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読書 音楽

『大使とその妻』、中村達、柳樂光隆の仕事など。

湯沸かしポットがくつくつふつふつ音を立てている。カチッとなった。お湯が沸いた。夜中に千葉県東方沖震源の地震があったのか。東日本大震災のとき、千葉も大変だったとTDLの近くに住んでいる友人が言っていた。詳しく聞いたのだけど詳細を忘れてしまった。細かく知るとそれぞれに本当にさまざまなことを超えてきていることに驚く。水村美苗『大使とその妻』の主人公も相手の話を聞くことで感じ続け驚き続け心揺らし続けている人物だ。主人公が知る事実は私たちも知っておいた方がいい事実であり、でもそれは知的水準にとどめておいてはならない類のものだ。そして物語の中で主人公が生きる状況は私たちがほんの少し前まで生きていた現実だ。私たちはたやすく忘れていくけれども。そしてこの本に関して具体的な紹介をしたくないと思うのは私たちの人生はキーワードで括れないということをこの本自体が示しているから。たとえば「東日本大震災」という言葉を使ったとたん、何かのストーリーが思い浮かべてしまうような心性を誰もが持っていると思うが私たちの想像力は相手の人生を知るほど豊かではないということに主人公も何度も突き当たる。それは当たり前だからこそ何度も愕然とし心がずっと揺れる。私たちはすぐに知ったかぶりをして心揺らさないようにするけれど。別の本で短い書評を頼まれているのでそれを読まないとだがまた別の本ばかり読んでいる。その本もすでに話題の一冊だが何か書きたいと思うことがどんどん浮かんでくる本だといいな。私は読まずに書ける方では全然ないから。『大使とその妻』は優しい世界をくれた。またこういう本に出会いたい。人を信じられるようになるような本に。

中村達氏の『私が諸島である カリブ海思想入門』(書肆侃侃房)がサントリー学芸賞(思想・歴史部門)を受賞した。柏書房のwebマガジン「かしわもち」で連載している『君たちの記念碑はどこにある?』とともに大きなインパクトをくれた一冊である。今年はカリブ〜アフリカ性を考えさせられる本や音楽とメインに出会ってきた。もはや東洋と西洋の二分法で世界を捉えるのは困難だろう。音楽は柳樂光隆のインタビューで黒人のジャズミュージシャンたちの考えやジャズ自体の歴史を知ることで色々触発された。最近でたジョン・バティステのインタビューも非常に良かったし、ジョン・バティステの新しいアルバム『Beethoven Blues』は私もとても気に入っている。前作、前前作と全く異なる方向からだったのでびっくりしたがこういう驚きをくれるという期待を本当に裏切らない。こういうところに彼が黒人であることと向き合い続けることを含む思考の強さを感じる。私は私が知ろうとしてこなかった世界について語る言葉をまだ全然持たないけれど紹介してくれる人たちを含め彼らの仕事を尊敬する。今日もがんばろう。

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読書

寒くなった

急に寒くなりましたね。困ります。こうなるのではないか、と思っていたけどやっぱり嫌です。近所の散歩道の金木犀は小さな金平糖のようなお花をすっかり散らして地面を染めていたオレンジもすっかり消えてもうすっかり他の木々に紛れなんの香りも放ちません。あと少ししたらそこが金木犀だったことも忘れてしまうのでしょう。来年も「金木犀は?まだ?今年遅くない?」というのでしょうか。少しずつ少しずつ花咲くのが遅くなりいつのまにか冬の季語とかになっていたりするのかもしれません。でも季語はわりと正確に季節を表していて昨日「ああ、金木犀が終わると冬が来るんだな、きちんと」と思ったのでした。あと1週間で立冬。きっとその頃、ちょうど「ああ、冬だあ」と思う風や空と出会うのです。毎年そうですから。

昨晩、また少し水村美苗の『大使とその妻』を読んでいました。私がさっき書いたような季節の変化がとても細やかに描かれています。小説は現実よりもずっとスピードが速く、季節もどんどん変わっていきますがこのお話は軽井沢の家からの定点観測という感じで主人公が毎日どんな道でどんな景色を見ているのかいつのまにか浮かび上がってくるような繊細な筆致が素晴らしいです。主人公の心の静けさやその静かな心が泡立つような瞬間の捉え方も水村美苗らしくて素敵です。少しずつしか読めてないけどそのスピードで十分な本だと思うので今日も夜、少し読みたいと思います。海外の言葉に塗れながら日本語についてずっとずっと考えてきた著者は主人公そのもの、ではないのでしょうけど思考と言葉の紡ぎ方は多分こんな感じでこのあとの展開と同時にそれを描写する日本語も楽しみです。

外は雨らしく時折大きな雨粒が落ちてきたような大きな音がします。落ちてくる間に重なり合って大粒になったりするのでしょうか。それとも落ちた場所の素材が立てる音でしょうか。しばらくしたら晴れると聞きました。しばらくがどのくらいかを聞くのを忘れてしまったけどどちらにしても傘は必要そう。どこかに忘れてきてしまわないように折り畳みがよいでしょうか。そういえば先日いつもお世話になっている方に「あなたが上着を忘れる季節」と言われました。脱ぎ着が多い季節は管理が難しいけれど季節の出来事として捉えてくださるならありがたいことです。確かに患者さんでも「またこの季節がきてしまいました」と調子の悪さや良さを伝えてくださる方も多く「でも昨年は」と少しずつ馴染んでくるその季節の自分の良き変化を感じたり「やっと寒くなった」と久しぶりの体調の良さを喜んだり。ご自身の身体の調子に耳を傾けることはとても大切。それを大雑把位に「いつものこと」とするよりは「金木犀がすっかり散るといつも」とか言ってみたいものです。今日も温度調節できる服装が良さそう。私は足と首を冷やさないように気をつけたいと思います。どうぞみなさんもお身体お気をつけてお過ごしください。

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言葉 読書

地震、読書

揺れた。昨日から地震が多い気がする。そして早朝に地震が多いと感じるのは阪神・淡路大震災のイメージが大きすぎるのか。今朝も同じくらいの時間だった。あのときその場にいたわけでもなく、当時テレビもなく、時間差で知った地震だったが友人たちが住む地域だったので連絡を取り合ったりなにより気持ちが落ち着かなかった。被災した方々の思いはいかばかりか。

昨日の朝、水村美苗の『日本語で書くということ』(ちくま文庫)を少し読んだ。夜、ウィニコット協会にだす原稿を書いていると「こんなところにも文庫積んでたんだ」と本棚の隅のスペースに目が行った。せっかく書き始めたのにすぐにこんなだ。手に取ったのは前田愛『増補 文学テクスト入門』(ちくま学芸文庫)。また似たような本を手に取ってしまった。夏目漱石はどちらにも登場するのだけど断片だけでも面白いような気がする。すでに読んでしまっているからそう思うだけかもしれない。覚えているわけでもないのに不思議なものだ。この本にも「言葉と身体」という章があり、そこを開いた。久しぶりに開いた。「この本にも」と書いたのは言葉と身体は精神分析では切り離せず常に議論の対象だから、なのだろうか。それだけではないかもしれない。「コードとコンテクスト」とかよりはずっと身近だしこうしてなんとなく開くのにちょうどいいのだ、と思って読み始めたらまた結構読んでしまった。この章では蓮實重彥の「横たわる漱石」という論文が引用されている。私はこの論文は『夏目漱石論』(講談社文芸文庫)という本で読んだことがある。「横たわる漱石」は『夏目漱石論』では第一章なのでよく覚えている。日本史の教科書で旧石器時代と縄文文化にばかり詳しくなるのと同じで(私だけではないと思う)最初の出会いには何度も立ち返ってしまうものだ。だからあえて「過去は振り返らず」みたいなことをいうわけでしょう。こういう適当なことを書き始めると止まらないし使い方よくわかってないけど「知らんけど」で適当に終わらせることになるから気をつけねば。この章だけでもやっぱり面白い。『伊勢物語』の和歌の読み方もとても素敵な章であることも思い出した。手に取ってみるもんだ。いや、いつでも読めるのだから今やるべきことを。それもそうだ。ちなみにこの本と一緒に積んでいたのは野谷茂樹、石垣りん、郡司ペギオ幸夫、山口昌男、丸山圭三郎。だからウィニコットの書き方について考えていた時に読んでいた本ってこと。色々無意識で繋がってるんだ、きっと。でもなんでもかんでも繋げるのはもっと時間があるときにやらないと。毎日自分で自分を叱っているけどやっぱり自分で自分をはあまり効果ない。でも誰かに叱られるのも嫌だしなあ。締切とか時間的な区切りで約束しておくことは大切だ。ああ、これもそろそろ時間切れ。あくびばっかりでるけどがんばりましょう。

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読書

2月29日(木)

足元の小さなヒーターが一生懸命作動している。ありがたい。とはいえ寒さもピークを過ぎただろうか。相変わらず真冬のモコモコした服装で出掛けてはいるが。iphoneの天気予報を見た。帰る頃には雨マークも。乾燥が解消したり花粉が飛ばないのならそれはそれでいいことだ。雨の日の靴選びに、というより空模様を読めないせいで雨に弱いスニーカーを履いていて何度も失敗している。それを解消しようと長靴だけが増えてしまった。適切な時に履かなければ意味がないのだが空模様が怪しいぞというときは長靴を履いてしまうようになったら失敗は減った。大雑把に対処していくのはオシャレではないが不快でない方がいい、私の場合。今朝はカラスの声が大きい。ゴミの日じゃないけど。いや、ゴミの日ではないからか。

水村美苗の『日本語で書くこと』を読んでいた。好きなんだ、水村美苗の文章。2009年に出版されたエッセイ集に少し加筆修正がなされて2022年に文庫化されたものだ。装丁は安野光雅。小説を書くことについて書きながら自由自在に本の案内もしてくれている。色々と読むべき本はあるがこういう本に出てくる本は特に信頼して読めると思う。私は手当たり次第に本を読んできたが結局はこういう本に出会うのであってまずは王道と出会うことで歴史を知るということが大切なのだろう。途中、読書に耽っていたらこんな時間になってしまった。今日も長い。頑張ろう。一日得した気分の二月でも気は抜けない。明日から三月。もう手遅れかもしれない、という気分にもなるがまだ遅れてないからなんとかしよう。長靴はこう。