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言葉 読書

地震、読書

揺れた。昨日から地震が多い気がする。そして早朝に地震が多いと感じるのは阪神・淡路大震災のイメージが大きすぎるのか。今朝も同じくらいの時間だった。あのときその場にいたわけでもなく、当時テレビもなく、時間差で知った地震だったが友人たちが住む地域だったので連絡を取り合ったりなにより気持ちが落ち着かなかった。被災した方々の思いはいかばかりか。

昨日の朝、水村美苗の『日本語で書くということ』(ちくま文庫)を少し読んだ。夜、ウィニコット協会にだす原稿を書いていると「こんなところにも文庫積んでたんだ」と本棚の隅のスペースに目が行った。せっかく書き始めたのにすぐにこんなだ。手に取ったのは前田愛『増補 文学テクスト入門』(ちくま学芸文庫)。また似たような本を手に取ってしまった。夏目漱石はどちらにも登場するのだけど断片だけでも面白いような気がする。すでに読んでしまっているからそう思うだけかもしれない。覚えているわけでもないのに不思議なものだ。この本にも「言葉と身体」という章があり、そこを開いた。久しぶりに開いた。「この本にも」と書いたのは言葉と身体は精神分析では切り離せず常に議論の対象だから、なのだろうか。それだけではないかもしれない。「コードとコンテクスト」とかよりはずっと身近だしこうしてなんとなく開くのにちょうどいいのだ、と思って読み始めたらまた結構読んでしまった。この章では蓮實重彥の「横たわる漱石」という論文が引用されている。私はこの論文は『夏目漱石論』(講談社文芸文庫)という本で読んだことがある。「横たわる漱石」は『夏目漱石論』では第一章なのでよく覚えている。日本史の教科書で旧石器時代と縄文文化にばかり詳しくなるのと同じで(私だけではないと思う)最初の出会いには何度も立ち返ってしまうものだ。だからあえて「過去は振り返らず」みたいなことをいうわけでしょう。こういう適当なことを書き始めると止まらないし使い方よくわかってないけど「知らんけど」で適当に終わらせることになるから気をつけねば。この章だけでもやっぱり面白い。『伊勢物語』の和歌の読み方もとても素敵な章であることも思い出した。手に取ってみるもんだ。いや、いつでも読めるのだから今やるべきことを。それもそうだ。ちなみにこの本と一緒に積んでいたのは野谷茂樹、石垣りん、郡司ペギオ幸夫、山口昌男、丸山圭三郎。だからウィニコットの書き方について考えていた時に読んでいた本ってこと。色々無意識で繋がってるんだ、きっと。でもなんでもかんでも繋げるのはもっと時間があるときにやらないと。毎日自分で自分を叱っているけどやっぱり自分で自分をはあまり効果ない。でも誰かに叱られるのも嫌だしなあ。締切とか時間的な区切りで約束しておくことは大切だ。ああ、これもそろそろ時間切れ。あくびばっかりでるけどがんばりましょう。

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俳句 読書

『スティーブ&ボニー』、3月11日、春の雨

寝不足。眠い。色々思い出したり考えたりしていると陰鬱な気分になってくる。さっき安東量子『スティーブ&ボニー』(晶文社)から引用したツイートをした。私はつながるための言葉を戦いの言葉に変換され言葉を交わすことに絶望したことがある。やっぱり、とどこかでわかっていたはずなのに希望を持ってしまったことにも重ねて絶望した。安東さんは絶望しながらも動き続ける。それをたやすく希望の証左とはいえないだろう。ただ福島で生きてきた人、福島を生きる人にとって絶望したからといって切り離すなんて何を?という感じではないだろうか。そんなことできないから絶望しながらでもこうやって生きてるんだよということではないのか。この本はアメリカで開かれた原子力に関する会議に招待された安東さんの孤軍奮闘日記でもあり様々な交流の物語でもある。そこでの講演内容を知れるのも貴重だし、それに対する聴衆の反応と安東さんの想いを知れるのはもっと貴重だ。あと1ヶ月でまた3月11日がやってくる。何度も何度も記憶を戻し、あれはなんだったんだろうと問い続ける。せめて誤解に基づく非難を回避する努力なら続けていけるのではないだろうか、こういう研究と現場を行き来する実践家の本を読むことで、と改めて思った。

空が明るくなってきた。今日の東京は「冷たい雨。今日との気温差に注意。」なの?昨晩、電車の液晶テレビ(っていうの?)でそんな予報を見た。まだ天気予報は変わっていないだろうか。「春の雨」という季語みたいに明るく暖かなイメージの雨ならいいけれどきっと違う。だって寒い。

ちとやすめ張子の虎も春の雨 夏目漱石

そうそう。今週も「ちとやすめ」と言い合いながら過ごしましょうか。リラックスするのはとても難しいことだけど力の抜けた柔らかな言葉をかけあうこと自体がそんな一瞬をくれると思うからまず言葉だけでもかな。どうぞ今日もご安全に。

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精神分析 精神分析、本

『グラディーヴァ』と手紙

グラディーヴァ ポンペイ空想物語 精神分析的解釈と表象分析の試み

前に書いたように『グラディーヴァ』にもいくつかの翻訳がある。種村訳はフロイトの『妄想と夢』論文とセットで種村氏と森本庸介氏の論考も読める。こちらはヴィルヘルム・イェンゼンの小説と訳者山本淳氏の表象分析のセット。

フロイトを読むときは時間が許す限り関連文献も読んでいる、というか読みたくなってしまう。このグラディーヴァ本のオリジナリティは、「『グラディーヴァ』をめぐる書簡」について書かれているところだ。作品と解釈をめぐり、イェンゼンと精神分析家が、あるいは精神分析家同士が交わした15通の手紙が取り上げられている。シュテーケルからイェンゼン、ユングからフロイト、フロイトからユング、イェンゼンからフロイト、フロイトからイェンゼン、といった具合に。

手紙というのはその内容だけではなくて、書かれ方、送られ方、受け取られ方などいくつかの側面から手紙の書き手についても教えてくれる。

置かれている立場、その人のペース、リズム、パーソナリティなどいろんなことが手紙には断片的に現れる。フロイトが出した手紙に淡白な返事を出すユングとか、フロイトを立てつつも苦言を呈するイェンゼンとか、せっかちですぐ反応がほしくなってしまうフロイトとか。

「応用精神分析」という用語はラカンによってその意味を変えたが、フロイトを読むときはフロイト自身のテキストとそれを取り囲む政治、社会、文化、思想などの文脈の双方を参照する必要があることは間違いない。

手紙はその双方の橋渡しをする。イタリアに強い思い入れがあるフロイトがイタリアから出した手紙は岡田温司『フロイトのイタリア 旅・芸術・精神分析』でも読めるはず(またもや発掘が必要)。

それにしてもなんでも分析対象にするものだ。今となっては、私たちが家族や身近な人を精神分析することは危険というのは共通認識だが、文学や芸術に対する分析ってどうなのだろう。危険ではないだろうけど、なんだか偉そうだよね、と思ったりもする。小さい時から文学に助けられてきたせいかもしれない。

私は大学生の時、夏目漱石の病跡学をやりたいと思っていたが、それも偉そうだったかも。夏目漱石は実家に全集があって、今でも文庫で持ち歩くことはよくあるほどに好きだから触れたかったのだとは思うけど。今だったらどうかな。精神分析は治療としてだけでいいかな。文学とは山本貴光さんの『文学問題(F+f)+』みたいに関われたらいいなと思うけど、あれはすごい本だからなぁ。私は人に対してあのようなエネルギーを注いではいるような気はするが。

またもやとりとめなく書いてしまった。朝のウォーミングアップ終了。身体も動かさないと。