カテゴリー
精神分析 読書

風鈴、『ケチる貴方』、吝嗇

伊万里で買ってきた風鈴がチリンチリンいっている。早朝に暖房をつけると最初は強風が満遍なく部屋を暖めようとするので風向きによってはうるさいくらい鳴る。これ以上ないスピードで部屋に暖まってほしい私はヌックミーと電気膝掛けにくるまりながら時折伊万里焼の小さな舌が同じく伊万里焼のお椀の下でピロピロしながらリンリンするのを聞いている。夜、佐賀城跡できいた風鈴の音がとてもきれいだった。ひとしきり風鈴にまつわる思い出を語り合い翌日には買っていた。まさか風鈴を連れて帰ることになろうとは。出会いとはわからないものだ。

少し温まってきた。もう少ししたら白湯をいれよう。まだおなかの調子が悪いからコーヒーはやめておこう。先日体調をひどく崩し伊万里でお店の人に教えてもらったイベントへいくことができなかった。定期的に開いている友達との会もキャンセルせざるをえなかった。楽しみにしていた予定がふたつもキャンセルになってヌックミーと電気膝掛けに埋もれながらぼんやり寝たり起きたりした。電気膝掛けを「強」にしていたのでその部分だけ熱くて何度かつけたり消したりした。もっと「弱」方向にすればよかったのだけど調子が悪かったせいかなぜか「切」にしていた。というかこの電気膝掛け、すごく熱くなる部分とそうでない部分があってそのすごく熱くなる部分がやばいのだ。というか大丈夫かな、これ。寒さをどうにかするために必死に巻きつけたり雑に暑かったせいでそうなってしまったのかしら。

昨晩から今朝にかけて『ケチる貴方』(講談社)を読んだ。石田夏穂さんという作家が書いている。なぜ急に読んだのか昨日の今日なのに忘れてしまったがそのときは「読まねばならない本」だと思ったのだ。いざ読み始めたらなんだこれは。私がこれまで体験してきた冷えと寒さに対するすべてが文字化されていた。寒さゆえに冬の到来に怯え春を心待ちにする今、無意識が読むべき本と出会わせてくれたのだろう。この主人公の不機嫌さにも非常に共感する。たとえ別の季節があったとしてもこんな冷えと寒さに苛まれる季節が一年のうち数ヶ月あればこうもなるさ。私もあらゆる温活を試したがこの主人公がえらいのは実行しつづけるところだ。私よりずっと切実に寒さと向き合っている。えらい。というか実際ものすごく切実なのだ。辛い。切ない。

“「寒い」と訴えることには何か他の訴えにはない甘えの響きがある。「お腹がすいた」「眠い」「出掛けたい」は素直に言えたが「寒い」だけは自分が主張することじゃないように感じた。”

ー『ケチる貴方』の最初の方から引用。Kindleなのでページ数がわからない。

これだ。「寒い。死んじゃう。」と毎日のようにいう私は甘えている。小説になるかどうかの違いはここにあるのだろう。極端にスイッチが切り替わってしまう「間」がない世界。それは実は生死に関わるのだ。どうかこの人に口先だけじゃない「ケア」を。自分が求めていたものに気づいてしまう痛みに対してもどうか、と願うのはここまで切実に生きられない私でもそうなんだ。

“私は生来の倹約家、否、吝嗇家なのだ。”

りんしょく、と読むんだよね、と先日のReading Freudでも確認した。『フロイト全集4』(岩波書店)はまるごと『夢解釈』の一冊で5巻へと続く。先日読んだのは「第5章 夢の素材と夢の源泉(B)」。フロイトとの治療設定、つまり時間とお金を巡ってみられた夢として解釈されたある女性の事例(261頁)に「吝嗇」という言葉が出てきて前にも出てきたのにみんな読み方を忘れていたのだ。『ケチる貴方』ではきちんとふりがながふってあった。

だいぶ温まってきた。立ち上がるときに感じるあの冷気を想像するだけで辛いが白湯をのめばまた電気膝掛けのスイッチを切りたくなる。切らずに「弱」の方へという練習も必要かもだが熱々で毎度火傷しながら飲んでいるようなときは一気にポカポカするのだ。すぐに寒い寒いとまたスイッチを入れ直すことになるのだけど。イロイロウマクイカナイね。今週も始まってしまいましたね。どうぞご無事でご安全に。

カテゴリー
精神分析、本

ため息まじり

寝不足のままファミレスで作業。日曜朝のファミレス、この時間は男性のひとり客ばかり。とても静か。自分で特別感出していかないとやってられない。

そういえばさっき上から何か降ってきたからきゃーっと思ったけど髪にもリュックの表面にもなんの痕跡もない。リュックを前に抱えて中途半端にあけておいたから中に何か入ってしまったのかな。きゃー。何か中で育ってしまったりしないでね。

鳩が鳴いてるなあと思いながらうちのそばの角を曲がったら真正面から別の鳩が羽広げてきてびっくりした。ちょうど角のおうちの木に留まろうとしているところだったのだけどなんか迷っちゃたみたいで一度留まろうとしたのにバサバサって変な感じにまた飛び上がってそばの別の木に留まった。ああいう判断ってどうやってされてるんだろう。というか真正面から鳥が羽を広げた姿みるのって結構インパクトあるよね。

その後に上から何か落ちてきたら鳩の落とし物とかよく書かれているものかと思うじゃん。あー。中も大丈夫だと思うのだけどだったらなおさらあれはなんだったんだろう。

少し前に中年男性が要求するケアについて「ほんとそう」と思うツイートを見かけたのだけど、一生懸命ものや時間を与えて時にはちょっと手も出したりして愛情めいた関係を築いてそれを社会的評価に変えている同世代の中年の商品にはお金が回らない世の中になればいいなと思う、特にそれが男性の場合。女ひとりで開業している身なので現実的な言い方になりますが。構造上の問題に上手に乗っかってまるでフェミニストかのように振る舞うことが上手な人も身近にいるけど「そういうのいいかげんやめたら」と言いたい。色々くれてなんでも教えてくれる賢くて優しい人たちだったりするととても言いにくい場合もあるけど言うこともある。それとこれとは別というかそんなものより、と。でもすでにビジネス絡めながらそういう人と依存関係築いてきた女性たちは自らが中年になってもそういうこと言わないでむしろ言う方のことを「あなたにそんなこと言うなんてひどい」みたいなメッセージ送ってたりするから「うん?お連れ合い?いや、だったらそんな甘めのこと言わないか」とか「社会なんて変わらないっすよね」となるのも無理はない。私は「この人たちって」と個人に対して思うほうだけど。それ以前に言われたくないこと言われるとすぐ怒ってしまう人とはコミュニケーション自体が難しいし。うーん。それに比べて患者さんたちは誠実だなと思うことが多い。切迫した問題があって、自分のことを考えざるを得ないからというのもあると思うけど素因の違いもあるのかな。ほんといろいろ難しすぎてまいるけどそういうの考えること自体も仕事だからまいりながらやりましょうかね。

先日プレシアドの『あなたがたに話す私はモンスター 精神分析アカデミーへの報告』(法政大学出版)のことを書いたときに名前を出したヴィルジニー・デパントの『キングコング・セオリー』(柏書房)みたいな書き方ができたらいいけどできないので読んでほしい。関係ないけど私は柏書房の本に好きなのが多い。女性や弱者への一貫した眼差しを感じる本を色々読んだからかな。

フロイトの『夢解釈』にはものすごくたくさんの夢の例が出てくるのだけどフロイトが理論を確立するための素材としてそれを使用しているからとはいえ生理や妊娠、中絶、同性愛などに対する記述は中立的という話になった。少なくともたやすく価値判断を混ぜ込むことをしていない。そうだ、土居健郎が価値判断について書いているところについても書こうと思っていたのに数年が立ってしまった気がする。まあいずれ。フロイトは権威的、家父長的な部分ばかり取り上げられてしまうけれどその後の技法論に繋がる中立性の萌芽はこういうところにあるのか、とかもわかるからフロイトも読んでほしいよね、精神分析を批判したり同じ名前で別のことをしようとするのであれば、という話もした。

京大の坂田昌嗣さんが昨年の短期力動療法の勉強会がらみで短期力動的心理療法(short-term psychodynamic psychotherapy:STPP)の実証研究の論文を教えてくれたけど n = 482, combined(STPP + antidepressants) n = 238, antidepressants: n = 244だもの。積み上げが違う。これまでの研究も遡ってみたけど実際にSTPPを長く実践してきている人たちの研究みたいだし。たとえばDr E. Driessenの業績

STPPは精神分析の理論を部分的に使用しながら患者のニーズに合わせて発展してきた技法だけどpsychodynamicという言葉を使っているわけでそのほうが幅広い臨床家に届くよね。これ力動系アプローチなのに反応があるのはCBTの人たちからというのも今の状況だとそうなるか、と思ったりもした、とかいう話もした。とりあえずこういうことをざっくばらんにかつ細やかに話し合える場づくりはしているつもりだから維持するためにもなんとかやっていかないとだなあ。ため息混じりの日曜日。でもまだ朝。みんなにいいことありますように。

cf.

短期力動的心理療法に関する本や文献についてはオフィスのWebサイトに書きました。ちなみに勉強会当日のテキストは


ソロモン他『短期力動療法入門』妙木浩之、飯島典子監訳(金剛出版,2014)
妙木 浩之『初回面接入門―心理力動フォーミュレーション』(2010,岩崎学術出版社)
でした。

妙木浩之監修『実践 力動フォーミュレーション 事例から学ぶ連想テキスト』(2022年、岩崎学術出版社)も加えておきます。

カテゴリー
短詩

言葉イベント

明日はこれ→https://aminooffice.wordpress.com/2022/06/30/【東京公認心理師協会地域交流イベント

誰かが何かを教えるわけではなく同じ職種の方々との交流の時間を持つ。テーマがあった方がよかろうというか、東京公認心理師協会の地域交流イベントはテーマ設定を求められているので「言葉」とざっくりしたものにした。元々は暮田真名さんを呼びたいというところから始まったが外部講師を呼ぶための謝礼も出してもらえないし、あくまで内側でというような感じだったので暮田さんをお呼びするのは私個人ですることにした。地域のNPOを長くやっていた私からしたら謝礼云々はともかく、外部に自然に開かれておけない状態自体、すでに交流を閉ざしていると考える。

関わりたい時に関わりたい部分だけに関わることを私たちは避けがたくしているわけだけどそこに意識的でないことが様々な傷つきを生じさせている気がする。今ではSNSがそれを巧みにできるツールだということは自分自身の体験を振り返れば大抵の人は思い当たるだろう。私は大いに思い当たるので使用の仕方には意識的な方だと思う。ただ、自分では気をつけても気をつけても難しいので使わないのが無難とも思っている。みる方としても随分気持ちに負荷がかかるのでなおさら自分がそれをしてしまっていないかを考える。

さて、今回は対面。協会の地域交流イベントに応募してみようと思ったのは私がSNSで公認心理師でポエトリーアーティストの松岡宮さんの活動を知り、オフィス見学をさせていただいたところからだった。私はプライベートプラクティスをメインの仕事にしているのでもはや時間がとれなくなってしまったが、松岡さんは私が昔から好んでやってきた活動を大田区の一軒家でやっていらして、しかもそこでご自身のCDや詩集も作られているとお聞きした。1時間ほど楽しくおしゃべりをして別れた。数週間後には松岡さんが私のオフィスに来てくれた。そこで協会から地域交流のパンフレットが来ていたと見せてもらった。私はまだそのお知らせの封を開けていなかったのだけどすぐに応募を決めた。松岡さんはオフィスで高次脳機能障害の方々のピアサポートを地道に行っている。このような場所を持つ人自体今は減っているし、行政との関わりを個人オフィスが維持しているのも貴重なことだ。このような活動はモデルになってくれるし根付かせていくことを彼女も望んでいたし、それを応援したかった。

それは単に以前の活動の代わりというわけではなく、現在も私は発達臨床の仕事を請け負う杉並区の社団法人に登録し行政から保育園巡回の仕事を委託されて行っている。なので私自身の職場環境を考える上でも重要だと感じた。行政の仕事でもっとも重要なのは予算を得ることだがその分野で経験を積んだ専門職で構成されている団体にお金を出すことの意義は年々認めてもらいにくくなっている。資格を持っていれば誰でも、ということでより安い給与で別の形式での雇用も始まった。非常勤の掛け持ちで生活をしている人の多い東京の心理職の職場は飽和状態なゆえ求人があるだけありがたいと感じる人だっている。それだけで生活はできないにも関わらず。この悪循環は心理職全体の問題だと思うが、杉並区の場合は新しい区長に期待したい。お役所を通すと何事にも時間がかかるが文句だけいってても仕方ない。

その点、松岡さんや私のように自分でオフィスをもち仕事をしているとフットワークは軽い。今回もほとんどノリでやっている。「あそぼー。」「いいよー。」という感じで。こういうのが大事だと私は思う。

今後、心理職が外に自然に開かれるために、という目標を掲げなくてもなんとなく繋がっておくことは災害時などにも役に立つ。そのためにまずは自分たちの文脈と相手の文脈がどう異なるかを意識化するために自分の発話、相手の受容と反応という繰り返しを辿ることからはじめてみるつもりだ。「はじめまして」なので素材があった方がやりやすいだろうということで3つの素材を考えた。タスクではないのでやらねばというものでもない。当日の変更も可能だ。一応松岡さんと話したことを私のメモとして書いておく。

素材は①それぞれの職場環境 ②女性性、男性性を語る言葉 ③川柳句集『ふりょの星』暮田真名(左右社)より「OD寿司」である。

文脈が異なるといえばすでに職場環境からしてそうだ。先述したように自分の仕事は働く場所によって大きく規定される。私たちが自己紹介をするときに自分の職場環境をどう表現するか、受け手はそれをどういう場所として受け取るか、自己紹介は通常は一方通行の発話だが録音したものを(余裕があればテキストにして)辿り直し、どの部分で何をどのように受け取ったかについて話し合う。みんな同じようで異なる前提のもとそれを解釈していると思うので小さな違いを楽しめたらいいと思う。

さらにせっかく中立性をあり方の基本とする心理職が集まるので分断の解消を目指す言葉がさらなる分断をうむ事態について話しあってみる。最近の事件で心理職全般への信頼度は下がっているかもしれないがそういう大雑把な括り方をされたくないなとも常々思うし、世間という受け取り手の特徴についても同時に考えられるだろう。

そして最後にそこまで丁寧にお互いの前提や文脈を確認してきた時間から言葉の意味を解体する時間にジャンプしたい。そのための素材が14日にワークショップを開いていただく川柳作家暮田真名さんの川柳句集『ふりょの星』に収められた現時点での暮田さんの代表連作「OD寿司」だ。

フロイトは圧縮と置き換えを夢解釈の技法とした。暮田さんの川柳は置き換えの機能を存分に発揮し、意味と言葉の繋がりはゆるゆるだ。一方、断言するような文体は、文法は間違っていないが自分の文脈仕様に単語の意味を変えて使うロボットの言葉を聞いているようでなんとなく説得されてしまう。煙に巻かれるのは楽しい。そこまで立ち上げてきた「共有」の空気を一度かき消しその遊びをすることで一緒に笑ったり考え込んだり意味ではなく体験の協働をする。

そしてお茶とお菓子をいただきながらこれらの体験を振り返る。そんな流れだ。7日に参加してくださった人にはぜひ14日もきていただきたいがお盆の時期で今年は帰省をするからいけない、残念、また絶対やって、という人が多く、一方でコロナ自粛をする人も重なった。当日はコロナ対策は十分にするが人数が少ないのは最大の対策だろうとも思う。なので少人数での開催もいいものだと思っているがいろんな人に暮田マジックともいえる言葉遊びを伝えたい気持ちもある。

一応ご案内はこちら。ご案内には有資格者限定と書いてしまったが、資格のあるなしに関わらずなんらかのケアを行っている方々はお気軽にお申し込みを。いろんな人の言葉との出会いを楽しみに。お楽しみに。

カテゴリー
精神分析

「覚醒時の独特面の気質や感覚が、夢生活の中にも引き続き現れるものなのかどうか、現れるとしたらどの程度までか」

第四回Reading Freudで『フロイト全集4(夢解釈Ⅰ)』「第一章 夢問題の学問的文献」 (F)夢の中での倫理的感情の冒頭である。

これに対してもいろんな人がいろんなことを言っているのをフロイトは拾い上げている。夢の中では誰だってすごいことしちゃってるもんだというのは前提にあるようだけどそれを覚醒時の自分と統合する仕方についてはそれぞれの道徳観が顔を出す。

「カントの定言命令は、一蓮托生の相棒のようにわれわれに付きまとっているので、われわれは眠っている間もそれを手放すことはない。」とヒルデブラント。とてもよくわかっていそうなヒルデブラントさえこうだよ、とフロイトがいう場面である。

夢にまで責任もてと言われたらほんと大変だよ、と思うけどこのSNS時代、昔だったら特別な相手としかやりとりしなかった時間帯にも、仕事とプライベートの区別なく、年齢差も時差も関係なく記号や言葉が交わされる。そんな中で眠りの質も変化しているだろうから、「抑圧された表象が夢で浮上する」ということは変わらないとしても「夢を見られない」ことを症状として考える契機は失われているかもしれない。ちなみにイギリスの精神分析家であり小児科医でもあるウィニコットはそれを主訴として精神分析を求めた。

それにしても眠い。頭痛持ちだからいつもぼんやりと痛みを感じつつひどい時には文字通り頭を抱えるしかないのだが痛みを超えて眠りに落ちることができると夢の中では痛みはおさまっている。痛くて辛い夢を見るわけでもない。でもまた起きると痛い。これは痛みの象徴化とはいえないが痛みだけでできているわけではないので当たり前か。それに痛いのは頭だけではない。毎日、瞬間的に、持続的に体験する痛みに対して夢は仕事をしてくれていると思う。自分で自分を抱えるように膝を抱えて泣きまくって眠ってしまった日よりも翌日の痛みの方がまだまし、という経験は多くの人がしているだろう。

今日は月曜日。色々書きたいけど時間切れ。夢も覚醒してしまえばおしまい。また夜ね、と夢に対していえるくらいの生活リズムは保ちましょうか。今夜から。明日から。と先延ばしになりそうだけど睡眠大事。少しずつ。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

『グラデイーヴァ』

イェンゼンという名前のノーベル文学賞作家がいるのですね。こちらはW.あちらはJ. ドイツ人の名前なのですね。

フロイトが取り上げたことでとても有名になったというこの作品。でもシュテーケルやユングがこの本の紹介をフロイトにしたというのだから、すでにそれなりに話題だったのでしょうか。

昨日取り上げたフロイトの1906年の論文はこの小説(でいいのかな)を精神分析的に理解してみるというもので、前半はこの小説の要約に紙面が割かれます。フロイトはまずはこの話を読んでからこの論文を読むことを読者に願っていますが、今も手に入るのでしょうか。種村訳にはイェンゼンの小説とフロイトの論文の両方が載ってるはずですが、それも入手できるかどうか確認してみないといけません。私は持っていますがどこにあるか発掘しないといけません。

とはいえ、たとえフロイトの要約で省略された部分にこそ重要な部分があったとしても、フロイトの紹介の仕方はとても魅力的です。グラディーヴァのレリーフに魅せられた考古学者の主人公が、抑圧された欲望と近づいていく様子(内容はやっぱり読んでほしい)をいろんな気持ちになりながら観察する一読者の体験をフロイトはわかりやすく示してくれています。当然フロイトは『夢解釈』の技法を用いてこの小説を読んでいるので、合間合間で現代の精神分析では前提となった現象の説明を挟みます。もちろん現代でも、精神分析と馴染みのない読者にとっては「え!」という説明かもしれません。

一読者であれば、精神分析家は、というか、フロイトはそう読んだ、ということで全く構わないわけですが、精神分析とともに生きている立場としては、この後30年間、精神分析を科学たらしめようとしたフロイトが死ぬまで受け続けた批判と称賛の対象(「性」と「生」という欲動)について考えざるを得ません。

一方で、文学作品に対するこの同一化力(そんなものはないと昨日書いたばかりだけど)、そしてそこで緻密な思考を展開するフロイトはなんだか生き生きしていて読んでいてニコニコしてしまいました。私はフロイトがとても好きなんですね。

ソフォクレスのオイディプス王やシェークスピア作品を愛したフロイト、作品と作者、そして読者、この三者が織りなす無意識の交流。昨日、書いたようにこの論考は応用精神分析の始まりでもありました。「読む」「書く」という行為が、この小説において分析家の役割を担う女性の名前ツォーエ=「生命」を蘇らせたように、私たちもその行為を続けていくことは、精神分析が生命を保つためにもきっと必要なことなのでしょう(なので楽しくやりましょう、と読書会メンバーを密かに応援しています)。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

どうして5年日記とか10年日記は続かないのに毎日の日記なら続くのかしら。と思ったけど、日記ですものね。その日のことを記す場所として好きに紙面を割けばいい。その自由度の高さ、気ままにやれる感じがきっとよいのでしょう、私には。紙じゃないけど。

雨が降っています。昨晩より強く土砂降りのような音。レインコートと長靴かな。

フロイトは『夢解釈』が有名でしょうか。以前は『夢判断』と訳されていたけど精神分析ではやっぱり「解釈」かなぁ。

夢は本当に不思議で矛盾する出来事が普通に生じる時間を生きられる唯一の場所です。小学生の頃から「夢占い」とかもしました。フロイト を持ち出すまでもなく。

でも持ち出すと、フロイトには A  Lovely Dream(「素敵な夢」フロイト 全集5『夢解釈2』p12)、「すてきな夢」という題がつけられた夢が登場する。どんな夢だと思いますか。きっといろんな「すてき」を思い浮かべますよね。これ、読むとわかるのだけど夢だけみても特に素敵ではない。「すてきはどこ?」と思って読んでいくと、実はこれゲーテ『ファウスト』からの引用である。「いつか見た夢すてきな夢さ」。

連想のたくましい患者である。精神分析ではフロイトの時代から夢と分析状況は関連づけられている。そして今も私たち臨床家は患者の夢の中に自分たちを見出す。自分の夢の中にも様々な関係が姿を変えて現れる。「現実に起こったことと空想で起こったことは、まずは等価なものとして現れる」。私たちはごくわかりやすそうな夢もみるが「巧妙に仕込まれた夢作業」をすることもある。それは小学生の時代からそうだったように他者との間に置かれると意味をもつ。

当時の可愛いイラスト満載の「心理テスト」とか「夢占い」という本は大抵「A.〇〇の夢をみた人」→「ほかに気になる男の子がいます」とか選択方式で、それを読んで「きゃーっ」と盛り上がるという感じだった。現実的に好きな子が今いないとしても一部あっているような気がしてしまうのは昔から変わらないことである。みんな想像してしまうし、「ちょっと気になる子」は大抵いる。だからちょっと興奮して盛り上がる。ちょうどよい遊びだ。

精神分析は選択肢がない。使うのは「自由連想」である。こちらも想像力を必要とする。が、精神分析という状況で現れる夢は今ここにいる二人の関係だったりするので結構複雑だ。秘め事としての夢だからキャーキャーできていたのにここに置かれてしまう。置かれることで連想は質を変える。その連想がまた夢想に近くなる場合もある。

ひとりの夢がふたりの夢に。精神分析ってそういう場所だ。

出かけるまでに止まないな、この雨。今朝はどんな夢を見て起きただろう。精神分析家のウィニコットは「夢をみられない」ことを主訴に精神分析を受けはじめた。夢という時間と場所を失うことは主訴になりうる。こころの世界が守られること、いつだってそれはとても大切なことに違いない。