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俳句 言葉

個人、関心、句友

今日は雨の予報なんですね。たまには降らないと地球水不足になってしまうけど今日は降らないでほしかったな、なんて個人的な事情はね、ああ、個人的な事情って本当に世界には関係のないこと、というか、相手が傷つこうか死んでしまおうがやりたいことをやる人はやり続けるものですね。世の中で関心を向けられるべき人は現在それを得ている人たちではないのはたしかでしょう。あからさまな差別をしている人たちはいうまでもなく、口先だけの心優しき強者も弱者には見えないコミュニティでもこれまで通りの賞賛と共感を得られるでしょうから色々なかったことにして弱者も共存するコミュニティにいい顔して入り込むのは避けてほしい。それはこういう文章を書くという行為であっても同じことだと思っています。とかいったところで傷つけられた個人がそう思っているだけの場合は集団における印象というのは変わることはないし、支持と共感のおかげで弱者を差別する自分を上手に後悔して過去の「失敗」にできてしまう人のほうが肯定的な関心と評価を得るのが「ふつう」です。構造的な問題、と日々激しい口調で言っている人でさえたやすく巻き込まれてしまいますから。声をあげるなんて怖くてしかたなくなりそうです。一方、日々死にたいと思いながらもなんとか生きている弱い立場の人たちに例外なく優先的に関心を向け一緒に考えていくことができるのもまずは個人でしょうから、まずは自分ということになるでしょうか。

昨日は久しぶりに句友の連載や句評をたくさん読んで残酷な社会との関わり方のひとつとしての俳句に励まされました。彼らはとても優れた書き手ですが書き手として生活しているわけではないし俳句で食べていく人もごくわずかでしょう。基本的にわざとらしさを嫌う俳句同様、自由で気楽な雰囲気を感じる文章はいつも新鮮です。一方的ではない関係で地道に言葉のやりとりに支えられながら今日も一日。

ああ、雨ですかねえ、東京は。鳥は今日も元気そうです。みなさんもどうぞご無事にお過ごしください。

スヌーピーに鳥の友ある日永かな 斉藤志歩

斉藤志歩『水と茶』(左右社)より

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短詩 趣味

短詩とか編みメーションとか。

眠い、寒い、しか言わなくなる季節がやってきました。そして今日締切のこれらもどうしましょう。というか(といって目を逸らしちゃだめ)「寒い」だけがこの季節特有ですね(逸れた)。「眠い」は俳句の季語で考えれば春ですものね。「春なのに」があれば「冬なのに」もあると。お別れも季節問わずありますし。中島みゆきの曲のことです。「春なのにーお別れですーかー♪」なんか♪マーク書くとご機嫌な曲みたいだけど多分まだ東京が遠かった頃の切ない歌です。

昨日は歌人の絹川柊佳さんがネットプリントで出されていた短歌6首を何度も声に出して読みました。恋することと死ぬことみたいなお互いに内包し合う分かち難い感覚の配分が絶妙でした。高校生や大学生にご親戚がいる方はぜひ絹川さんの歌集『短歌になりたい』(短歌研究社)を贈ってあげてください。その時期ならではのモヤモヤや不安や痛みが幅広い素材と共にどこかあっけらかんと歌われています。毎日死にたいと言いながらなんだかんだ生きている大人の私たちにもよいかもしれません。

絹川さんのことを教えてくれたのは、今年8月に心理士(師)対象のイベント講師にいらしてくださった川柳人の暮田真名さんです。同期でおられるのだったか、絹川さんの才能に驚嘆したとおっしゃって勧めてくださいました。

暮田真名さんはますますご活躍の場を広げておられるようでお話ししていると親のような気持ちになる世代の私もなんだか嬉しいです。先日は絹川さんのネットプリントと一緒に、暮田さんと俳人の斎藤志歩さん、歌人の榊原紘さんの短詩集団による「砕氷船」も入手してきました。斉藤志歩さんの第一句集『水と茶』(左右社)が刊行されたので「斉藤さんおめでとう号」でした。ほんと才能もすごいけど楽しいみなさんで短詩の未来は明るそうです。

編みメーション作家のやたみほさんの作品と共に写真を載せておきます。やたさんとイロキリエ作家の松本奈緒美さんの2人展が11月いっぱい神保町にある子供の本専門店ブックハウスカフェで開催されていたのですがそれについてはもう書きましたっけ。忘れてしまいましたが小さなスペースにとっても緻密でかわいい世界が広がっていてうわぁとなりました。松本さんのきれいな小鳥さんをお引き取りにあがらねば。オフィスにお迎えするのです。ブックハウスカフェはカフェもゆったりしているので絵本好きの方には特にお勧めです。

はあ、それにしても寒いですねえ。東京はこれから晴れるみたいです。どうぞお元気でお過ごしくださいね。

絹川柊佳,「砕氷船」,やたみほ
イロキリエ作家,松本奈緒美
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短詩 精神分析、本

複雑なものとして

ゴロゴロしながらあれこれ複雑な気持ちになりつつ、こういうのもだいぶ慣れたなと思う。それにしてもこういうのってしょうがないとはいえ一体なんなんだろうね、というようなことばかり考えているうちにあっという間に時間が過ぎた。1時間前に考えていたことはもうすでに形を変えている。「ちょっと待てよ」の繰り返しでそうなる。

机に向かってSNSをみたら笑ってしまった。私は知らないが私の知っている人がそれなりに親しいであろう人が私が一番気にしていることを書いていた。

あははと乾いたような笑いとくすくすくすぐったいような笑いの両方。自分に対する自分の態度だっていろんなものが混ざってる。人間は複雑だ。

高橋澪子『心の科学史 西洋心理学の背景と実験心理学の誕生』(講談社学術文庫)を読みながら「フロイトの精神分析学までが」「フロイトに先駆けて」「フロイトの<リビドー概念>にさえも相通じる」という言葉に「フロイト警戒されてるなあ」と思った。フロイトは1939年に死んだのでまだ100年も経っていない。とかいったら第二次世界大戦からだってそうということ。

先日、ゆにここカルチャースクールが開催した「短詩トークショー『船コーン 砕氷船(ユニコーンが乗っています)』」のお題が「つの」で短詩集団砕氷船の歌人・榊原紘さん、俳人・斉藤志歩さん、柳人・暮田真名さんがそれぞれ短歌、俳句、川柳を作ったのだが斉藤さん(すっかりファンになってしまった)の俳句に化石がでてきた。新宿紀伊國屋書店の地下にも化石のお店あるよね、という話もされていた。

「一万年ですよ」

と化石を眺めながらその人がいった。そうか、想像もつかない。この100年のことだってこんななのに。子供たちが恐竜とか大好きなわけだよ。あと自閉症の子どもが原初的な、など色々話し出したらキリがない。

精神分析はフロイトの時代よりもさらに原初的なこころについての探究を深め、精神病理に対する理解と対応について貢献してきたが、世間的な関心はいまだフロイトにある。

「要するに、フロイトの結婚は彼に安全な避難場所をもたらしたのである。彼はマルタの個性を抹殺し、彼女を自分の外的要望すべてを叶える女性に仕上げた。彼女はフロイトの大勢の子供達の母親であり、有能な家庭管理者であり、決して不平を言わない配偶者であった。」

ルイス・ブレーガー『フロイト視野の暗転』(里文出版)133ページからの引用である。原書名はFREUD Darkness in the Midst of VIsion.書名通りこれまでの伝記とは異なり引用した部分だけでもわかるようにフロイトのダメなところをたくさん明らかにしてくれる本で大変参考になる。それはそうだ。が、しかし、と思う。

「決して不平を言わない配偶者であった」ってあなた、、、と思ってしまった。確かにフロイト一家には家政婦(というのかな)もいたし、様々な人がフロイトや家庭生活について語り継いでいる。何よりフロイト自身がフリースをはじめいろんな人に対し自分の気持ちを吐露するので推測の糸口はたくさん用意されてきた。

それにしてもだよ、と私は思わなくもない。臨床だけではない、研究だけではない、その両方を経験したうえで書いている、というのであれば(本書の「背景と資料」を参照)こういう直線的でゴシップ的な書き方はどうなんだろう。これでは私たちが普段他人の家庭に対して持ち込む勝手なイメージと変わらないではないか(「私たち」とか一緒にしないでという話かもしれない)。

人はもっと複雑で、だから関係は当然複雑で、家庭なんてその複雑さが蠢きまくっている場所なのではないのか。勝手なこといってんな、とこの類の文章についてはいつも思う。それを誰が書いているかなんて関係なくそう思うのだけどどうなのかな。「決して不平を言わない」人だったかどうかはともかく、それが夫であるフロイトに対してはね、ということであったとしても、これだけ長く暮らしていたら色々あるに決まってるじゃん、と思うのは私が「抑圧」の概念を理解していないからか。この時代の厳しさをわかっていないからか。そうかもしれないがそうでもないだろう。戦争はまだ起きているし、家父長的な意識はいまだ蔓延している。私はそういう世界で言葉を使いながら生活をしている。

心の科学史 西洋心理学の背景と実験心理学の誕生』(講談社学術文庫)で「フロイトは警戒されている」と思ったと書いたが、こっちの方がずっと学問的だ。ヴントの『民族心理学』とフロイトの『夢判断』の出版年が同じであるという“偶然の一致”に対する慎重な姿勢は私たちがフロイトを読むときにも忘れてはならないものだろう。

安易に結びつける。安易に解釈する。「女だから」とかも同じ類だろう。自分ひとりにできることのわずかさを物事を安易に単純化することで否認するようなことはしてはいけないというか、いけなくはないかもしれないけど誰かを傷つけるし分断や差別を招くのではないか、と私は思っている。

少なくとも精神分析に関していえば、現代の精神分析はビオンの「記憶なく欲望なく理解なく」が頻繁に引用される状況にあるわけでフロイトを知るということはそのテクストを精読し続けることであってそういうことではないのでは、と私は思う。

他愛もない一言に涙が溢れた。

誰にも言ってないことを話した。話してから誰にもいえてなかったことに気づいた。

人には無意識がある。無意識という表現があれなら誰にも触れられない領域がある。ましてやコントロールなど。

泣き喚き大暴れする日もあれば穏やかに共に時間を過ごす日もある。そんな日々は共存する。寂しさも孤独も喜びも体験する。人のこころは意外といろんなものに耐えうるらしい。耐え難く辛いとしても。

別れを決断する人たちとも多く会ってきた。彼らがそれを決めたときの表情や言葉。共通する静けさを思い出す。

フロイトとマルタは別れなかった。離婚という意味では。単純ではない繋がりとそれに対して持ち込まれた切断とそこから生じたさらなる繋がりとなどもはや「色々ある」「複雑だ」という以外に描写しようのない関係がそこにはあっただろう。外からは決してみえないものが。

私はいろんなことを複雑なものとして考え続け、躊躇いながら言葉にしていくことを続けていけるだろうか。たった一言に心揺さぶられてしまうのに。すぐにもういいやと思ってしまうのに。わからない。でもとりあえず、いつもとりあえずだ。

今日の百年後、一万年後のことはまるでわからないけれど何かは繋がっていってしまうのだろうからあまりおかしな部分(?)を残さないようにできることをやりましょうか。それぞれの1日をどうぞご無事で。