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散歩 読書

セルフレジ、本の本

蒸し暑くない。遅くまで除湿運転していたせいかな。今日も風がないみたい、と思ったけど南側の大きな窓を開けたら外で涼しい風が動いていた。

昨日は保育士さんたちとケースカンファレンスだった。すごく長く続いている関係の園だけど保育士さんたちは知らない人がすごく増えた。それでも昔から知っている先生たちのおかげでなんか馴染みの人みたいになっているのがいつも面白い。あまりに大変だな、と思うことが多いけど無理せずやっていってほしい。

セルフレジ難しくて嫌い、と思いつつも最近はセルフレジばかり。そんなある日の馬喰町。NewDaysのキャッシュレス店舗というものを発見。交通系電子マネーをタッチして入店する仕組み。ちょうど入ろうとしていたカップルの大きい人の方が何度やっても開かないのをみてチャレンジする勇気がしぼんだが、もうひとりの人がやってみたらあっさりピッていって自動ドアがあいた。少し時間があったので地下道をトコトコトコトコ、馬喰町と浅草橋、この二つの駅はここでつながっていたのね、と戻ってきて再びさっきのNewDays。今度はドアの前に誰もいない無人キャッシュレス店舗へドキドキしながら近づく。ピッ。あっさり入れた。しかも涼しさ独り占め。その日は電車の中が寒すぎることもなくありがたかったけどひんやりしているところもやはりありがたい。セルフレジって盗難とかにはどう対応するのかな。いつも行くスーパーはセルフレジじゃないから気に入っていたのにセルフレジになってしまった。疲れてぼんやりしてスーパーに寄って、レジ袋を真ん中にかけてピッてしないで全商品を入れて帰ろうとしてしまったことがある。自分で気づいてもう一度カゴに出してピッてして袋に入れてをやり直しなんと二度手間、と悲しくなった。まあそれでもありがたいのはレジがそこそこの台数あるから急かされないということ。レジ袋を開けるのにいくら手間取っても私のペースでできる、とはいえ、間違って支払わないで持って帰ってきちゃったということは起こりそうな気がする。だいたいスーパーに行くときってバタバタか疲れ切ってるかの時間だからありうる。ほんと今日は危ないな、というときは有人レジに並べばいいか。なんか優先席に座るような感覚だけど、優先席だって座ってはいけないわけじゃないんだしね。そういえば、この前東京駅のNewDaysでセルフレジがすごい列で店員さんが「有人レジあいています!」って一生懸命声張り上げてくれてたのでそっちにいったら誰もいなくてこれはなんなんだ、となった。

この前、読んでいると書いた坂本葵さんの『その本はまだルリユールされていない』、すごくよかった。図書館、釣堀、製本、活版、そして懐かしい本たちから立ち上げる世界とそれぞれが抱える思い、すれ違うようですれ違わない、くっつくようでくっつかない、表とか裏とか合わせ鏡。みんな違う色と太さの糸で何かを繋ぎ合わせながら生きている。そんなことを思う本だった。スクールカウンセラーもこうやって普通に登場するようになったんだねえ。私がスクールカウンセラーをやっていた頃はお部屋もなくて図書室の隣の倉庫みたいなお部屋を借りたことがあった。資料好きの私には薄暗いその部屋は幸せ空間で、お隣の図書室の司書さんと仲良くなり、私のところへくる子供たちともいろんな本を読んだ。子供の頃から本や図書室は大切な居場所だった。本が糸で閉じられていること、紙質というものがあることにも確かに驚いていた昔々。この本には大切な相手をなくした人もでてくる。まだ一緒にいた頃の思い出も今はもういない相手と紡ぐ日々も暖かい関わりの中で大切にされますように、やっぱりそういう世界がいいよ、と思った。

須賀敦子さんのことも思い出したから今日の通勤読書は『コルシア書店の仲間たち』にしよう。美しい日本語。美しい日本語を可能にするためにはまずは選挙か。『トリエステの坂道』もまた読もう、とか言っていないで原稿を作らねばなのか。困った。頑張ろう。せめて熱中症に気をつけよう。

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精神分析、本 読書

岡田温司『フロイトのイタリア』、エドアルド・ウェイス

蒸し暑くない。カーテンを開けた。窓も開けた。風はない。かりんとう饅頭をトースターで温めた。カリカリ。冷たい麦茶と。昨晩はひどく喉が乾いた。

岡田温司『フロイトのイタリア 旅・芸術・精神分析』は、フロイトがイタリアに強く憧れつつもなかなか近づけず少しずつしか距離を縮められない様子が生き生きと描かれている。フロイトが自らの強迫的なところをどうにもできずに困っている様子も面白い。すごくいい本。フロイトにこんな風に愛を向けている人をみると私は嬉しくなってしまう。

イタリアの精神分析家といえばBolognini(イタリア人として初めてIPA会長になった人), Bonaminio, Chianese, Civitarese, Ferroなどがウィニコットやビオンの仕事を受け継ぐ分析家として有名だけど、フロイトと直接関係していたり、その国の初期の精神分析を担った人というのはどの国でも大事。

イタリアの場合、精神分析の始まりはフロイトの分析を受けウィーン精神分析協会の会員になったEdoardo Weiss(1889-1970)と初代イタリア精神分析協会会長のMarco Levi- Bianchiniに位置付けていいと思う。この二人も日本の精神分析の祖である矢部八重吉と丸井清泰のようにフロイトの著作の翻訳権をめぐって一悶着起こしている。導入期は誰が彼を伝達するのか、という問題はありふれているのかもしれないが、イタリアの場合、フロイトに忠実だったウェイスが果たした役割の方が大きそうだ。

イタリアの精神分析の歴史や主な分析家の知見などはReading Italian Psychoanalysis Edited By Franco Borgogno, Alberto Luchetti, Luisa Marino Coe(2016)に詳しいのはわかっていてるのだけど高価なので、私は出版社ウェブサイトの情報からpepやIREDなどで深掘りしている。イタリア精神分析協会のウェブサイトも自動翻訳を使いつつ参照しているが、重たいのか表示が遅く上手に使えない。

岡田温司先生は『フロイトのイタリア』の最終章「イタリアのフロイト」でフロイトがイタリアへ踏み出す一歩となった町、トリエステのユダヤ人たちを取り上げている。そこには先述したイタリアで最初の精神分析家エドアルド・ウェイス(Edoardo Weiss)も登場する。ウェイスもまたユダヤ人だった。ポール・ローゼン(Paul Roazen)がウェイスの伝記を書いているのでウェイスのことを知りたい方はそちらをチェックしてほしいが、ウェイスとイタリアの精神分析受容に関しては岡田先生のこの章をチェックしてほしい。

私はイタリアに限らず、芸術や文化のことはすごく断片的にしか知らないが、この章を読んでこの時期のトリエステの精神分析サークルの豊かさにウキウキした。私でも知っている人がたくさん。トリエステってよく聞くよなぁ、と思っていたのだけど須賀敦子で身近だったのか、とこの本で気づいた。

須賀敦子が翻訳したり引用したりしたイタリアの詩人、ウンベルト・サバも1920年代にウェイスの分析を受けていたそうだ。へー。須賀敦子が訳したサバの詩集も読みたい。

先日、坂本葵さんの『その本はまだルリユールされていない』を読んでいる(すごくいい)と書いたが、そのときに思い出していた『コルシア書店の仲間たち』も須賀敦子。本つながりで響き合っていたわけではなく、トリエステと須賀敦子が響き合っていたのか。

さて、エドアルド・ウェイスはイタリア精神分析の祖ではあるが、イタリアにずっとはいられなかった。1931年、ファシスト党への入党を拒否してローマへ、1938年、人種法布告。翌年1939年、ウェイスは家族と共にシカゴに渡り、そこで死んだ。アメリカではポール・フェダーンの論文の編集など自我心理学の領域で重要な役割を果たしている。ちなみ日本でhttps://www.koubundou.co.jp/book/b156627.html、でいいのかな。

ウェイス編集のフェダーンの本はこちら。

FedernP. (1952). Ego psychology and the psychoses. (EWeiss ed.) New York: Basic Books. German edition, 1956Italian edition1976

IREDには「Edoardo Weiss (1925)と Marjorie Brierley (1944)により「投影同一化」という用語は以前より使用されていたが、その概念を定式したこと、そして 対象への侵入する万能的な空想に対応させたのは、Melanie Klein の貢献とされている。」ともあった。

とにかくもかくにもイタリア精神分析はその後も豊かな発展を遂げています、ムッシューじゃなくてシニョーレ?もう戦争はいやだ。精神分析は戦争のおかげで発展してきたわけじゃない。戦争のせいで多くの患者も分析家も死んだ。生きてこそなのに。いろんな国の攻撃が今すぐ止みますように。