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散歩 精神分析、本

築地、岡田温司『映画が恋したフロイト』

朝は目が見えにくい。なんでだろう。夜の間、リラックスしすぎてピント合わせる緊張感を取り戻すのに時間がかかるとか。わからん。不便だ。朝が一番捗るのに。

まだあまり暑くない。エアコンもまだつけなくて平気。冷たい麦茶で喉を潤す。

昨日は仕事が午前中だけだったので用事がてら築地市場へ寄ってみた。すごく久しぶり。今は築地は場外市場しかなく場内市場の跡地は大掛かりな再開発が計画されている。どうしたいんだ、東京。浜離宮の生態系に影響したりしないのだろうか。築地は場内の魚がし横丁に数回行ったことがあるがそれも場内市場が豊洲に移るずっと前のこと。場外は2度目かも。前は連れていってもらったのでいいものを食べたが今回は普通に歩いて抜けただけ。小道を覗くといろんな店がぎっしり。こんな感じだったっけ。外国の人がいっぱい。ほとんどの店が英語の案内を出していた。日曜は卸売市場が休みだからいろんな店がまとまって入っているビルは閉まっていた。ここなら一人でも気楽に入れそうだから今度きてみたい。オフィスからなら京王新線→大江戸線利用。生ものを出している店はこの気温で大変だろうなあと思ったけどずっと前からやってきたことだから大丈夫かどうかは感覚で判断できるのだろう。買って帰る人もそういうとこ気をつけるの上手なんだろうなあ。私も保冷バッグとか一応使ってるけどできるだけ無難にと思うからこの時期は生ものはほとんど買わない。築地場外市場の場合、そこで食べるのを楽しみにしている人が多いのだろうし。昨日は日差しが強かったが日傘をさすのも憚られる混雑が遠くからでもわかった。散策してみようと小道を覗いてみたけど人混みに気圧されてあっさり表通り(?)に退散。スッキリした東銀座の方へ向かってしまったが、せっかくきたのにこれではいかん、と戻り、小道探索。歌人の大森静佳さんが朝日新聞デジタルに寄せていた大阪・関西万博をめぐる短歌とエッセーを思い出し、私も気持ちだけはあんなふうに観光地と触れたいと思い直し戻るとさっきとは別の景色に見えた。この前、知らない土地を急ぎ足で歩いているときも帰りはきっとこの景色は違うふうに見えるからランドマークを覚えておかないと迷うかも、と一本道なのに心配したのを思い出す。

いろんな国の人。いろんな食べ物。いろんな言葉。市場は休みでもここは活気があった。築地本願寺にもはじめて行った。荻窪の荻外荘を設計した伊東忠太(1867-1954)の設計。荻外荘は入澤達吉の別邸だったが、今では近衞文麿が自決した書斎が有名だろう。場所の違いがあるとはいえ、同じ人が築地本願寺の図案も書いているとは。築地場外市場とはまるで真逆のどーんと広い外観にも驚いたがそのエキゾチックな雰囲気にもあんぐりした。いろんなところに動物がいるのには和んだ。内部も天井が高くすごく広い。法要をライブ配信するセットも整っていて寺の世界も色々だな、と思った。寺婚のパンフレットもあった。別の建物にはカフェやショップもあって昨日はたくさんの人が並んでいた。おいしそうだった。小さなショップには数珠とか築地本願寺と書かれたお菓子とかが売っていた。大きな寺にはこういうのあるものなのね。そこを通り抜けるとすぐ地下鉄日比谷線築地駅。納骨堂も駅直結なのか、とびっくりした。こういうのって東京メトロと浄土真宗が話し合ってそうするものなのかな。正門の近くには大きな鉢に蓮が伸びていて一輪だけ咲いていた。連日見られたねえ、と思いながら写真を撮ろうとしたけど一輪しか咲いていないからじっくり写真を撮っている人がいて私は適当にシャッターを切った。

岡田温司先生からいただいた『映画が恋したフロイト』(人文書院)を読み始めた。フロイトがハリウッドからのオファーを断った話は有名だけどこの本もそこから始まっている。これまでの映画の本は映画タイトルの索引(膨大でびっくりする)があったと思うのだけどこの本にそれはない。内容はいつも通りすごく読みやすくて面白い。映画に詳しくなくても、精神分析に詳しくなくてもエンタメとして読めると思う。岡田先生はものすごく多作だが、この本でも最近話題になったばかりの本や映画も引用されていて移り変わりの早い時代に過去を繋ぎ止めておく力がすごい。精神分析家としても人文学の専門家がこういう仕事をしてくださることは本当にありがたいし、写真好きとしても映像の歴史と精神分析が重ねられているだけで楽しい。特に第1章は週末の精神分析的心理療法フォーラムでの私たちのシンポジウムでお話しされたことと重なっているのでご参加された方にはぜひ読んでほしい。映画でもこういうことが言えるのか、って楽しめると思う。チャップリンの作品をめぐるフロイト先生の態度もコンパクトに書かれているのにすごく面白い。精神分析理論は単独だと難しく感じるかもしれないけれどフロイトが日常生活における失敗から色々言っているように生活と密着したものだし、夢と映像って極めて関係が近い。今、オンラインで動くフロイトをみられるのも映像技術があってこそ。なんでもかんでも映像になる現代にこのワクワクを取り戻すのは難しいかもしれないけれどこういう本を読むことによってそれは可能。少し遡れば感じることのできるワクワクをみなさんもぜひ。

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精神分析 言葉

NHK短歌、ムーミン、精神分析

NHK短歌を見た。大森静佳さんのムーミンの歌、すごく良かった。ゲストは大好きな祖父江慎さん。ムーミンはいろんなことを教えてくれるしこうして今にも受け継がれている。すごいことだ。今、我が家にはムーミン谷のお土産が色々ある。埼玉のだけど。

空が水色。テレビ見てるとあっという間ね。

精神分析のことなんだけど、週4日も同じ人のところへ通っていると相当量アウトプットしつづけることになるわけで、あれは特異な体験だったな、と思う。沈黙も対話によって生じる沈黙と自分のなかで記号化できないなにかを感じ取っている間の沈黙では異なるし、こうやって一人でアウトプットしているのとカウチで分析家の隣でアウトプットし続けるのって全然違う。

今も昔もだろうけど精神分析を受けているといえば即、知りもしない人の家の台所事情やライフプラン、夫婦関係や家庭状況にまで言及してくる人もいますがそれはそれ。推測も憶測も自由。でも財産も生活も共有しているわけでもない人がプライベートな部分に踏み込むことがあるとしたらそれには守りが必要でしょう。自分の判断だ、自分の選択だ、と言ったところでそれは実に揺らぎやすいものなので誰かに何か言われるとすぐに揺らいでしまうのが私たちですがそういう揺らぎも大切にすべきだしされるべきでそういう作業を始めた人を邪魔しないでほしいなと思う。学術的な議論としてするならともかく。精神分析は侵入する、されるがたやすく生じやすい設定だけど、それは関係が近いからだけでなく、人の心は脅かされやすいから。そして脅かされると攻撃に転じやすいから。だから精神分析家の方は訓練を必要とする。特定の他人に自分を晒しつづけるという訓練を。それは同時に誰が相手であっても晒すものではない自分(境界)を作るプロセスでもある。他人とどう関わるかは自分の自由である、ということを各々の倫理において確立するプロセスと言えばいいのでしょうか。被分析者の方も精神分析家になるための訓練が目的ではないとはいえ体験としては同じ。狩野力八郎先生が患者さんの方が家族よりも自分のことをわかっていると思うとおっしゃっていましたがこれも単純に受け取るべき言葉ではないでしょう。私も「ある面では本当にそう思う」と思っていますが。ラカンが精神分析を受けた人は精神分析家であるといったのにも非常に納得していますがこれも単純な話ではないでしょう。精神分析家は偉い人でも優れた人でも性格のいい人でも全くなく(そういう人もいるでしょうけど精神分析がそうしたわけではないと思う)非常にマイナーな職業にも関わらず資格として考えるとなんとなく持っている人、待っていない人みたいな分類のもとに思考が展開してしまう場合もありますね。子供がいる人いない人みたいなものでしょうか。だったら子供がいない人にももっと寛容であってほしいな、同時に子供がいる人にももっと手厚いサポートをしてほしいな、とかも思いますがそうはならない思考が展開されるというか停止するというか、とにかく決めつけが入りやすい類の問題なのでしょう、何者かであるというだけで。外側から何かをいうことのたやすいこと!学問に対して自分倫理を持ち込むことに危機感はないのかと思うことはしばしばですが、自分は自分で誰かとは全く異なる生活と運命であるはずなので自分の考えや欲望に注意を向けることがとても大切でしょう。精神分析家としてはそのための時間と空間を提供しているつもりですが人と人との関係は操作できるものではないので一緒に作業できるようになるまでは安全や安心とは遠いのかもしれず、そういう現実と出会いながら対話を続けていくことが必要なのでしょうね。継続的な関わりの中で自分自身が実感を掴んでいくこと。その実感も一瞬にして幻に変わる場合もあるけれど、それにも素直に出会っていくこと、歳をとればとるほどそれまでの経験で様々なことを語りがちですし、若ければ若いで少ない経験で語りがちですが、事実として語り継ぐ責任はそれぞれにあると同時に、自分の体験の不確かさを他人の言葉でたやすく補完せずに持ちこたえていきたいものです。ムーミン谷の優しさを思い出しながら今日もがんばろう。