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あれはなんだったんだろう 精神分析 読書

身じろぎ

お寺の鐘が鳴っている。なんだかちょっと掠れたような。ちょっと頼りないような。

昨日書いた心と法の具体例みたいな案件が上がっていて驚いた。それにしてもSNSは、という感じはする。「名誉毀損」の重みって、とも思う。例えば慰謝料請求とかの場合、関係のプロセスで相手と直接コミュニケートできない状態だからと本人に請求するのではなく会社にとかしてしまったら逆に名誉毀損で訴えられる場合があるわけでしょう。どっちにしてもお金以外の解決は見込めないし。法って本当にうまくできてると思う。心の問題として考えるととても残酷とも思う。

「権力をいかに見定めるかによって女が被害者にも、加害者にも、抵抗者にも、抑圧者にもなりうることを示してみせた」

もろさわようこ『新編 おんなの戦後史』(ちくま文庫)の解説で斎藤真理子が書いている言葉だ。本当に女の位置ってこういうことなんだと思う。この本の刊行イベントでの話も興味深く関連の本も読んだ。今年はジェンダーに関する本をたくさん読んだ気がする。内容はあまり覚えていないが多く読むとさっき読んで納得していたあの説にはこういう背景とか反論があるのかとか知れるからそんな偏った取り入れにはならずにすんでいるのではないかと思う。きちんと後から使えるように読めばよかったと今は思うが、日々の幸福と苦悩をまずはじっと自分の中にとどめるための無意識的努力だったと思う。表現するならSNSなどではなく直接相手にと思っても自分自身の抑圧と相手からのさまざまな水準の圧力で言葉にできないという体験も多くした。いまだに「身じろぎできない」体験をするんだと自分でも驚くほどダメージも受けた。「身じろぎ」という言葉も斎藤真理子が取り上げたもろさわようこの言葉だ。「相手あること」については「あれはなんだったんだろう」という題名で書いた文章で何度か触れたと思う。あれはなんだったんだろうという問いは自分のこととなればたとえ事実を周知したとしてもなんの答えも得られない。

「みんなはどうしているのか」仕事でもよく聞く言葉だ。でも二者関係を第三者に開くことは問い自体を別のものに変えてしまうだろう。みんなではなくあなたであり私だ。もうそこに相手はいなくても「相手あること」なのであり引き受けるのは私でありあなただ。あまりに苦しいけど迫害的にならずそのせいで攻撃的にもならず耐える必要がある。構造の問題がすでにあるのは明確でも「名誉毀損」という法的判断は両者に同様に適用されるのが現状であることを思えば「賢く」動く必要がある。それについて考える自由は奪われていないのだから。

「行動」ではなく「言葉」で、というのは精神分析の基本だが言葉にしたら行動化への衝迫に駆り立てられるのもまたよくあることだ。どこまでとどまれるだろう。そして再び「身じろぎ」から始めることはできるだろうか。

今日も一日。実際にはもういない「相手」が残した問いに沈みながらであったとしても。

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『増補新版 理不尽な進化 ―遺伝子と運のあいだ』からの連想

吉川浩満さんの『増補新版 理不尽な進化 ―遺伝子と運のあいだ』(ちくま文庫)が即重版決定だそうです。パチパチ。おめでとうございます。

ちょうど「食い違い」や「論争」について考えていたときに再読の機会を得たのは幸運でした。というか、これらは常に身近すぎて考えざるを得ないことなのですが。

この本は2014年刊行の名著の文庫版です。生物の進化を「生き残り」ではなく「絶滅」という観点から照らし直す本書、サイズと装丁はかわいらしいですが、増補新版ということで収録された書き下ろし付録「パンとゲシュタポ」のインパクトもすごく、直線的な思考にうねりをもたらしてくれます(私にはありがたいことでした)。

やはりこれは読まれるべき本です。

私はなんでも精神分析を通じて考える癖があるのでバイアスがかかっていると思いますが、正反対の読み方とかはしていないと思います、多分。でも自信がないので一応その可能性は残しながらの再読と連想です。

ここではただ連想を書いているだけというか、この本を読んだら結局また精神分析のことを考えてしまったというだけなので、本来なら省いてはいけない文脈を省いてしまっています。

だからぜひ読んでいただいて共有したいのですが、この本に登場する科学者たちの「個人的事情」=「学問=科学と人生の無関係の関係があらわになる場所」=「「ウィトゲンシュタインの壁」が立ち上がる場所」は彼らがそこで体験した引き裂かれるような痛みを感じさせます。

そしてそこを私たちが目指す場所として位置付け、私たちの態度を問い、May the Force be with you(そうは書いていないですが)と著者は祈ってくれているようです。

おそらくこの本を書くこと自体、その痛みにどうにか持ちこたえるプロセスだったのではないでしょうか。今回の文庫化を期にさらに多くの方がこの本と共にあらんことを、と言いたくなります。ダークサイドの話は今回書き下ろされた付録「パンとゲシュタポ」をぜひ。

さて、すでに別のところで呟きましたが、吉川さんが終章で示した「理不尽にたいする態度」(文脈必要ですが突然取り上げます。すいません)はあれかこれかではない思考、簡単に言えば多様性を集団が維持するための手がかりとなるように感じます。

私たちは「この世界に内在しつつ、世界に関わっている者」同士、互いを少し侵食しながら語らうことをやめられないでしょう(今「寄生獣」という漫画を思い起こしましたがそれはまたちょっと別の話ですね)。

だからこそ「どうしてこうなった/ほかでもありえた」という「理不尽にたいする態度」はたとえそれに対して勝利を謳うものがいたとしても「負け」にはなり得ず、自分が生きるため、同時に相手の内側で蠢き続け動かし続けるための動力として機能するのではないでしょうか。

私は精神分析を「信頼」し実践している立場なので他者の体験あるいは出来事に大雑把な言葉を与える人には「執拗に」物申したい気持ちになることが時々あります。実践においては私は物申される立場でもあります。

精神分析においては自分の分析家がその対象として最もふさわしく、自分の情緒は分析家の身体とこころ(転移ー逆転移の場)を通過して自分に帰ってくるため(おおよその対人関係はそうかもしれませんが)、最大限自由であろうとするならばそこが安全ということで、カウチ 、自由連想という設定の必要性もそれと関連しているように思います。

同時に、最大限自由であるということは、そこが危険で苦闘の場にもなりうるということでもあり、カタストロフィックな体験によって自己が変容するというモデルをとるならば、その場は常に両方の性質を持つと考えられるでしょう。

ちなみに本書においてカタストロフとルビがふってあるのは「大量絶滅事変」であり、「大量絶滅事変は、後継者たちに進化的革新(ルビはイノベーション)のための作業場(ルビはワークプレイス)を提供する。そしてそれは進化的革新の内容を指示(ルビはディレクション)することはないものの、その可能性と限界を規定(プロデュース)するのである。」(p78)と書いてあります。規定はプロデュースなのですね、なるほど。

精神分析においてカタストロフは自分の内側で生じます。

そして、そこでの体験をトラウマにせず生き直しの機会として体験するためには実在する第三者の介入に対して脆弱ではない、二者関係における第三者性をお互いの内側に宿らせることが必要になると思われ、そのプロセスは必然的に長期にならざるを得ないかもしれません。

さらに、精神分析における出来事は常に事後的で予定調和はあり得ないという考えを維持するのであればそこは名付けようのない場所であり、現象の描写にしかなり得ないはず、と私は考えて文章を書いたりしています。

突き当たる壁をなかったものにせず、そこに留まろうとするプロセスにおいて両者の間に常に蠢いている他者、私はこれが「理不尽にたいする態度」が形を得たものとイメージしました。対話を志向するとき、そこを別々の二人の場とみなすのか、互いの一部が重なり合う場とみなすのか、前提はプロセスを左右するかもしれません。

そしてウィニコットが言ったように、という連想になっていきそうですが、時間がきてしまいました。再び良書に出会えたことに感謝します。それではまた。