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『グラディーヴァ』と手紙

グラディーヴァ ポンペイ空想物語 精神分析的解釈と表象分析の試み

前に書いたように『グラディーヴァ』にもいくつかの翻訳がある。種村訳はフロイトの『妄想と夢』論文とセットで種村氏と森本庸介氏の論考も読める。こちらはヴィルヘルム・イェンゼンの小説と訳者山本淳氏の表象分析のセット。

フロイトを読むときは時間が許す限り関連文献も読んでいる、というか読みたくなってしまう。このグラディーヴァ本のオリジナリティは、「『グラディーヴァ』をめぐる書簡」について書かれているところだ。作品と解釈をめぐり、イェンゼンと精神分析家が、あるいは精神分析家同士が交わした15通の手紙が取り上げられている。シュテーケルからイェンゼン、ユングからフロイト、フロイトからユング、イェンゼンからフロイト、フロイトからイェンゼン、といった具合に。

手紙というのはその内容だけではなくて、書かれ方、送られ方、受け取られ方などいくつかの側面から手紙の書き手についても教えてくれる。

置かれている立場、その人のペース、リズム、パーソナリティなどいろんなことが手紙には断片的に現れる。フロイトが出した手紙に淡白な返事を出すユングとか、フロイトを立てつつも苦言を呈するイェンゼンとか、せっかちですぐ反応がほしくなってしまうフロイトとか。

「応用精神分析」という用語はラカンによってその意味を変えたが、フロイトを読むときはフロイト自身のテキストとそれを取り囲む政治、社会、文化、思想などの文脈の双方を参照する必要があることは間違いない。

手紙はその双方の橋渡しをする。イタリアに強い思い入れがあるフロイトがイタリアから出した手紙は岡田温司『フロイトのイタリア 旅・芸術・精神分析』でも読めるはず(またもや発掘が必要)。

それにしてもなんでも分析対象にするものだ。今となっては、私たちが家族や身近な人を精神分析することは危険というのは共通認識だが、文学や芸術に対する分析ってどうなのだろう。危険ではないだろうけど、なんだか偉そうだよね、と思ったりもする。小さい時から文学に助けられてきたせいかもしれない。

私は大学生の時、夏目漱石の病跡学をやりたいと思っていたが、それも偉そうだったかも。夏目漱石は実家に全集があって、今でも文庫で持ち歩くことはよくあるほどに好きだから触れたかったのだとは思うけど。今だったらどうかな。精神分析は治療としてだけでいいかな。文学とは山本貴光さんの『文学問題(F+f)+』みたいに関われたらいいなと思うけど、あれはすごい本だからなぁ。私は人に対してあのようなエネルギーを注いではいるような気はするが。

またもやとりとめなく書いてしまった。朝のウォーミングアップ終了。身体も動かさないと。