カテゴリー
精神分析、本

アリスのことではなくて単に夏の思い出

この花が咲けばこの季節とわかる。この果実がなればもう一年かとわかる。廃墟、という感じではないな。私がこの道を通いはいじめてから少なくとも2年以上は誰も住んでいないみたいだし。いろんなところをいろんな植物で埋め尽くされてこの時期は中の様子はあまり見えない。でもこんなに色があったら廃墟って感じではない。モノクロ写真の一部に色をつけたみたいな感じとも違う。全部きちんと生きている感じがする。

この道はインターナショナルスクールがあり、私がいくのはちょうどお迎えの時間。日本語と英語を自在に使いこなす親子(男性はほとんど見ない)が続々と集まり別れていく。

はじめて海外へ行ったのは20歳の夏。サンディエゴのSDSUの寮に1ヶ月間。広大な敷地を持つ大学はライブ会場にもなりニール・ヤングとかきてたんじゃないかな。違ったかな。ライブのある日は寮からみた景色がすごかった。毎日プールに入り、海へいき、古着屋とレコード屋をめぐり、最初は甘すぎたお菓子やアイスもたくさん食べられるようになった。友人が恋をした人の結婚相手が海軍の人で海軍専用ビーチでBBQもした。その人がすごくセクシーな水着で犬を連れて海辺を歩く姿が映画みたいでもちろん友人は釘付けだった。日焼けしすぎてカリフォルニアの皮膚ガンの発症率をもとにクラスで叱られた。帰国してから急に体重も増えた。あれだけアイス食べればそうなるよなあ。翌年の夏は六週間、ケンブリッジへ。今度は絶対日本語を喋らないときめて親にお金を借りていった。最高だった。ケンブリッジ大学の有名なカレッジは緑がいっぱいで、庭では無料でシェークスピアがみられた。美術館も無料で毎日のように自転車でブリューゲルをみにいった。児童文化の授業でもブリューゲルの絵は重要で見れば見るほど発見があった。ロンドンにもパリにもウェールズにも足を伸ばした。フランスへ向かうフェリーで死ぬほど気持ち悪くなって以来、車酔い、船酔いに強くなった。酔わなくなったわけではなく酔ってもあそこまでなることはないだろうと思えた。早朝フランスへつき、ぐったりしたままバスの窓からひろーい田舎の景色をぼんやり眺めているうちにパリに着いた。途中立ち寄ったドライブインみたいなところでクロワッサンとカフェショコラのセットだったのかな、を頼んだ。「お前気持ち悪かったんじゃなかったのかよ」と呆れられそうなくらい元気が出た。あの味が忘れられなくてどこいってもクロワッサンとカフェショコラを頼んだ。日本に帰ってきてもそうした。あの味はあの一度きりだった。エッフェル塔の真下でいかにもパリというカフェへいったがお肉が美味しくなかった気がする。必ず一人になれる場所があるというヴェルサイユ宮殿の構内をバスでめぐったが確かにこんなところで読書を、という人がいた。鏡の間ではベルばらのセリフが思い浮かんだ。セーヌ川の船では日本語も含めたくさんの国の言葉で音声ガイドが繰り返されるのが興醒めだった。オペラ座は当時工事中だった。フランスでトレーニングを積んできた分析家がちょうどフランスへいるときであとからその話をした。すでに古い訳のフロイトを読んではいたが精神分析家という存在を当時はまだ意識していなかった。私がはじめて精神分析家という肩書きを持つ人の家を訪れたのはその5年後だ。内戦が続いていたクロアチアの彼は元気だろうか。日本文化をうまく説明できない私の代わりに彼がしてくれた。私よりずっと日本のことをよく知っていた。彼はいつも英語で先生と怒鳴り合いをしていた。いや先生は怒鳴ってはいなかった。怒りをどうにか抑えた声で彼の暴言に注意を与えていた。そんなときの彼は小学生みたいだったが私にとってはさりげなく助けてくれる素敵なお兄さんだった。ケンブリッジでは「これを紳士的というのか」という対応もたくさんしてもらったし、ネオナチの若者には注意が必要だったし、寮の管理人さんやB&Bの宿主には宝くじで待たされたし、お店ではあからさまな差別を受けたし、チェコになったばかりのチェコ出身の私の2倍くらいある優しい彼は美味しいパイを焼いてくれたし、ロシアの家族はロシアのおやつを作ってくれたし、私がスーパーに行く時間に必ずその道をバイクで通るアイルランドの男性とはいつの間にか仲良くなった。みんな今はどうしてるのだろう。差別はやめられてたらいいけど。生きているといいけど。本当に。生きていてほしい。

思い出すことをそのまま書いていたら最初に書こうと思っていたアリスのことを書く時間がなくなってしまった。いつもお世話になっている先生とハンプティ・ダンプティのことで盛り上がりThe Annotated Aliceという本を何度も読んだと聞いた。英語かあ、ともうすでに遠い英語に負担を感じながらネットで調べたらあるじゃん、邦訳。しかもすごくかわいい。アリスはこれからも何度も読むだろうから買った。『ピグル』の言葉遊びの世界にもハンプティ・ダンプティがいる。それにしても『ピグル』を素材にした北山理論の概説書『錯覚と脱錯覚』が「品切れ、重版未定」ってどういうこと?もう買えないの?ダメでしょう。『ピグル』の読書会をしている私も困りますよ、岩崎学術出版社さん。まあ私ひとりが困るならともかくあの本はウィニコットを読む時にも大変貴重なのです。ハンプティ・ダンプティの挿絵で始まる名著なのです。だからお願い。みんなが買えるように準備しておいてくださいな。

カテゴリー
精神分析、本

『ピグル』1965年6月16日

1965年6月16日(昭和40年、水曜日)、3歳9ヶ月の女の子が父親と一緒に老齢の精神分析家のところを訪れた。ここにくるのはもう11回目だ。彼女の両親が分析家に手紙を書いたのは1964年1月、彼女は2歳4ヶ月だった。1ヶ月後、両親と彼女、8ヶ月になる妹は4人ではじめてここを訪れた。ロンドンのChester Square87、London Victoria stationが最寄駅だ。2回目からは毎回電車で父親とここへ通った。

“What’s this?” 前回と同じように列車で遊びながら彼女が言った。thisはコバルトブルーのOptrex社の洗眼ボトルのことのようだ。

東京の空が明るくなりはじめた。まだ水色にもなっていないグレーがかった薄い青。2022年6月19日(日)の朝がはじまる。

1965年6月16日(水)、また電車で遊んでいたガブリエルがウィニコットの背中に声をかけた。

“Dr.Winnicott you have got a blue jacket on and blue hair.”

彼女はOptrex社の洗眼カップをメガネにしてウィニコットを見ていた。ほんの数行の記録だが私の大好きな場面だ。乳房(このセッションではおっぱいyamsというべきだった、とウィニコット)という一部分をウィニコットという全体対象に押し広げ分析家と同一化し、以前は悪夢にしかならなかった情緒をたくさんの言葉遊びとともに自由に遊び尽くそうとするガブリエル。ウィニコットが核心的な解釈をするのはこのセッションの最後だ。その解釈を受け入れた彼女はとても幸せそうにそんなにたくさん手をふる必要もなく父親と帰っていった。

今引用しているのはイギリスの小児科医、精神分析家のドナルド・W・ウィニコットの最後の治療記録『ピグル ある少女の精神分析的治療の記録』である。この本については以前も書いた。

ウィニコットとガブリエル(=ピグル)が会っていたChester Square87番地(でいいのかな)もOptrex社の洗眼ボトルも検索すれば画像で見ることができる。しかし、この本を読んで何が起きているのかを知ることは不可能かもしれない。

私はかわいらしい声の女性二人と三人で輪読をしている。彼女たちの声がこの年齢の女の子をリアルに想像させてくれる。私たちはウィニコットとガブリエルが会った日付にできるだけ近い週末に約束をする。昨日2022年6月18日は1965年6月16日のコンサルテーションを読んだ。約3ヶ月ぶりだ。ウィニコットは心臓を患っていてこの時期の体調は思わしくなかったようで、セッションの後の手紙のやりとりには母親とガブリエルの不安が現れているようにもみえた。しかしそれも一時的というか当たり前の反応と思われた。

久しぶりに読んだからというわけではなくこのセッションの記録はウィニコットとガブリエルどちらの言葉なのか不明瞭な部分が多い気がした、というコメントをきっかけに3人で話しあった。

もしかしたらそれは二人の相互交流における浸透性が高まっているからではないか、このセッションでは融合しては境界を取り戻すという自由な遊びがさらに洗練されている、そしてそれは I とYouの境界をはっきりさせるようなジョークとノンセンスの領域での言葉遊びの行き来にも現れているのでは、などなど。ウィニコットがこれまでの記録にも触れてきたように「不明瞭」や「曖昧さ」というのはこの二人の治療の特徴かもしれないが、これは精神分析の特徴でもあるだろう。

いつ死ぬかわからない、というより、もうそんなに長くはないだろう、という予測がウィニコットにははっきりあっただろう。ウィニコットは会いたいというガブリエルにすぐに応じることはできない。それを知らせる手紙の中で彼はいう。「子どもたちは自分の問題に家庭の中で取り組まなければなりませんし、ガブリエルが今の段階を切り抜けることができても驚くことはないでしょう。もちろん、彼女はたくさんの機会にそうやってきたので、私のところにくることを思い浮かべているでしょうし、私もまた必ずガブリエルに会うつもりですが、それは今ではありません。」

とても簡潔で明瞭な手紙だ。ガブリエルの心の中にははっきりとウィニコットが存在する。それはたとえ今彼が死んだとしても保持されるだろう、ウィニコットにはいまやその確信がある。

出会っては別れるを繰り返し、お互いの不在によって確かになる存在をまた確かめ、また離れ、生きていく。子どもの遊びのような、彼らの成長のような、目を見張るような部分を自分自身に見出すことはもうできないが生を限りあるものと認識できるようにはなったと思う。だから何というわけではない。もう60歳くらいになるガブリエルも同じ空の下で残りの時間に思いを馳せたりしているのだろうか。彼女は大人になってからインタビューに応じた。ウィニコットとの治療のことはよく覚えていないそうだ。ただ、この治療がホロコーストを身近に体験した母親に向けてもなされていた可能性を示唆している。

子どもがそれが何かはわからないまま晒される続ける不安、それは大人がかつて子どもだった頃に体験した不安でもある。思いを馳せる、大切な人に。何かができる距離にいなくてもせめて不安をともにすることができるように。そんな関係を築くことができるように。「ひとりの赤ん坊などというものはいない」「全体がひとつのユニットを形作っている」というウィニコットの言葉を思い出しながら。

カテゴリー
精神分析、本

言語と身体あれこれ

いつからこんなんなっちゃったんだろう、といえば「もともと」となる。いまや人に言われる前に自分が答えるほうが早い。なんだか前はもう少しましだったような錯覚をしていたいのね、私は、きっと。と思えるようになっただけましかもしれない。

まあ、自分からこうしてことをややこしくしたいときはやりたくないけどやらねば(あるいは考えたくないけど考えねば)ならないことがたまっているときだ、私の場合。前にも書いたが自分で自分をごまかす技ならたぶんたくさんもっている。まったく自分のためにならないのに不思議なことだ。いや、損得で言ったら損かもしれないが、自分の気持ちがまいってしまわないためには必要な技だし、気持ちがまいらないことはかなり大切だ。精神分析でいえば防衛機制というやつ。

精神分析家の北山修は母と子の間でしか通じない言語を「二者言語」といい、第三者に分かる必要のある「三者言語」と区別した(『ピグル』まえがきとしてーウィニコットの創造性)。

社会学者で作家でもある岸政彦は又吉直樹との対談で「言語以前」「無意味に身体を肯定される瞬間」について話していた(ネット上で読めます)。

北山修は「二者言語」を「言語以前の言葉」ともいっているが、私はそこに「身体」を持ち出すこと、つまり乳幼児的であることを言葉ではなく身体で説明すること、そしてそれを肯定していくことに価値を見出す。もちろん精神分析はそれをやってきてはいるが、どうしても説明は言葉でなされるのでその身体の肯定の瞬間はなかなか伝わりづらいかもしれない。

自分の身体の輪郭は自分ではなかなかわかりづらい。鏡をみればわかると思うかもしれないが、ボディイメージこそ自分をごまかしたり裏切ったりするものであることは多くの人と共有できるだろう。私たちは思いこむ動物だ(あえて断定したい)。

赤ちゃんはしっかりと腕に抱かれるまでに時間がかかるときがある。泣き叫んだり、のけぞったり、ひっかくようにしがみついてきてこちらが思わずのけぞったりするときもある。なかなかの困難を伴うが、多くの場合、大人の苦闘によって彼らは徐々に腕におさまる。動きを止めたその子の身体は形や重さを明確に知らせてくれるだろう。まだとっても小さくて軽いんだ、この身体であらん限りの力でなにかいってたんだ、とこちらが我に返るときもある。

線と中身は同時に作り出される、私はいつもそう感じる。抱きかかえるまでのプロセスこそが輪郭をつくり、中身を伴わせる。そこには赤ちゃんとそれを抱きかかえる腕や胸とが溶け合うように、しかし区別された形で存在する。ウィニコットの言葉を思い出す、というかそもそもピグルのことを考えていたのでウィニコットの言葉発でこんなことをつらつら書いている。

ややこしい書き方になるのは、とまた繰り返したくなるが繰り返さずにやることをやらねば。

ちなみに北山修『錯覚と脱錯覚』は『ピグル』を読んだ方にはぜひ読んでいただきたい。名著だと思う。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

「その後」

昨晩は『フロイト症例論集2 ラットマンとウルフマン(藤山直樹編・監訳、岩崎学術出版社、2017)』のラットマンの部分、つまり「強迫神経症の一症例についての覚書(一九〇九)」を読了。

昨年度からオフィスで始めた小さな読書会。4月から新しいメンバーを加え2年目をスタートさせたけど、コロナの状況を考えてまだ一度も対面でお会いできていない。

昨年度は同じく岩崎学術出版社から出ている『フロイト技法論集』をちょうど一年かけて読み終えた。今回のラットマンは
 Ⅰ 病歴の抜粋 Ⅱ 理論編 というシンプルな構成。1ヶ月に1回2時間で4ヶ月、8時間で読んだ。強迫神経症の症例としても、転移を扱わなくてもよくなった症例としても、フロイトとラットマンの幸福な時期の描写としても読める本である。

ラットマンという名前は彼の病歴からとっている。私も自分の問題に名前をつけるとしたら何かな。病名よりはその人固有の感じが出る方がいいなと思う。

ラットマンはフロイトにお母さんのようにお世話をされ、陽性転移の中よくなっていくが、第一次世界大戦で戦死する。だから「その後」は「戦死」以外、分からない。

ウィニコットの子どもの治療記録『ピグル』に出てくる女の子は50年後にインタビューに応じている。

死に方には色々あるし、いつどうなるかは誰にも分からないけど、できたら「その後」を死以外のなにかで伝えたり、伝えられたりしたいな、と思う。