間が経ってしまった。インスタにも載せたけど今『上野千鶴子がもっと文学を社会学する』(朝日新聞出版)を読んでいて読み耽ってしまっのだ。私は上野千鶴子の書くことには違和感も多いけどその違和感がどこどこのこの部分って特定できるくらいはっきりした文章だと思うからもやもやもしない。それでも言葉にするとなると曖昧になってしまう。そういうのの明確化に付き合ってくれる先生みたい。そういう意味でも強い。対話を拒む書き手もいるものね。今朝は何気に力とは、強さとは、ということも考えつつ書いていた。カントリーマアムの甘い香りが残っていたところから。言葉にしてるのってほんと一部。今日も少しずつ何かしらやりましょう。

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「昭和」

へー、あの「女子」匂わせやめたんだー。匂わせっていうんでしょ。昭和のおばはんってキモいね。

黒歴史?かまっておじさんの自己アピールかと思ってた。あんな自分語りに感動?マジウケル。昭和。

個人の問題、家庭の問題にしたいならあえてそう呟いてんじゃねーよ。お前の守りたいものだけ守るために個人や家庭の問題に首つっこんできてんのおまえじゃん。昭和から生きててそれかよ。おまえが家庭に帰ってからいえよ。

昭和で一括りにされるの迷惑な気がする。けどしかたない。その時代を生きてきたんだから彼らからみたら同じようなもんだ。推しへの愛を語るあの口調のまま親世代の性愛をバッサリ切り捨てる次世代たち。ちょっと考えればたしかに、と唸るしかないエピソードばかり。「昭和」とまとめてバッサリ切り離さないとやってられないだろう。

「え、あれみて泣くの、え、そこで、うわっ」とまた「昭和」呼ばわり。たくさんぶつけてこられるだけましな大人認定されてると思う。ガキくさい大人がいくら偉そうなこといっても、もガキくさいの部分。きみたちも大人になればこんなもんなんだってわかるよといってしまうこともあるけど今そんなこと言われてもね。うん、たしかに。

大人のあれこれをみせられる子どもの苦悩は大人をキレさせるやり方をとりがち。大抵彼らは実際に起きたことはひた隠しにしている。性に関することは大人だって言葉にできない。子供ならなおのこと。

だったらあれもこれも全部いえよ、きれいごとにしてんじゃねーよ。

大人の事情で逃げる自分を感じつつなかったことにしようとする対話回避のきれいごとおじさんおばさんの力に蝕まれつづけていることも感じる。

こんな世の中どうやって生きていこうか。とりあえずこういうやりとりは続けてこう。あなたたちまで黙らせるような大人はまずいだろう。声をあげよう。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。

そもそも

累積.身体化。よくある話。季節性。降り積もる。溶けない。儀式が蘇らせるその年の同時期の記憶。よく聞く話。

毎日立ち上がるのにひどくエネルギーがいった。コロナで緊急事態宣言が出て1年、久しぶりに遠出をした。慣れなければとなぜか思っていた。こんなことではこの先もっと辛いだろうと。累積。身体化、不眠。DVやアル中のカップルみたいな関係にはなりたくない。朝か晩に思い出してお決まりの挨拶をする程度にしか私の存在を覚えていられない日があることを神妙に謝り、その帰り道から自分と似た露悪的な人にあからさまな興味を示し、見たいです聞きたいですお目にかかりたいです!と声をかける。家庭を省みるってなんだっけ。仮の宿で補っているからいいのか。それがいくつもあれば優先順位とかどうでもいいか。話し合えただけ未来を見据える余裕があった時期だった。またこの季節がやってきた。コロナも相変わらずだがこれには用心しなれてきたという感じがある。変わらない。相変わらず。以前ほど無邪気ではないが時折家庭人っぽいことしていいねを集める。都合のいいときだけやれる相手が愚痴らず愚痴を聞いてくれるならなおいい。施しのような優しさとして物を与え身体を弄る。ここまでしているのに不快にさせられるなんてありえない。いい人でいたい。思春期のように可愛らしく一緒にいたがってくれる人ができた。もちろん思春期のはずはない。これまでの身体はそこにあるからいじるだけのものに。心とかどうでもいい。この二人にはものすごいずれが生じている。実際の小さな傷を負いながら限られたなかなんとか一緒に…と願うもう一人に第三者はあっさりいう。共有していると思いこもうとしていた?行動をみれば明らかな幻想でしょう。変わると思ってた?いつも相手ある相手と二人きりにという癖も?この前もテレビでやってたよ。そういう人が必ずやること。そのまんまじゃん。ため息。そう。ため息もいつものこと。ちょっと言い返せば不機嫌になる。動かせない「仕事」。頼まれたから。求められてるから。「仕方ない」「仕方ない」何も言ってないのに。まだ無邪気な人の「いい日だった」に微笑み一方でもう要らないんだよ、理由はお前にあるんだよ、と育てる敵意。ペットも人もサブスクか。心ない時代。そんなある日いつのまにか刺した刺されたという話になっていた。唖然。しかしなにをいったところでそもそも、とまた言われる。お互い気持ちよかったんでしょう。誰かを裏切っているのだからせめて絶対に、と思うのは独りよがりだよ。裏切りは裏切り。嘘に嘘を重ねられてきたとしてもそもそもは…。そう。悪いのは自分。罪悪感さえ共有できないことを責めることもできない。そもそも悪いのは自分。あからさまな力関係に勝手に巻き込まれていったのは自分だ。でも・・。

無限ループの例はここにもこうやって。累積。身体化。降り積もる。溶けない。この時期はいつも。大きくみればよくある話。全部物語だったなら。行動で物語は完結しないがとりあえず人を行動に駆り立てる物語化というものについて考えながら書き散らしてみた。

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語り、消費など

疲労困憊、おなか痛いとか思いながら美味しいりんごを食べたり美味しいかりんと万頭を食べたりいただきものに美味しい美味しい言っている。深刻で呑気。死にたいけど生きてる。みんなそうでしょ、とは言わないけど両立する状態って色々ある。

たとえば、するならそれ相応のリスクを負う、絶対に隠し通さなくてはいけない、そう思っていたのは自分だけで相手は都合のいいところだけ切り取って絶対的に味方でいてくれる相手(いろんな心地よさの維持によって可能となっている関係)に伝えてたと知ってビックリすることがある。マジかよ、と頭を掻きむしる事態に現実的な対応を考えつつ、ああ、またいつものガキくさい感じで(言葉遣い)最新の知見で防衛しながら不満と怒りを出して「えーひどーい」とか言ってもらってるのだろう、ごはんとか食べながら、と呆れ果てる、みたいな。恐ろしく深刻なことを「ビックリ」とか「マジかよ」と表現できるとしたら絶対にこんなことあってはならないと思いつつもアイツならやるだろうと思っていたかもしれない。だったらどうしてそんな相手と~、とひたすら「あれはなんだったんだろう」的な問いの中に居続けるか、戦いの文脈に変えて白黒つけるか、現実的な対処も色々あると思う。なんにしても「好きでやってる」「気持ちいいからやってる」と言われる事態でもある。被害者に対してさえそう言う人はいるのだから。実際脳科学の知見はそんなようなことになってるんじゃなかったっけとかね。でもね、という場合に精神分析の理論は役に立つけど複雑だから書かない。書けない。そうでなくても脳科学的にそうであったとしても身体の状態とか生活状況的に持ちうる時間とか色々違うので個人の話に今それ持ち出すのやめてもらえないかな、と思ったりはする。

女性が女性の話を聞く話、それについて書かれた本については何度か書いた。彼らが自分のことを自嘲気味に描きつつそれを乗り越える書き方をしているときいろいろ感じることがある。決して笑えない苦しい話を笑ってしまうこと、笑いながら話すことは日常的に皆やることだと思うがそれを「消費」する男性のことを思い浮かべてまたうんざりする。『キングコング・セオリー』(柏書房)とかに対してもそうだったよね、とか。ただ私の仕事は言葉にできない人たちがとりあえず語りの場を求めてきたところにあるから「共感」との関連でいずれ。高木光太郎『証言の心理学 記憶を信じる、記憶を疑う』(中公新書)とかカロリン・エムケ『なぜならそれは言葉にできるから――証言することと正義について』(みすず書房)とかも参照してあれこれ書いたメモが発掘できれば。

ところで、最新号の『POSSE vol.52(特集:奨学金を帳消しに! 立ち上がる借金世代)』は充実してそう。最近『仁義なき戦い』、潜伏キリシタン、貧困と自殺とかのことを話したりするなかで小島庸平『サラ金の歴史』(中公新書)を読み返しているせいもあるか。途中までしか読んでいなかったかも。これいつ出たんだろう。あ、昨年か。教育の問題と金融の問題は異なるだろうけど。人間相手という場合も色々だねえ。AIのことも含めて考えざるをえないけど昨日も書いた「性的モノ化」について考えておくと応用が効く気がする。

ああ、あと開業場面はそのお金を払える人たちが来る場所だからっていうのはまあそうなんだけど、そうでない人も来ることがあるとかそれもそうなんだけどそういう話ではなくて、ものすごい貧困を生きてきた人や貧困との関連で病気になったり様々な症状を抱え社会的にもとても難しいことになって通ってくる方もおられるわけで。お金と心の関係とかその資源の利用とかってものすごく複雑だから表面的には語れない。なんだってそのはずだけど。いろんな方々のことを思い出しますね。

オンラインの仕事が始まる時間。はあ。心身というより身体が辛いなあ。頭はこんなこと書ける程度には機能できるか。相互作用の力を信じてるからきっと大丈夫。痛い辛いしんどい色々言いながらなんとかしましょう。

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あれはなんだったんだろう 精神分析

なかったことにしない実験

サッカーも大河もみていなかったけどなんとなくは色々知っている。断片だけでもおもしろい。三谷幸喜はすごい。大人になるまでほとんど勉強してこなかったから日本史も大河ドラマ以外では知らないのだけどなぜか北条時政が好きだった、というか北条すごい、と思っていた。でも大河ドラマで誰かがやっていた北条のことなんて全然覚えていない。いたに違いないけど。でもこの前鎌倉へ行ったときはなぜかしみじみしたな。何繋がりかしら。あ、そうか。私の少ない知識は全部まんがからだ。「日本の歴史」。小学館かなあ。平将門も好きだった。多分かっこよく描かれてたんだろうね。大河で見たときにイメージ違ってがっかりしたことを今思い出した。独眼竜政宗の梵天丸の真似は大人になってもよくしていた。なんだったんだろう。サッカーみていたみなさんは寝不足かしら。せめていいお天気でよかったですね。今週もがんばれますように。

「今年は」という振り返りをするような区切りが昨年も今年もなかった。昨年末、久しぶりに旅へ出たことはひとつの区切りとなったけどもっと別の特別な区分が自分の中にできてしまった。もちろんいろんな人と「今年は〜」という話をしている。保育園の仕事も「今年度」はまだ3ヶ月あるけどすでに来園度を見据えての話だし担当の半分くらいの園は今年度の巡回を終えた。

「あれはなんだったんだろう」と問い続けてはダメージを深めそのダメージを素材に考え続けることでどうにか行動化を抑え、同時になかったことにしないように時間を引き伸ばしているような日々。終わりがくるとすればそこでようやくひとつの区分ができるかもしれない。

自分を使った人体実験。頭痛と共に何度も突然ぶり返してくる痛みに対してひどく冷徹な自分もいる。自嘲したり卑屈になったりしやすい場合は注意が必要。外傷の記憶となると似たようなことは解離として現れるかもしれない。そんな場合は激しい混乱を注意深く見守ってくれる実際の相手が必要。なかったことにされる体験が反復されないように過剰ではない忍耐強さをもつ相手と共にいられますように。自分の第三者性によって真逆の自分を維持できているうちは死ぬほど苦しくてもとりあえず大丈夫と思えないとこんな実験はすべきでないだろう。精神分析は実際の他者に自分の第三者性を預けつつ実はなかったことにできていなかった「あれはなんだったんだろう」を問い続ける。転移状況で再び体験される出来事を通じて当時は感じることも考えることもできずにいたことに気づく。

ああ。こんなことを書いている場合ではないのだった。それにしてもいろんな処理を施しながら言葉にしているわけだけどもしそうしなかったとしたら大変なことになるのでしょうね。自分から自分が傷ついた場所に出向いていってしまうことで大変なことにしてしまいたい衝動に拍車がかかるでしょうから。もちろんそうなったらそうなったでこちらは手放すようなことはしないけれど。

人の心をどう捉えるかはその人が持つモデルによって異なるしそのモデルはその人の体験によって異なるから本当に人それぞれ。でも「人それぞれ」とかいってなかったことにしていくあり方はあまりに安易だと思うしひどいなと思う。本当になんとも言葉にしがたいことばかりだけど今日もなんとかはじめましょう。またね。

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あれはなんだったんだろう 精神分析 読書

身じろぎ

お寺の鐘が鳴っている。なんだかちょっと掠れたような。ちょっと頼りないような。

昨日書いた心と法の具体例みたいな案件が上がっていて驚いた。それにしてもSNSは、という感じはする。「名誉毀損」の重みって、とも思う。例えば慰謝料請求とかの場合、関係のプロセスで相手と直接コミュニケートできない状態だからと本人に請求するのではなく会社にとかしてしまったら逆に名誉毀損で訴えられる場合があるわけでしょう。どっちにしてもお金以外の解決は見込めないし。法って本当にうまくできてると思う。心の問題として考えるととても残酷とも思う。

「権力をいかに見定めるかによって女が被害者にも、加害者にも、抵抗者にも、抑圧者にもなりうることを示してみせた」

もろさわようこ『新編 おんなの戦後史』(ちくま文庫)の解説で斎藤真理子が書いている言葉だ。本当に女の位置ってこういうことなんだと思う。この本の刊行イベントでの話も興味深く関連の本も読んだ。今年はジェンダーに関する本をたくさん読んだ気がする。内容はあまり覚えていないが多く読むとさっき読んで納得していたあの説にはこういう背景とか反論があるのかとか知れるからそんな偏った取り入れにはならずにすんでいるのではないかと思う。きちんと後から使えるように読めばよかったと今は思うが、日々の幸福と苦悩をまずはじっと自分の中にとどめるための無意識的努力だったと思う。表現するならSNSなどではなく直接相手にと思っても自分自身の抑圧と相手からのさまざまな水準の圧力で言葉にできないという体験も多くした。いまだに「身じろぎできない」体験をするんだと自分でも驚くほどダメージも受けた。「身じろぎ」という言葉も斎藤真理子が取り上げたもろさわようこの言葉だ。「相手あること」については「あれはなんだったんだろう」という題名で書いた文章で何度か触れたと思う。あれはなんだったんだろうという問いは自分のこととなればたとえ事実を周知したとしてもなんの答えも得られない。

「みんなはどうしているのか」仕事でもよく聞く言葉だ。でも二者関係を第三者に開くことは問い自体を別のものに変えてしまうだろう。みんなではなくあなたであり私だ。もうそこに相手はいなくても「相手あること」なのであり引き受けるのは私でありあなただ。あまりに苦しいけど迫害的にならずそのせいで攻撃的にもならず耐える必要がある。構造の問題がすでにあるのは明確でも「名誉毀損」という法的判断は両者に同様に適用されるのが現状であることを思えば「賢く」動く必要がある。それについて考える自由は奪われていないのだから。

「行動」ではなく「言葉」で、というのは精神分析の基本だが言葉にしたら行動化への衝迫に駆り立てられるのもまたよくあることだ。どこまでとどまれるだろう。そして再び「身じろぎ」から始めることはできるだろうか。

今日も一日。実際にはもういない「相手」が残した問いに沈みながらであったとしても。

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あれはなんだったんだろう 精神分析

簡単ではない

明るい。バタバタ動いていると暑いくらい。暖房つけてるからだけど。冷たくて脅すような言葉にゾッとした。そのときの感覚が繰り返し襲ってきて眠れない。悪意やなにやらをこちらに押し付け身軽になった人の軽薄な喋りを今日も聞かねばならない。ミュートにしても何をしてもあの声が離れない。ああ、今日も生きたまま朝を迎えてしまった、と絶望しながら始まるような朝でもとりあえずはじまった。いろんな朝がある、きっと。おはようございます。

私はとりあえず朝から拙い英語を久しぶりに喋った。母国語でも通じないことが前提だと思っているけど通じない体験をもっとした方がいいように思った。通じると信じている人には「なんでわかんないの」という顔をされることもある。ため息だってつかれてしまうこともある。ついてしまう場合もあるけど。カルチャーショックとか「文化が違う」とか言う人もいる。ちなみに私はこの表現が苦手。あなたのカルチャーって?文化って?と思う。

簡単に判断しない。勝手に自分流に受け取らない。でもそうしかできない。だから傷つき傷つけあう。そんなつもりはなかった、と言いながら。大事なのはそうであっても自分の拙い言葉でもなんとか表現してみようとする意志とそのためのエネルギーかもしれない。ただ多くの場合、通じない事態が生じるときは何を言っても通じない事態、つまり相手がもう言葉を受け取ることを拒否している事態なので愛情と呼ばなくても相手を想う気持ちがない場合はもう無理かもしれない。「もうおまえにさく時間もエネルギーなどない」とかはっきり言ってくれた方がまだ楽だったりする場合もある。

謝るまでは許さないという態度を維持する人が謝ったらころっと態度を変えていうあの一言、その直後に平然と振る舞う軽口や笑顔、多くの女性が経験している気持ち悪さと絶望。こんなに長く苦しく情けない時期が続くなら最初から会いたくなかった、と思っても会ってしまった事実は消せない。悲しくて寂しくて虚しくて眠れなくて幸福と思えた瞬間がすべて「あれはなんだったんだろう」に変わってしまう。唖然とし思考停止が続く。相手あることをそう簡単に片付けることはできない。特に受け手の側は。こういうリスクを承知のうえで私たちは繰り返す。愚かかもしれない。それでもそういうものなのだろう。

だからこそと言わなくても専門的な仕事では当たり前のことだが精神分析みたいに頻繁に長い期間会い続けていく方法にはこの最初のアセスメントが本当に大事。お互いに。終わるときも終わりにすることについて話しあう期間を治療者側は提示する。それを受けるか受けないかは患者次第。とにかくどちらかがコミュニケーションを断つようなことにならないように注意する。様々な手法は現実の人間関係で起きていることを詳細に吟味し積み上げていくところから生まれてきた。簡単ではない。

インドの女性の精神分析家と話したことでいろいろ考えたのだけどそれはまた今度。

(upし忘れてた。今日はもう始まってる。みんなはどうかな。良いこともありますように!)

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

そうでもしなければ

サッカー、後半寝落ちして結果が決まったときの音声で起きた。途中何度か目を開けてそのたびに見たばかりの夢を忘れた。

今朝、ハンセン病患者に対する人権侵害のニュースをみた。する側される側のどちらでもありえた、そして対象が異なれば今まさにあるいはこれからもありうる人権侵害や差別の当事者としての自分を意識する。「ケア」に関する様々な言説にうんざりしがちだがそれは精神科医療の枠組みに入る以前から病気を生きる人たちが身近だったからだろう。「病気」という言葉も知らなかった。

ここでは自分の体験とも離れずかつ他者とも共有したり話し合ったりしやすい男女関係における「あれはなんだったんだろう」を書くことが多い。もちろん描写にはうそもほんとも混ぜ込んでいる。「ほんと」のことなんてものすごく複雑でどう書いたとしても想像が届かないものなのでほとんどうそともいえるが。あれはなんだったんだろう。長く続いている多くの友人関係やだいぶ長くなってきた臨床経験でもそのプロセスに激しい怒りを、そしてその起源に強い空虚を含む問いが皆無というケースは少なかった、というかあっただろうか。もちろん私の臨床は精神分析理論が基盤であり設定もそれに向けてなされているのでそのような問いが生じるのは必然であるのかもしれない。

などと専門的なことを持ち出そうとしなくても基盤となる身体に大きな非対称をもつヒトのセクシュアルな関係がお互いを不安定にすることは大方の人にとって実感を伴った理解が可能だろう。そしてそれが第三者の否認にあいやすいことも体験的に共有できるだろう。自分でだって認めたくないのだから。特に女性の場合は主張の仕方に工夫がいるということもしょっちゅう言っている。通常の関係よりも暴力性が作動しやすい関係をあえて精神分析理論からみるなら否認と投影同一化の機制で考えるかもしれない。

私は精神分析において患者でもあるので自分の病理ともずっと付き合い続けている。だから第三者的に書いたり誰かの言葉を簡単に使うことは避けたい。上手にそれができる知性がないともいえるがその人の言葉はその人のものなので、と思うし私の言葉もそうやって扱ってほしいと願ってきた。また知性化によって体験を遠ざけてはまた同じことが起きるだけだと考える精神分析に同意して時間とお金をかけ続けているのでもしそれを自分がするとしたらそれはどうしても自分の方が変わるのは嫌というナルシスティックな部分による防衛だろうと考える。私の立場と能力でできることはつたなくても体験を言葉にしつづけてなかったことにしないということだけなのだろう。とどまらずコミュニケーションもせず被害感で記憶も出来事も塗り替えていくような事態に私は警戒したい。それで保たれる健康も保ちたい関係もあるだろうから「あくまで私の場合は」という話。正直自分の記憶だってどんどん上書きされていく。正直薄れてもいく。そうじゃないと辛すぎる。死にたい死にたいしか出てこなくなるかもしれない。でもだからこそ思い出す。これまでそうやってなんとなく曖昧にされ繰り返されてきた侵害や暴力のことを。いえずにきた不安や恐れのことを。記憶しつづけることは想起しつづけずっとその内側に居続けることだ。忘れてしまった方が楽だろう。距離をとったほうが楽だろう。でもだから女性たちはずっと怒り続けてこなければならなかったのではないか。そうでもしなければ忘れられてしまう、自分でも忘れてしまう、そうしたら社会が私を差別する以前に私が自分で自分を葬り去ったことにならないだろうか。そんな私は同じ体験をしている人たちに害を加える側になっても気づかないのではないか。変わらない変わらないと嘆き怒っていた構造に自ら取り込まれていくことに抵抗したい。どうしたって自動的に絡め取られているとはいえ。「害」ってなんだろうということだって引き続き考え続ける必要があるのだろう。

さてそろそろ行かねば。はじめてきたこのファミレスは静かだった。朝のファミレスは大体静かなイメージがあるからこういうものなのか。私がやたら着こんでいるせいか「この席が一番暖かい」という席へ案内してくれた。電車は早朝から混んでいて苛立った人たちも多かった。久しぶりの駅を降り時間を過ごせる場所を探したが見当たらない。東京なのにと思いつつ歩いていたらここがあった。

今日は火曜日。こうして曜日を呟いておかないと色々忘れそう。なんかいいことあるといいね、大雑把だけど。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 言葉

無駄ってなんだったんだろう

「あれはなんだったんだろう」の時間は「余裕」があるときにやってくる。睡眠時間はそのための「余裕」ではないはずだけれど追い詰められる時間が長ければそんな変な認識にもなってくる。


「無駄な時間をありがとう」といわれた。曖昧に笑った。心が曇った。心があるとしたらの話だけど。なんの余韻も言葉もなくひきはがされることには結局慣れなかった。言葉や仕草の乖離やわからなさを埋めるのに消耗した。そういえば「無駄」って國分功一郎さんや藤原麻里菜さんにいわれたならうれしかったかも。そういうつもりだったのかな。誰かの真似が多くてよくわからなかった。どうにかこうにか大好きな気持ちと折り合いをつけようとしているうちにもいろんなところが裂けていった。傷口がふさがる間もなく。何か答えれば馬鹿にしたように首を傾げられたりため息つかれたり不機嫌になられたりした。最初はからかわれてるのかと思って情けない気持ちで笑ったりしてたけどだんだん怖くなった。「あれのこと?」といったら「わかってるじゃん」とうんざりされた。え?普通に考えたらわからないからわかろうと思っただけなのだけど。同じスピードで処理できないよ、あなたが見下すとおり馬鹿なんだから。体調が悪いことも増えて病院へ行く時間も増えた。体調が悪い、今日は病院、と伝えてみたけど思った通りお決まりの愚痴が返ってくるだけだった。SNS との乖離がすごすぎてこっちを信じていたけどそっちがほんとだったみたいでびっくりした。ほんとあれはなんだったんだろう。唖然としつづけている。文字情報のない世界に生まれたかった。あれはなんだと問わなくてもいいように。


そう、言葉は怖い。相手がどんどんなかったことにできるのは言葉のせい。だから逆に言葉でそれを大切に保存していく。いずれ戦うならそのために。一方的に戦いの言葉にされた気持ちを取り戻すならそのために。

それではそんなこんなでも良い日曜日を。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

うまくできてる。

書いては消し、ということをわざと繰り返す。ここでそれをすると「間違って」公開してしまう場合があるのでここではなくて。「相手」あることに対しては相当に相当に慎重にならざるをえない。人ってうまくできてる、と思う。それを「支え合い」と呼んでいた時期もあった、といえるほどに移ろいやすい人間関係。「一年あっという間」と感じられるように寿命を短いと思えればこんな苦しみなんて、と思えていいのかもしれない。でもそんな簡単じゃない(これまで何回この文章を使っただろう)。また「あれはなんだったんだろう」の時間がはじまる。

といっても疑問にのみこまれているばかりではない。まるで実験対象のようにされた時間を今度は自分が調査対象にしている。知ることでどうにかしたい。そうでもしないと「間違って」色々してしまいそうだ。人ってうまくできてる。でも直接的に関わりのない誰かを傷つけないためにその理性は必要だ。本当に悲しいことに。こういうのも「ケア」について語るときの困難と通じている。

さて、あれはなんだったんだろう。どうしてあんなことが可能だったのだろう。

たとえば「気持ちいい?」ときかれて頷いてしまうとき、それが全くの嘘の場合、言われればそうかもしれないという場合、そんなことないけど相手を気持ちよくさせたい、あるいは怒らせたくないのでという場合、なんとかの場合なんとかの場合といくらでも答えはあるだろう。嘘にも本当にも色々ある。

精神分析では去勢と倒錯は常に中心となる概念だが、実際の性器とこころの関係は恐ろしく複雑で言葉がそれをどういう形で記述してくれるかがその人の人生を変えたりもする。ましてや実際の接触がある場合、男女の場合だったら非対称性は否認できないものとしてそこにあるし、同性同士の場合でも差異は何気なく気にされつづけそれが言葉や身体の力の使用に影響を与えたりもする。

などなど。もう行かねば。ネバということはないのだけど仕事までにしたいことがあるのだ。自分や相手や見知らぬ誰かの欲望とどう関わるか。答えはひとつではない、と思えることも「ケア」の基盤だろう。あなたがどうにかしてしまいたい相手にも「相手」がいる。だから答えはひとつではありえない。常にそれがすべてではないのだから。人ってうまくできている。本当に苦しく悲しいことに。

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あれはなんだったんだろう

願うことが罪だった

思うだけなら自由、とよく話す。「自信がない」と言われれば「自信があるって何」という。「そんなつもりはなかった」「それはそうでしょう。自分でわかっていることだったらこんなところいらないわけだし」。

あー人間ってめんどくさい。人間以降を想定しつつ実際にやっていることの浅はかさ。それを愛せるときも死んでしまいたくなるときもある。

あ、寺の森の鳥たちが飛び立つ時間だ。すごい声。空の一部を黒い模様が移動しては消え、また現れを繰り返す様子をみているときは内と外が反転しているような感じになりませんか。心に空を抱えこむように。ルネ・マグリットの絵のように。

相変わらず「あれはなんだったんだろう」に囚われつつも鳥と空までの手が届かぬ距離、つかず離れずの関係に別の可能性を描こうとしているのかもしれない、無意識的に。わからなさに慣れ衝動をこなそうと頭痛と不眠に悩まされた日々を無理に学びに変えることはしないでもいいけれど。「ただ一緒に」そう願うことが罪だったなんて思いたくない。そんなつもりはなかったんだから。それがあなたを傷つけたと言われれば申し訳なかったというしかないけれど。また沈み込んでいってしまう。

動かねば。みんなはどうかな。もう動けたかな。それともちょっとのんびりできそうでしょうか。それぞれなんとか過ごしましょう。今週も一日一日。

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あれはなんだったんだろう

ぶりかえす

この状態、いつまで続くんだろう、と思いつつとりあえず外へでる。生活をしなくてはならない。何度も何度も急にぶり返す痛みと混乱。高熱のときみたいだ。とても笑える状態ではないが「なんだ、これ」と自分なのに自分ではどうにもできない状態に自嘲気味にならざるをえない。あれはなんだったんだろう。囚われては苦しむ。相手を変えるだけで、何らかの形でぶつけるだけで楽になれる人もいるのは知っているが私は違うからとどまるしかない。

思考停止。やるべきは仕事。生活。そういう状態の人たちへ。

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あれはなんだったんだろう うそもほんとも。 精神分析

「あれはなんだったんだろう」

ゲンロン友の会のグッズを開封したままリビングのテーブルにおいておいたのをようやくきちんと見た。東浩紀の言葉が書かれた手拭いつき。勢いある。「ゲンロン友の声セレクション」はいくつかすでに読んだものもあるが書き下ろしもある。

久々にみるというか流しているNHK俳句はゲストはピアニストの金子三勇士。なんだか立派な名前だ。選者は星野高士。池内友次郎という俳人がいるのか。おお虚子の次男で音楽家なのか。星野高士からすると?大叔父とかいうのかしら。わからない。

流れ行く大根の葉の早さかな 高浜虚子

に曲をつけたのか。かな?きちんと見ていない割にそっちに引っ張られる。あ、洗濯物ができた。洗濯物ができた、っていう?干してきた。今日は雨が降るんでしょ。乾燥してるから少しありがたい。まだ空に水色が見えるし鳥も元気に鳴いている。雨でも同じ景色は見えるし同じ音は聞こえるか。コーヒーは冷めてしまった。

3日連続「あれはなんだったんだろう」という題で書いた。一緒にいる間は気づかないふりをしていた不安や疑惑。実際の傷のことも書いた。あの日のあれ、あれはなんだったんだろう、といくつかの場面を切り取った。

どうにもならない気持ちをどうにかするために私たちはなんらかのアクションを起こす。

東浩紀はゲンロン友の会特典の手ぬぐいに「対話は時間こそが本質で、心を開くことは最大の贅沢」と書いている。本当にそうだと思う。「なのだけど」と東は続ける。時代のせいなのだろうか。それもあるだろう。

Netflixで「天気の子」やってる。いかん、また注意がそれてしまった。テレビで見るとすぐに注意が逸れてしまう。普段テレビは全く見ないのに。

「僕と彼女だけが知っている」そう。二人だけが知っている。「あの日みたことは全部夢だったんじゃないか。でも夢じゃないんだ」そう。夢じゃない。

だから「あれはなんだったんだろう」と問い続けることになる。夢だって「あの夢はなんだったんだろう」となるだろう。だって夢を見ているのは自分で結局自分の体験と切り離すことはできないのだから。

新聞や雑誌の相談欄をみてげんなりすることがある。「それはモラハラです」「それはセクハラです」というあなたはどなたと思う。こういう投稿欄はそういうものだとわかってはいる。相談してきた人に「寄り添う」ものだ。(「女が女の話を聞く」ことの意義と関連づけて考えている)

あれはなんだったんだろう。そう考え続けること、相手はもう実際の対話相手としてそこにはいない。それでもあのときの違和感、あのときの不安、あのときの恥じらい、あのときの喜び、あのときの悲しみに囚われている自分を否認しない。無理せずにさっぱりできるならいいが、無理してまでもう過ぎたこと、終わったことにしない。実際にあの人がいてもあんなにくっついていても言えなかったことばかりだったではないか。思えば思うほど言葉を使うのが下手になる。不自由になる。涙を堪えることが増える。怒りを溜め込みやすくなる。だから会わない時間こそ重要だった。あれはなんだったんだろう。ただただ大好きだっただけなのに。この年齢からの先なんてそんな長くない。一緒に乗り越えていけるかと思ってた。そんな勘違いもすでに笑えたとしても悲しい気持ちを忘れない。

あれがなんだったのか、答えがほしいわけではない。そんなものはないと知っている。お互いのことだ。外からはわからない。二人のことだ。それでも今の私には私からしか書けない、という以前に私は女が何かを書くときはまずは一方的に主観的に書く必要があると思っている。「ひどいことを言ってきたのはみんな女」とか女が男に相談しながら男との依存関係をうやむやに作っていくあの感じからはとりあえず距離をおきたい。私たちのすれ違いは単に個人的な事情によるものではない。最初からある構造上の問題。それを意識しながら別の誰かや誰かとの話と混ぜこぜにした嘘ほんと話に仕立てながらあなたに感じた「あれはなんだったんだろう」を考えては書く。対話は断たれた、としてもこれも対話なのだろう。あのときのあなたとの。あのときの私たちとの。むしろ逃れようのない。

精神分析は連日カウチで自由連想をおこなう技法だ。「自由」に連想などできないことを思い知りながら徐々に「あれはなんだったんだろう」と出来事を眺める心持ちになる。そこまでがひどく長い。私たちが「あれはなんだったんだろう」と思うとき「あれ」は結構昔のことだったりするように。

対象と距離をとって眺めるということの難しさは投影同一化といわれる現象に最もよく現れる。私たちはすぐに自分と相手との区別をうやむやにする。その上で自分は正しい、間違っていないと言いたがる。「そんなつもりはなかった」という言葉の空虚なこと。ただ裁くのは法の仕事だ。私たちの仕事ではない。

「いい悪いの話はしていない。」「正しい間違っているの話はしていない。」時折そう伝えながら、巻き込まれ区別を失っては取り戻すことを繰り返す。そうこうしているうちに「今こうしている私たちってなんなんだろう」となる。あのときもこのときもこうだった。これってあのときのあれと同じでは、とさらに別の「あのときのあれ」が出てくる。出来事は自分のものだけでもなくあの人とのものだけでもなくさらに別の誰かとのものになる。いくつもの場面が重なりパターンがみえてくる。

私の気持ち、私たちだけの秘密、そういえばあのときのあの人とも。あれはなんだったんだろう、ぼんやり時間をかけていくことが別の地平を開いていく。その体験を知っていれば耐えうることはたくさんある。死なない程度には、ということかもしれないけど。この辺の基準は人それぞれだと思うが精神分析であえていうとしたら「今よりはまし」というものだろう。こういう現実的なところに私は助けられているし、これだったら役に立つ人もいるだろうと思っている。強い思いこみや空想で何かに到達したり切り拓いたりしていける人もいると思うが地道に今の自分を確かめることで、というのも悪くない。よって私は今日も悶々とする。あれはなんだったんだろう、と沈みこみながら。今日のお天気もちょうどそんな感じかな。みんなはどうだろう。元気でいてくださいね。

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あれはなんだったんだろう

あれはなんだったんだろう3

あれはなんだったんだろう。なにもいっていないのに「しかたない」が語尾につくようになった。なんだかもうこの人にはなにをいっても同じような言葉にしか聞こえないんだなと思った。とても悲しかったしなんだか怖かった。それなのに身体だけは触るんだ。そんなこと何度も言わないだろう、ということをまた言われた。触った相手が誰かももう覚えていないみたい。あれはなんだったんだろう。もう死にたい。

そうつぶやいたらその人は「そんなつもりはなかった」といい、私に「そんなつもりはないというだろうけど」と黙らせながら責めるだろう。私は身体にも傷を負ったこともいえないまま謝罪するだろう。それにこんな小さな痣を傷とは言わない、あの人は。

先日「社会的な死」という言葉を聞いた。死はいろんなところに訪れる。社会的な評価が高い人が彼女にしたこと、裁きを受けてなお平然と取り巻きとと共に姿をみせること、社会的に死なない男性たちに女性たちが蝕まれていく様子を描写することは難しくない。それでも実際のそれはあまりに個別的で複雑でどこかに書かれることはない。そんな体験をもう長い間聞き続けている。途中、たくさんの本を読む時期があるかもしれない。知識が助けてくれる部分は確かにあるだろう。

優しくて怖いその人も知識人だった。戦うために読んでいたのかもしれない。曖昧な立場を利用して戦わずして勝つみたいなことを繰り返している人だった。加害と被害を反転させる伏線を引き続ける人だった。いつでもきれいに回収できるように周りに甘え甘やかすことを怠らなかった。そうやって必死に生きていることを満足させる形で褒めてあげなくてはいけなかったみたい。私はそのために生きているのではないのだけど。いろんなことは「しかたない」んだって。

私の体験でありあなたの体験でもあるこれらはどれもこれもしかたなくはない。あれはなんだったんだろうね、本当に。眠れずに問いつづける空虚さは耐えがたい。死にたい。それしか浮かんでこなくなる。その間にも社会的立場を利用したやり取りをあなたは目にしつづける。死にたい。それはそうでしょう。でも今日もなんとか目を開けよう。世界は残酷だけど見えるところから見ていこう。いつか「死にたい」が「あれはなんだったんだろう」になりなんらかの答えが私たちのこれからを助けてくれますように。

刺繍で作品を紡ぎつづける沖潤子さんの娘さんとのエピソードが素敵だったので写真載せておきます。Instagramに他の作品も載せようかな。よろしければ。

沖潤子

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あれはなんだったんだろう 精神分析

あれはなんだったんだろう2

あれはなんだったんだろう。どうして最初から身体に触れようとしてきたのだろう。気づかないふりをした。気のせいだと思うようにした。でも違った。なんの言葉もなかった。ただ触ってただ離れた。どうしていいかわからなかった。嫌ではなかった。あれはなんだったんだろう。戸惑った。どうにか処理しようとした。「嫌ではない」という感触に集中しようとした。普通に考えれば「嫌ではない」は嫌の反対を「好」とすると「好きでもない」のだ。吟味したほうがよさそうなものだがこの曖昧さに賭けてしまった。この場合「後悔」という言葉はどちらかというとこちら用の言葉だと思うが投げやりな謝罪と共に向こうから言われた。「あれはなんだったんだろう」と考え続けることになる状況がまた加わった。

外からは見えないとはいえ、恋や暴力や愛が混じり合ってしまうことはよくある、ということを皆さんご存知だろう。行為と概念の結びつきなんて、ということかもしれない。「最初は全然気づかなかった」「付き合ってるときはわからなかった」という言葉もよく聞くだろう。

精神分析を体験した人は実感できると思うが、反復強迫が転移状況において解釈されるうちに初期の傷の想起がもたらされることが多い。最初にあげたような状況も「そういえば」と全く気づいていなかったわけではなかったこととして語り直される。ただそのときに意識することは不可能だったことに変わりないし、従ってそれが自分にとってどういう結果をもたらしそうかという見通しを立てられるはずもない。だから深く傷つくことや「あれはなんだったんだろう」と苦悩することに変わりはない。マニュアル的に予防したり状況を上書きすることはできない。そんなに簡単ではないからもし想起と語り直しの精神分析を必要とするならばそれは時間がかかる。ただ、今のまま、そこにとどまらないでいるために、というポジティブな動機を持つ時間にはなるだろう。生きていかなければならないならそれは必要なことだし、精神分析はそこになら貢献できる。相手と距離をとったとしても法的な対処をしたとしても苦しみが終わるわけでない。そのプロセスにおいてさらなる傷つきを重ねることだって多い。相手がいなくなったとしても起きたことが消えるわけではないので同じことだ。それでも人はなんらかの対処をする。少しでも区切りをつけることでなんとか生きていくためだ。でもそれはひとりではとても難しい。

私に話したことも私にくれたもののことも忘れていた。

以前こんな例を挙げた。忘れてしまう人はいいね、とB’zの歌詞を少し変えて呟く。あれは「途中の人はいいね」だったか。一緒にいるときからそんなだったら離れてしまえばあっという間に、ということだってある。そんな姿を見るのもまたひどく理不尽で嫌な思いをするだろうが責めることも意地悪もいくらでもできるうえにエスカレートしやすいので安易な方へはいかない方がいい。

あれはなんだったんだろう。今日も似たようなことを別の相手と繰り返しているであろう彼らに聞いてもわからないだろう。ましてやすぐにあなたを自在に消去して別のものに置き換えることができる相手には。いまどきのカメラみたいだ。写真という文化も変わっていくのだろうね、というのはまた別の話。欲望や衝動はさまざまな形をとる。従って防衛も様々、ということ。

それにしても「後悔」か。乾いた笑いが生じそうになるがそうやってごまかすこともしないほうがいいのだろう。歴史と偶然性、どちらも大切にするから長く愛することができる、と思ってやってきた。これからもそうありたいと思う。その確認だけでいい。

それにしてもただでさえこの乾燥。辛い。セルフケアという言葉を聞くようになったがどうなんだろ。私は「セルフ」とつく言葉もあまり信じていないような気がする。精神分析でもその位置付けは論じる人ごとにいちいち細かい定義づけが必要になる。それはともかく今日もめんどくさいことはめんどくさいこととして無理せず取り組みましょう。

(急いでいたからテキトーに終わらせてしまったうえにupするのを忘れていた。すでに結構仕事した気がする。東京蚤の市にいきたい。いいお天気でよかったですね。)

石蕗の花(冬の季語)

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あれはなんだったんだろう

早朝。こんな時間にこんなところにいる。ほとんど奇行だ。いや紀行だ。

朝から散財。はじめてホームの自販機でルマンドを買った。はじめてタッチパネル式の自販機で温かいペットボトルのルイボスティーも買った。一回乗り換えるルートではなく10分くらい長くかかるが乗り換えなしのルートのグリーン車で。

大丈夫。仕事にはまにあう。

嘘っぽいほんとの話とかほんとっぽい嘘とかをこうして書きつけて今日もなんとかやっていくんだ。

どうにもならない気持ちをどうにかするため、起きたこと、感じたこと、考えたことを最初から反芻している。

あの日のあのこと、あれはなんだったんだろう、ということをずっと。

そのためには移動が必要だった。生きながら蝕まれる。戻ってこられますように。

言語も身体感覚も会えない時間にこそ大切にされるべきものと思っていた。会えたときとの喜びはその想像力ゆえと。いないけどそばにいる、大丈夫、と思えた時間は短かった。難しいものだ。苦しくて眠れない日々にも慣れると思っていた。お互い無理をしたのだろう。

対話は難しかった。「対話」って言葉嘘っぽくて嫌いだけど。それはともかくこんな独特の受け身さに出会ったことはないと感じながら私も受け身でいた。慎重に自分の感触を確かめてもいた。すぐにそんな感覚狂ったけど。セクシュアリティから逃れられない人間の愚かさ。

今ならなぜその受身的な態度がその人にとって必要だったかわかる気がする。最初からもっとも謎だったこと。好きな人を観察するときの特殊な状態に流されないように。こういうところがおかしいのかも。歴史を知ればわかる気がしていたし今ならわかる気がする。私のことを相手はほとんど知らない。ある部分をのぞいてなにもきかれていないから。きかれたのはもっとも正直に答えられないことだった。だからかどうかわからないけど嘘をついた。全体を知ろうとしてほしかった。聞かずに想像してほしかった。そんなのは大抵無理だって知ってるけどそこを超えていかないと、といまさら熱い。いまさら。だからこんなとこにいるのだ。思い出そう。

話をきき、それについて話すのはなんだかひどく幸せだった。もっともっと聞きたいこともいいたいこともたくさんあった。でも大雑把でものわかりの悪いまま反応してしまう私はいい聞き役になれなかった。ため息も苛立ちも寂しかったけど圧をかけられるのも嫌だった。それでも一緒にいる間はまだ少し安心できた。

人は誰でも自分にちょうどよい刺激を与えてくれる人が好きなんだなと実感した。優先順位は変わっていく。私はそういうタイプではないけれど。ペットなら言葉使わないから一緒にいられたかもしれない。人だってどうにかなると思い込んでいたわけでもないけどどうにかしようとがんばるのが普通かと思っていた。間抜けだ。人は多くの場合変わらないって知ってたはずなのに。間抜けな私は対話すればどうにかなると思っていたけどそもそもそれをしてもらえないという事態が起こることを想定していなかった。楽観的だな馬鹿だな間抜けだなもういやだ。全部夢だけど。夢じゃないけど。ひどく眠い。

「抱っこしておとしゃん」と繰り返す声が聞こえる。「エレベーター乗り行くの」「工事みにいくの」両親が小さく笑う声が聞こえる。あの手この手でがんばる女の子。無力ではないね。素直に正直に手を伸ばすこと大事だね。たくさん抱っこしてもらえますように。みんな良い一日でありますように。