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精神分析

テレパシーとか。

空が薄い。羽毛布団に変えたせいかよく眠れた。カバーをかけるのが面倒だなあ、といつも思うけどがんばった。夏の始まりと終わり(もう10月も半ばだけど)の年2回だけなのにめんどくさいものよね、と思っていたせいか、PCに「取り替え簡単!」という掛け布団カバーの宣伝が出てきた。最近、検索もしていないのに思い浮かべていることと近い商品が出てくるから言葉のテレパシー性を振り返るべきよね、と今思った。というか、精神分析実践をしていると言葉は話されたものだけではないのは自明で、カウチ上で「何も思い浮かびません」「ちょっとぼんやりしちゃって」と言って何も言わないと「抵抗」とか言われることもあるわけだけど、この「抵抗」も意識的な行為に与えられている言葉ではない。自由連想なんて全く不自由だけど、「全然関係ないんだけど」「話ずれるんだけど」と自分でも「なんで?」と思うような事柄が思い浮かぶとき、それが鍵になる。夢と近いのはそっちだから。「夢は無意識への王道である」とフロイトが言ったことは言葉の機能を考えると本当に重要で、思い浮かべたことが広告として出てきてもそんなにびっくりしないな、と思う私はその機能を使って仕事をしているからだろう。オカルトじゃないよ、というのはフロイトが「夢とテレパシー」(1922 )の最初で言っている。もしそうだと思ったら期待外れですよ、この話、みたいな感じで始まるんじゃなかったかな。結構そういう書き方の論文多い気がするから違うかもしれないけど。岩波の『フロイト全集17』に入っているけどあれはオフィスにあるから後で確認しましょう。そうだ、カウチ上で「あ、それ夢に出てきた」と思うとき、本当に夢に出てきたかどうかは重要ではないし、確かめようもないわけだけどそれを思い浮かべて言葉にすること自体がすごく重要。連想を自由にできるようになると自分でも「あー、だからか」となんとなく仮説が立つようになるけどそれはかなり分析が進んでからだと思うので、それまでは精神分析家の技法が問われるわけです。ということで今日もがんばりましょう。色々やばいやばいとなっているから。

ちなみに『フロイト全集17 1919-1922年』はフロイトの大事な時期の大事な論文がたくさん入っています。「女性同性愛の一事例の心的成因について」は症例を使った最後の論文ではなかったかな(要確認)。断片的なものはその後も登場するけれど。

あとは「不気味なもの」「快原理の彼岸」「集団心理学と自我分析」など再読必至の論文たちも所収。「夢とテレパシー」はフロイトの夢シリーズとして光文社古典新訳文庫の中山元訳でもいいかも。ではでは。良い日曜日を。

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精神分析 読書

風鈴、『ケチる貴方』、吝嗇

伊万里で買ってきた風鈴がチリンチリンいっている。早朝に暖房をつけると最初は強風が満遍なく部屋を暖めようとするので風向きによってはうるさいくらい鳴る。これ以上ないスピードで部屋に暖まってほしい私はヌックミーと電気膝掛けにくるまりながら時折伊万里焼の小さな舌が同じく伊万里焼のお椀の下でピロピロしながらリンリンするのを聞いている。夜、佐賀城跡できいた風鈴の音がとてもきれいだった。ひとしきり風鈴にまつわる思い出を語り合い翌日には買っていた。まさか風鈴を連れて帰ることになろうとは。出会いとはわからないものだ。

少し温まってきた。もう少ししたら白湯をいれよう。まだおなかの調子が悪いからコーヒーはやめておこう。先日体調をひどく崩し伊万里でお店の人に教えてもらったイベントへいくことができなかった。定期的に開いている友達との会もキャンセルせざるをえなかった。楽しみにしていた予定がふたつもキャンセルになってヌックミーと電気膝掛けに埋もれながらぼんやり寝たり起きたりした。電気膝掛けを「強」にしていたのでその部分だけ熱くて何度かつけたり消したりした。もっと「弱」方向にすればよかったのだけど調子が悪かったせいかなぜか「切」にしていた。というかこの電気膝掛け、すごく熱くなる部分とそうでない部分があってそのすごく熱くなる部分がやばいのだ。というか大丈夫かな、これ。寒さをどうにかするために必死に巻きつけたり雑に暑かったせいでそうなってしまったのかしら。

昨晩から今朝にかけて『ケチる貴方』(講談社)を読んだ。石田夏穂さんという作家が書いている。なぜ急に読んだのか昨日の今日なのに忘れてしまったがそのときは「読まねばならない本」だと思ったのだ。いざ読み始めたらなんだこれは。私がこれまで体験してきた冷えと寒さに対するすべてが文字化されていた。寒さゆえに冬の到来に怯え春を心待ちにする今、無意識が読むべき本と出会わせてくれたのだろう。この主人公の不機嫌さにも非常に共感する。たとえ別の季節があったとしてもこんな冷えと寒さに苛まれる季節が一年のうち数ヶ月あればこうもなるさ。私もあらゆる温活を試したがこの主人公がえらいのは実行しつづけるところだ。私よりずっと切実に寒さと向き合っている。えらい。というか実際ものすごく切実なのだ。辛い。切ない。

“「寒い」と訴えることには何か他の訴えにはない甘えの響きがある。「お腹がすいた」「眠い」「出掛けたい」は素直に言えたが「寒い」だけは自分が主張することじゃないように感じた。”

ー『ケチる貴方』の最初の方から引用。Kindleなのでページ数がわからない。

これだ。「寒い。死んじゃう。」と毎日のようにいう私は甘えている。小説になるかどうかの違いはここにあるのだろう。極端にスイッチが切り替わってしまう「間」がない世界。それは実は生死に関わるのだ。どうかこの人に口先だけじゃない「ケア」を。自分が求めていたものに気づいてしまう痛みに対してもどうか、と願うのはここまで切実に生きられない私でもそうなんだ。

“私は生来の倹約家、否、吝嗇家なのだ。”

りんしょく、と読むんだよね、と先日のReading Freudでも確認した。『フロイト全集4』(岩波書店)はまるごと『夢解釈』の一冊で5巻へと続く。先日読んだのは「第5章 夢の素材と夢の源泉(B)」。フロイトとの治療設定、つまり時間とお金を巡ってみられた夢として解釈されたある女性の事例(261頁)に「吝嗇」という言葉が出てきて前にも出てきたのにみんな読み方を忘れていたのだ。『ケチる貴方』ではきちんとふりがながふってあった。

だいぶ温まってきた。立ち上がるときに感じるあの冷気を想像するだけで辛いが白湯をのめばまた電気膝掛けのスイッチを切りたくなる。切らずに「弱」の方へという練習も必要かもだが熱々で毎度火傷しながら飲んでいるようなときは一気にポカポカするのだ。すぐに寒い寒いとまたスイッチを入れ直すことになるのだけど。イロイロウマクイカナイね。今週も始まってしまいましたね。どうぞご無事でご安全に。