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生ーのー形式、とか。

空がグレー。昨日はお昼に急に雨が強くなった。「やむかなあ」と窓の外を見ながら出先で用事を済ませて、ちょうど出る頃には止んだので嬉しくて少し遠回りしてオフィスに戻った。

さて、急な右傾化について相談してもらったことでこれまでに色々読んできたものと今の関心事が繋がった部分がある。「急」はおそらく「急」でないが、パンデミックみたいな事態も起こりうるから、いや、これも私たちにとってはじめての事態だっただけで、ある側面からみたら反復なのかもしれないし、何かがプツッときれるときが「急」を作り出すのだろう。『私たちはどこにいるのか? 政治としてのエピデミック』はパンデミック以前のコロナ下でいち早く反応したしたジョルジョ・アガンペンの発言集(でいいのかな)。物議を醸したこの本を噂にのることなく読むには導き手が必要で、私はそれを岡田温司の『増補 アガンペン読解』(平凡社ライブラリー)に求めた。岡田がまとめているように

「所有」に代わる「使用」のパラダイム、「貧しさ」のもつ存在論的な意義、「宗教」としての資本主義への批判、生命間の線引きやヒエラルキー化への抵抗、風景の脱我有化

などを長年主張しつづけてきた老齢の哲学者がパンデミック下で素早く声を上げる必要があったのはなぜか。何かがプツッときれる危機を感じたからではないか。アガンペンの「生ーのー形式」は「非自体的」「非人称的」な思考の共同の形式であり、分割機能を働かなくさせる無為の戦略と結びついており、従属する生ではないという、などと書いているとキリがないのだが、この「無為」についての岡田の本で一章割かれているのでもう一度きちんと読んでみる。潜勢力の存在としての人間、その「遊戯」というのは、精神分析治療において私たちが持っている必要のある観点だと思った次第。

最近、朝のんびりしすぎて結局慌てる。世知辛い。暖かくして過ごしましょう。