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「W.イェンゼン『グラディーヴァ』における妄想と夢」1907

なんだか傘を持つのは久しぶりな気がする。

1月の東京は本当によく晴れた。

次世代を担う臨床家がやっているオンラインのフロイト読書会、次回は私がアドバイザー。

読むのはフロイト「W.イェンゼン『グラディーヴァ』における妄想と夢」1907年

Delusions and Dreams in Jensen’s “Gradiva” (1907)

1907年、この頃にフロイトはカール・グスタフ・ユング(1906年に論文集を送付)、マックス・アイティンゴン、カール・アブラハムと出会った。

グラディーヴァ、小説の主人公が熱烈に魅せられて古代レリーフのなかの女性。「歩き方」へのこだわりはとても興味深い。私もいくつかのエピソードを思い出す。

ユングがイェンゼンの小説をフロイトに紹介したことから始まったフロイトの文学研究と芸術論、これはapplied psychoanalysis(応用精神分析)のはじまりでもあった。

そういえばユング派の候補生ってユングの故郷チューリッヒにいくけど精神分析家候補生はもうそういう場所をもっていない。私は普段も旅するときもひたすら歩くが、私が精神分析に向かって、あるいは精神分析とともに歩いてきた仕方について少し考えた。

この小説の主人公は考古学者。彼の夢と「妄想」。考古学と精神分析、フロイトは文学作品に対しても優れて臨床的な観察力を発揮し、ここに類似性を見出した。

『夢解釈』で明らかにした不安夢の理解以外にも、フロイトは後年探求することになる現象にすでにここで触れている。精神病や倒錯に見られる現実の否認や自我の分裂など。

小此木啓吾先生の熱い語りも思い出すなあ。母を求める青年。小此木先生の同一化力(とはいわないが)はすごかった。

フロイトも面接室のカウチの足側の壁にグラディーヴァのレリーフのレプリカを掛けていたという。

Library of Congressのサイトを探ればいろんな写真も見られるかもだけどグラディーヴァのレリーフは普通に検索すればすぐ見つかる。

私がフロイトの何かを絵や写真で見たいときは鈴木晶『図説 フロイト 精神の考古学者』(河出書房新社)、ピエール・ババン『フロイト 無意識の扉を開く』(小此木啓吾監修、創元社)

フロイトのカウチに横になったら左側のグラディーヴァをぼんやり見ながらいろんなことを連想すると思う。カウチの横の壁には大きな絵がかかってるのだけど、私だったらカウチの横は小さい絵をかけるな。落ちてきたら嫌だし、圧力感じそう。でもフロイトの部屋はものすごくいろんなものがあるから、その一部なら気にならないか。私も賃貸じゃなかったら掛けたい絵がたくさんあるなあ。細々した思い出の品々はたくさん置いてるけど。

この論文もいくつか訳がでている。読書会は岩波書店『フロイト全集』を基盤にしている。今回私は種村季弘訳も参照。

グラディーヴァ/妄想と夢 – 平凡社

Quinodoz, Jean-Michel. Reading Freud (New Library of Psychoanalysis Teaching Series) (p.73).

日本語訳、ジャン−ミシェル・キノドス『フロイトを読む 年代順に紐解くフロイト著作』(福本修監訳、岩崎学術出版社)だとp.77〜も参照。

もっとこの論文について書こうと思ったけど面倒になってしまった。キノドスにも小此木先生の本にも色々書いてあるから私はまた今度にしよう。

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日本の精神分析家の本

日本の精神分析家の数は多くありません。国際精神分析学会(IPA)所属の分析家でいえば1学級ほどの人数で、訓練のための分析を提供する訓練分析家となると数えるほどしかいません。(日本精神分析協会HP参照 http://www.jpas.jp/ja/

だから精神分析なんて全然身近じゃない、かというとそうでもなく、精神分析家は意外と身近なのです。たとえば土居健郎先生、たとえば小此木啓吾先生、たとえば北山修先生、たとえば、、とあげていけば「あ、この人知ってる」という方は結構おられると思います。

精神分析家の先生方の発信力が強力、というか大変個性的なので、これまた少しずつですが、先生方の本について下記URLのブログでご紹介したいと思います。すでに書いたものもご関心があればどうぞご覧ください。

日本の精神分析家の本(妙木浩之先生)

日本の精神分析家の本(北山修先生、藤山直樹先生

精神分析の本

ちなみに私は、大好きだった合唱曲、「あの素晴らしい愛をもう一度」の作者が、この北山修先生だとは全く知りませんでした。

精神分析ってまだあるんだ、と言われることもありますが、精神分析は特殊な設定にみえて、というかそれゆえに、すごく生活に近く、先生方の本に出てくる人たちはみな、私たちが自分自身のなかにもみつけられる部分をお持ちです。あまり難しいことは考えず、できるだけ無意識にしたがって共有していけたらと思います。

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同時性

私は、精神分析家について何か書くとき「日本の」とか「今も実際に会える」とかあえて付け加えたくなります。それは「同時性」というのをとても大切に思うからです。同じ国に生まれて、同じ時代を生きて、同じ学問を愛して、同じ場所をともにするなんてとても特別なことのように思いませんか。

 たとえば私は、土居健郎先生とは同じ会場にいたことはあるけれど言葉を交わしたことはありませんし、土居先生の考え方やお人柄などはひとづてや本でしか聞いたことがありません。一方、小此木先生以降の東京の先生方にはご指導をいただいてもきましたし、日本精神分析協会の先生方は特に身近に感じています。だからといって土居先生は遠く感じるということではなく、実際にお会いできたことで遠くは感じないのです。

 私より若い世代の方にとって、小此木先生や土居先生は等しく遠いレジェンドのように感じられることもあるようですが、「実際に同時にここにいた」という事実、そして実際にその場で私が受けたインパクト、それは知らない相手に対して自分勝手に言葉を繰り出すことを難しくします。だから知ろうとする、対話を試みる。フロイトを読むのもそのためです。

 それに、過去の過ちを繰り返してならない、とばかりになされる試みがその過去にすでになされていたことを知ることもしばしばで、そんなときも知るのは自分の無知でしかありません。若いときにはそれこそ若さだからいいと思いますがもうそろそろそういうのはいいかな、という感じがしています。多分、またやるけど。

 同時というのは過去、現在、未来、という直線的な時間軸を超えていく概念だと私は思います。精神分析でいう「今ここ」が単純に「あのときそこで」と対比できないように、それは今より前も今より後も含みこむ生成されつつある時間なのだと思います。だから、私の中で生き続けている実際に同時にここにいた人たちをとても大切に思うのです。

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出自

小此木啓吾先生の古希とフロイトの誕生日を祝う学術集会が収められた『精神分析のすすめ』(2003、創元社)という本は冒頭に三浦岱栄先生(小此木先生が慶應の精神科に入局したとき(昭和30年、1955)の教授、『神経病診断治療学』の著者)との激しい葛藤が綴られている。ものすごく高度な戦いで、その中で「僕は精神分析に負けた!」といえる三浦先生がすごいなと思った、とTwitterで書いた。

本当にそう思う。「第一部 各研究の個人史的背景と次世代へ」と名付けられたこの最初のセクション「神経学との出会いー三浦岱栄先生と」でこのエピソードを話す小此木先生の討論者が狩野力八郎先生で、もうお二人ともいらっしゃらない。

小此木先生が書かれた何冊もの本、遅筆だったといわれる狩野先生の著作集、そして日本の内と外を橋渡しした土居健郎先生、北山修先生の著作などは精神分析は精神分析でも「日本の」精神分析について深く考えさせられる書き方がされている。

精神分析がクライン、ウィニコット、ビオンによって母子のメタファーを用いることでその潜在力を開花させたように、私たちも何かと出会うとき、自分という存在、自分の考えの由来を早期のできごとから探らざるを得ない、わけではないかもしれないが何かを人に伝えようとするときその基盤となった個人史に言及する人は多い。

出自を知る。多くの文学が描いてきたようにそれは類型化されるものではない。生まれることの理不尽を、生きることの理不尽を、私たちは感じながらどうにか生きている。自分とは違う誰かとの出会いがいかに生を揺さぶるとしても、その生を規定されたものとして諦めることなく、その潜在力を信じたい。

様々な報道を目にしてふとそんなことを思った。

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伝言

1990年、小此木啓吾先生の日本精神分析学会第36回大会会長講演「わがフロイト像」から引用です。全文は『精神分析のすすめ』(創元社)で読むことができます。

「むすびのメッセージとして、会員諸氏に次の言葉をお贈りします。『フロイド先生に常に初対面して下さい』この言葉は、古澤平作先生から私が、先生自身が熟読した独文の『精神分析入門』をいただいたときに、先生がその表紙に書いてくださった言葉です。このメッセージを、今度は私からみなさまにお贈りしたいと思います。」

はい。受け取りました。これなら私でも覚えられる。伝言ゲームでもたぶんずっと後ろまで正確に伝わるはず。でも「初対面」というのが大事だからそれが「対面」になっちゃったら残念。意識しておこう。