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精神分析

咳、和倉温泉、事後性

南の空に月。早朝の月はいい。鳥たちもよく鳴いている。私が夜中にする咳は鳥たちの声と違って不快に響きそう。自分の咳で起きてしまい寝不足が続いている。それでも3週間ぶりに筋トレをした。その間は全く咳が出なかった。風邪症状もなく突然止まらなくなる咳につく名前はないが少しずつ改善しているのは確かだ。筋力もそんなに衰えていなくて安心した。上半身って姿勢を保つ以外に日常でそんなに使っていない気がする、という話をした。胸と背中を鍛える自重トレーニングも教えてもらったのでやってみよう、と思うがひとりになるとほんとがんばれない。それにしても眠い。当たり前か。

5月18日、19日と天皇家の愛子さまが七尾市の和倉温泉に行ったニュースを見た。GWに和倉温泉の被害状況を見たばかりだったし、瀬尾夏美さんたちの配信でも温泉の従業員の方にも「被害は大きかった方から支援は入るから」と七尾への支援が届いていないことを知っていたのでよかったと思った。七尾の青柏祭の「でか山」も和倉温泉お祭り会館で見たとのこと。2年ぶりに開催された青柏祭。「でか山」が練り歩く様子はものすごい活気なので来年もたくさんの人が集まったりいいなと思う。とにかく人が来ないことには復興が始まらない。歩きにくい隆起した道路、崩れ落ち内部の断面があらわなままの旅館、ゴロンと倒れたままの少比古那神社の狛犬。見れば見るほどいろんなところに被害が出たまま残されていた。東日本大震災のあと、津波で薙ぎ倒された建物が目の前にあるのに気づかなかった時のことをよく思い出す。

人間はそのままをそのままに見ることがいかに難しいか。それは精神分析をやっていても明らかだ。精神分析を受け始めた人たちはいずれ自分が見てきたものはなんだったんだろうと愕然とする瞬間を体験する。抑圧と抵抗の力の大きさに何度も驚く。自分のことなのに。フロイトは『心理学草案』において「事後性」の概念を探索した。精神分析における「嘘」と「真実」は心の非同時性、現時点、つまり後がある、という段階差を含むフロイト独自の時間概念によって説明される。この「事後性」の概念あってこその「自由連組」であるという認識は重要だろう。頻度そのものが重要なのではない。精神分析が患者と共に発見し、確認し、修正を加えてきた心の装置の歴史における時間概念を追求することが大事。今週末のReading Freudはちょうどその辺の話になるだろう。楽しみ。

ということで今日もがんばりましょう。暑くなるみたいだからお気をつけて。

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精神分析

無力

人との「つながり」がいかに理不尽なものか、私はわりといつもそればかり考えているような気がします。コロナ禍では特にそうです。そのせいか何かと押しつけを嫌います、今は特にかもしれません。もうちょっとゆっくり考えさせてほしいと思うこともしばしばです。自分の押し付けがましさを棚に上げてと言われるかもしれないけれど、少なくとも私は治療者としてはそれに対しては意識的なほうだと思うのです、多分(自分のことは自分ではわからないのでまだ訓練中の立場です)。

ウィニコットという英国生まれの精神分析家がいます。

彼は『情緒発達の精神分析理論』という本で「交流することと交流しないこと」について書きました。

英語だとCommunicating and Not Communicating Leading to a Study of Certain Opposites (1963)

書名はThe Maturational Processes and the Facilitating Environment: Studies in the Theory of Emotional Developmentです。

ウィニコットは英語で読むことが大切だと思っているのでがんばって英語でも読んでいます。

冒頭にはKeatsがBenjamin Baileyに当てた手紙からの引用があります。

Every point of thought is the centre of an intellectual world (Keats)

ウィニコットもたくさん手紙を書く人だったそうです。そしてこの文章は私がこの論文で最も好きな箇所で再び繰り返されます。

I suggest that in health there is a core to the personality that corresponds to the true self of the split personality; I suggest that this core never communicates with the world of perceived objects, and that the individual person knows that it must never be communicated with or be influenced by external reality. This is my main point, the point of thought which is the centre of an intellectual world and of my paper. Although healthy persons communicate and enjoy communicating, the other fact is equally true, that each individual is an isolate, permanently non-communicating, permanently unknown, in fact unfound.

いつも考えていることの大半はこの文章に集約されている気さえします。ウィニコットが何を持って「健康」とするかはともかくいわゆる「普通」と言い換えてもいいかもしれません。

肝心なのはthe other fact以降です。an isolateである私たち(=私)、これを維持することは生きているということの本質をなしているように思います。

コロナ禍において断たれたつながりは私に改めてその理不尽さを知らしめました。コロナというウィルスは誰のせいでもなく広がりました。そしてそれに対する無力に耐えられなかった集団化した思考の行動化によって私たちは無力でいることさえ許可が必要になった気がします。それもまたひどい無力感の現れですが。

偽りの「つながり」や「連帯」がan isolateである私たちを、本来誰からも見つけられることのない不可視であるはずの私たちを剥き出しの状態にしたともいえるでしょう。

今はただこういう抽象的な言い方しかできません。もちろんこれは具体的な体験に裏打ちされている感覚です。しかし精神分析は渦中にあるものがいかに潜在性を帯びているかに驚かされてきたはずであり、その事後的な発露を待ち続けるような学問でもあると思います。

だから私は判断を最大限保留したいと思っています。それは思考や情緒が無駄に波立つことを抑えるためではなく、むしろ逆で、刻々と時は過ぎ、老いていく自分にはその時間を同質に引き延ばすことなどできないと感じながらその無力にとどまることが大切なように感じるからです。

それぞれの「孤立」が守られること、私のそれを私自身が裏切らないこと、不安な毎日が続きますがこの無力を抱え込みながら過ごすこと、まずはそこからと思っています。