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河合隼雄とか精神分析とか。

8月。カレンダーをめくろう。外が白い。曇ってる。雨が降るのかな。昨日は朝は風を感じなかったけど昼間は感じた。ちょっと遠回りして久しぶりの図書館に行ったけど以前のウェルカムさは全くなく管理されている感じが居心地悪くいろんな本の背表紙だけ眺めて出た。

私は児童文学も専攻のひとつだったので図書館に行けばその棚もチェックするが、河合隼雄はそこにもいた。そもそも私が河合隼雄と出会ったのは実家の書棚にあった昔話とか子供に関する本を通じてだった。織田先生や河合俊雄先生たちに教えていただきにユング派のセミナーに出ていた頃も心理職としての河合先生が話題にあがることはあまりなかったし、実際、臨床心理士の集まりでもその場でフルートを披露された先生のことしか覚えていない。児童文化学科発達心理学専攻だった私にとって河合先生は臨床の先生というより子供のこころの先生だったらしい。精神分析を学び始めてからは精神分析は小此木先生、ユング派は河合先生という感じでその対話本などは読んでいたが、実践としてビビッドで、実際に教わりにいったのは精神分析だったら藤山先生たちの世代、ユング派だったら俊雄先生とかの世代だった。毎週木曜日、慶応心理臨床セミナーに私が通っていた頃はまだ小此木先生がいらしたので河合先生よりはずっと身近だが、精神分析かユング派かとか技法の違いでいったら、私はそのほかに家族療法も短期療法も動作法も学びに行っていたから、京大出身の仲間たちが語る河合隼雄の影響力はいまいちピンとこないし、小此木先生も特別感はない。長谷川啓三先生について名古屋に通おうとしていたし。一回だけいってすごく興味深かったけど続けたら精神分析にかけたのと同じくらいの費用がかかったかもしれない。何かのオタクになるとお金がかかる。

先生たちもそれぞれオタクだったと思う。精神分析を受ける人は少ないけどある程度オタク気質がある人たちなんだと思う。それに集中することで強いられる負担を負担と感じるしかたが独特だと思うし、精神分析はさらにメタというか、他者と共にいようとする、あるいはそこで痛みを感じる自分の心、というふうに対象が自分(=他者)になるし、自分の可動域は自分で思っているよりずっと広いか、複雑。なので痛みと不快さにまみれすごく苦しくて本当に辛くてもなんとか探求を続けられる面白さがある。私はあった。最後には「これが“遊ぶということ”か」とかなりの自由と面白さを実感できるようになったのと訓練ケースが訓練として認められたのが重なり(連動しているからだけど)分析家になる少し前に分析を終えた。今となれば何を選択しても同じ結果になったかもしれないけど、私が身をもって知っているのは精神分析だけなのでそれを生業にできてよかった。一途にオタクをやってきた。使えるものはなんでも使って、ということができる人はいいけど、私の場合は結局こんがらがって「やっぱり基礎からだな」と何度もスタート地点に戻ることになるから探求をやめないやり方が自分にあっていたんだと思う。それぞれ自分は何がしたいのか、ということに尽きるけどそれが本当にやりたいことなのかを模索するのも必要だったりするからややこしいね。

もらった温室みかんがちょうどよく甘酸っぱい。今日は金曜日。天気予報はやっぱり雨。がんばろー。

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読書(山本七平、鶴見俊輔、河合隼雄)

早朝、投句を忘れたことに気づいた。リマインドもあったのに。ああ。自分で立ち上げた句会なのに。余裕がないってよくない。

今日はまたまた秩父市の「栗助」さんのお菓子から「おらが家のそば」。あ、美味しい!そば粉の皮に黒胡麻の餡が包まれているお菓子。良い焼き色の皮に白胡麻がパラパラっとまぶしてある。

そんなことしてる場合ではないのだけどいろんな本の読み直しをついしてしまっている。山本七平『「空気」の研究』の文章がかっこよくてついつい色々積んである文庫たちやKindleに入ってるものを貪り読んでしまった。鶴見俊輔は『旅と移動』は良いけど『不定型の思想』はあまり楽しめなかったな、そういえば。だから今回読んでないけど。「中空構造」の話をしたついでに河合隼雄の『母性社会 日本の病理』もパラパラした。中空構造の本はどこにいったのだろう。この『母性社会 日本の病理』はセットで読むといいのでは。河合隼雄の本ってどんどん読めちゃうけど私は父殺しとか母殺しとか言葉に慣れすぎてしまっているのか違う言葉にしてほしくなってしまう。父、母という言葉を包み込むとか切り離すとかいう機能を示すものとして使うのはわかるけど実際はそういう機能は限定的だし父、母という言葉を使うことでかえって意味を狭めていると思う。河合隼雄は母性原理に基づく倫理観を「場」の平衡状態の維持に価値を置く「場の倫理」、個人の欲求充足や成長に価値を置く父性原理に基づく価値観を「個の倫理」とするのだけどこの「場」の話になるとこの二つの倫理は分け難くなるというよりも倫理ではなくなっていく。みんなが「場の力の被害者」になろうとする場所の倫理に対しては別の名前が必要そう。

さっきそろそろ出る準備しようと思って充電していたWi-Fiを見たら充電されてなかった。スイッチのあるコンセントでやったんだけどスイッチをパチンってするの忘れてた。がーん。なんで同じことを何度も何度も繰り返すのかしら。スイッチ付きコンセントなんかない時代にはこんなこと起きなかったのに。Wi-Fiもなかったけどね。今はなんでもかんでも充電充電。Wi-Fiもわいも充電不足じゃわい。東京は今日も晴れて気温が高くなるみたい。花粉が怖いけどお散歩行きたい。本格的に花粉症になってしまったのか鼻が止まらないのでちょっといいティッシュ買ってる。はー。みんなみんな朝からお疲れ様。昼からでもお疲れ様。夜は普通にお疲れ様。どうぞ良い一日をお過ごしください。