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あれはなんだったんだろう 精神分析

見えないことの扱われ方

山梨銘菓「くろ玉」、かわいいし上品な美味しさだった。

どうしてこの人のやることは支持されてこの人のやることは事件にされたのだろう。行為としてはほとんど同じなのに、と話すことがある。ここでも「あれはなんだったんだろう」シリーズで書いたと思うけど主にセクシュアリティに関することは思弁ではなく具体的に個別的に考える必要があるのでいくらかの加工をしつつ残しておくことが大切だと思う。女の身体が絡む場合はいつという時間の観点も必要だろう。「年齢とか関係ない」とか気楽にいえる人はそれはそれで幸福かもしれないが人の痛みに鈍感でいられているということかもしれない。

友達と話したりnoteに創作をしていると支配や搾取の芽は欲望がある限りそれぞれが持っていると感じる。同じような体験を繰り返すことで前の体験をなかったことにしたり、抑圧を強めることで別の仕方で表現したり、それらの構造を探りつつ目の前の相手との関係で葛藤したり、それぞれのあり方でそれらの現れ方や外からの評価は全く異なると感じる。でも一番感じるのはそれが問題や事件として認識されるかどうかはそれまでの環境が少なからず影響しているということ。環境というよりは構造といった方がいいかもしれない。

SNSにみられるパターン的な共感、同調の行為は自己顕示欲を見知らぬ人に満たしてもらうことを可能にしただけでなく、かわいいと思えなくなったら捨てられてしまうペットのように扱われる人、そう扱う人を増やしたかもしれない。「まさかそんなことをする人とは」というほどにも近くない「良い」部分だけで関わり合える関係における共感、賞賛はそれを受ける人には気持ちよく、そうでない自分、そうでない関係を葛藤的に否認したりしながら様々なネガテイブな気持ちと関わり合う面倒を減らす効果もあるのだろう。ひとりをポイ捨てしても多くの人が変わらず好きでいてくれている、という量の問題。トロッコ問題を意味のない問題設定としていたあの人も自分のこととなるとそんな感じだった。大丈夫、みんながいる、という場合の意味も変わってきているのかもしれない。

二次被害、三次被害という言い方をすることがあるがその言い方ってどうなんだろう。たとえばポイ捨てされた人が傷つき続けるか、回復するかは確かにその相手がその件で社会的にどう判断されるかも関係するだろうし、その人が元々持つ資源や環境やその後のケア的な何かと出会えるかどうかも関係するだろう。一方、二次三次とかでなくただずっと継続して膨らむばかりの傷つきもある。これは何よりもその出来事の終わり方が関係しているのではないかと思う。心身を密に付き合わせるなかで積み重ねてきたものをどう扱われるのかというのはその人の人生を左右するでしょう。周りからは決して見えないことに対してお互いがどう責任をとるのかということでもある。難しいけど今日も生きていかないとね。いかないとってことはないけどなんとかがんばろ。