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読書

地震、エッカーマン『ゲーテとの対話』

起きたらすぐそばでカラスの大きな声がした。その声に起こされたのかもしれない。外はまだ少し爽やかっぽいけど空気の入れ替えだけしてまた窓を閉めた。バタバタ家事をしていたら期待通り紅茶がちょうどいい温度になっていた。

鹿児島県トカラ列島近海の地震、大丈夫なのだろうか。十島村・悪石島というところ。写真を見るととてもきれい。そうだろうなあ。希望者は離島して避難されたらしい。ものすごい数の地震が起きているらしいが昨晩は眠れたのだろうか。実際の被害も不安も広まらないように具体的な対応が早急に入りますように。

昨日、水木しげるの「姑娘」のことを書いた。水木しげるが戦地に持っていった愛読者がエッカーマンの『ゲーテとの対話』。ほぼ暗記していたという話もゲーテに対するエッカーマンみたいと思う。私がゲーテという名前をはじめてみたのはこの本かもしれない。実家で書名に惹かれたのが最初。一番古い翻訳だったのかも。きちんと読んだのはずっと後。高校生になって自分で『若きウェルテルの悩み』とか買うようになっても(こういう行動が若い)この書名はなんとなくいつも浮かんでいた。ウェルテルは高橋義孝訳。フロイトに最初に出会ったのも高橋義孝訳。よくみていた名前だからこれは覚えている。

今週末、関西で行われる精神分析的心理療法フォーラムで登壇するシンポジウム(?)のお題が「精神分析とアートの交わり」で古い本を色々漁ったからゲーテのこともこうして書いているわけだけど、高橋義孝訳のフロイトの芸術論は一冊にまとまっていてKindleで読めるのも便利。

ゲーテという名前は『ゲーテとの対話』以前に耳からは聞いているのだけど「シラーの骸骨」という言葉の方が強烈に残っている。今思えばゲーテがシラーの骸骨を前にして書いた(絵も描いたのかな)という「シラーの骸骨に寄す」のことを話していたのだろうけどゲーテという名前が私にはあまり残らなかったらしい。聞き流していただけの言葉が断片的に強烈な印象を放つのはさすがゲーテということになるのかもしれない。

『ゲーテとの対話』も普通に考えれば作者はゲーテではないのに著者であるエッカーマンという名前が記憶に残っていなかった。この本は本当にいい。大好き。水木しげるが戦地にまで持っていくのがよくわかる。

エッカーマンはやたらといろんな人に助けてもらえる人というか、その認識をきちんともちつつ、かつ内省的で、多分実直で前向きないい人だったんだと思う。いい人、というのもどうかと思うがこの本を読んでいると「貴方様がこうして残してくれたゲーテの言葉、私にもグッときます、ありがとうございます。」という気持ちになるからね。

エッカーマンは詩作をがんばるなかで帯を書いてもらう文化はまだなかったか、なんだったか推薦文か何かをお願いするためにゲーテに連絡をとった彼はゲーテに大層気に入られてしまう。というかゲーテってこういうとこある、と思ってしまったりもするけど。エッカーマンもゲーテのこと以外考えられないという様子で細やかに観察しつつゲーテの言葉に胸打たれつつ自分の気持ちにも目を向けつつ綴られるこの対話本、本当に面白いし読みやすいしゲーテの名言だらけ。これはゲーテ70代、エッカーマン30代の対話だけど、ゲーテの『イタリア紀行』で30代のゲーテの言葉を知るとエッカーマンが人としてのゲーテに惚れこむのもよくわかる。世の中にはいろんな紀行文があるけどこの本の文章は特別に面白い。

エッカーマンが拾ってくれたゲーテの名言を引用しようかと思ったけどやることがあるんだった。機会を見つけてぜひお読みになって。言葉も内容もいい本って楽しいから。

良い一日をお過ごしください。

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散歩 精神分析

火曜日

7月。いいお天気。さっき窓を開けたら夜のひんやりがまだ残っている感じがした。そういえば最近、帰り道の三日月がとてもきれい。

山形のさくらんぼをいただいた。甘酸っぱいとはまさにこのこと。私が公園で眺めていたさくらんぼたちは鳥たちに美味しく食べられたのかな。梅の実はいつまでもなっているのにさくらの実はなくなるのが早かった。新宿中央公園の梅の木は剪定されてさっぱりしていた。

フロイトやゲーテのイタリアへの情熱とか思うと私はそういうのないな、と思っていた。どうしても!みたいな強い気持ちがあるって行動に結びつくからいいな、とは思うけど、まあいいか、となる。しかもこの暑い時期なんてできたら何もしたくない。週末は関西に行くけど。暑いだろうなあ。泊まりでいって万博とか行けたらよかったけど時間もないし、暑いし、とやはりなる。彼らは基本的に体力があるね、色々読んでいると。私もない方ではないけど温存したい。今は温存という言葉さえ不適切な気がする。なんてこんな涼しい部屋で言っているのもどうかと思いますよね。原稿書かねば。

今日も無事に過ごしましょう。

参考文献:

岡田温司著『フロイトのイタリア―旅・芸術・精神分析』(2008、平凡社)

ゲーテ著『イタリア紀行』(上・下)鈴木芳子訳 (2021,光文社古典新訳文庫)

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散歩 読書

「原〜」とか。

窓を開けた。早朝のバイクの音。新聞配達の音とは限らない。一軒一軒止まるあの音とは違うし。あまり風がない気がする。昨日は降ったり止んだり変なお天気だった。夜、オフィスを出ると降っていなくて「よかった」と思ったのも束の間、すぐに傘をさすことになった。風が強かったのは昨日だったか一昨日だったかもっと前だったか。

毎朝、花や木の定点観察をしているつもりだが、昨日の状態を覚えていないから大雑把な観察しかできてない。それでも季節が着実に進むのを感じるし、何年も気づいていなかった場所に咲く花に気づいたりもする。

ゲーテは愛するシチリアのパレルモでこんなことを書いた。
かくもいろいろな、みずみずしい、新たなものとなった形姿をまのあたりにすると、「この一群のなかに《Urpflanze (原植物)》を発見できないだろうか?」といういつもの酔狂な考えが、またもや念頭に浮かんだ。そういうものがあるはずだ!もし も植物がみな一つの原型にならって形成されてゆくのでないとしたら、あれやこれやの形をとっているものが、どうして同じ植物だと分かるのだろう。

一七八七年四月十七日、火曜日、『イタリア紀行』の一節である。ゲーテがいう<原植物>は地層の断面も含むようなもので、植物だけでなく、動物にも<原動物>という原型を想定した。全ては(言い過ぎかも)そこからの変容であると。この『イタリア紀行』はフロイトのイタリア旅行を支えた書物だが、ゲーテはほとんど遁走のような形でイタリアに向かった。フロイトはこういう冒険はしない。きちんとしているし、怖がりなところもあるから。ゲーテのこの本は翻訳によって印象が異なると思うけど新しい方の訳はわりとテンションの高いゲーテを想像する。

原型の発見は魅力的だが、なぜ人は「原型」が好きなのだろう。「原〜」を想定しないとはじまらないということはあるだろうが別に想定しなくてもいいのではないか、と思うこともある。でもそれは時間的にという場合か。私が植物で季節以外のものを感じ取っていないせいかもしれない。発見する眼を私も持ちたいな。とりあえず熱中症に気をつけて無事に過ごすことから始めましょう。どうぞ良い一日を。