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映画 読書

カカオとかテンペストとか。

鳥が鳴いているのを耳で探しながら聞いていたら二度寝してしまった。しっかり夢も見た。最近の夢はみんなで一緒に動きながら何かをやっている夢が多い。どうにも眠いので普通の濃いめのアールグレイを入れた。ハーブティだとまたまったり眠くなりそう。冬の間にもらったチョコがなかなか減らない。今日はこれ、今日は・・・と食べ続けているような気がするのだけど。今日は剥き出しになっていない金の包みにくるまっているのにした。どうしてこれだけくるまっているのかしら、と思って開けてみたけどその特別さはよくわからなかった。ただ、甘い!びっくりした。このちっこいのにどれだけの甘味を詰め込んだのか。句友でもある和田萌監督の映画『巡る、カカオ〜神のフルーツに魅せられた日本人〜』の「うま味」の話をまた思い出してしまった。あれもみんなで何かやる話。映画のおかげでカカオがすっかり身近になった。先日、筑波実験植物園の熱帯資源植物温室でもカカオを見つけた。そこは本当に暑くて迷い込んだ先で知り合いにあったような気分だった。

昨晩は河合祥一郎によるシェイクスピア新訳シリーズの第15弾『新訳 テンペスト』を読んでいたらあっという間に2時を過ぎていた。私が演じながら読んでいるとミランダがちょっとバカっぽくなってしまう。父プロスペローに「聴いているか」と問われる理由が単に集中できず眠りこけてしまう自分と重なってしまう。ミランダはいい子なんだけどあまり思慮深くないというか男に囲まれた世界で育つって苦労も多かったんだろうなと思ってしまう。キャリバンは当時王女が嫌なやつのあだ名にしていたエピソードがあるほど不快な人物として描かれているがものすごくイキイキしている。ミランダの母親が全く描かれないのに対しキャリバンはおふくろの存在を軸に言葉を紡ぐ。自分の言葉は育てられたものでもあるゆえ誰にも奪われるものかという矜持を感じる。舞台で観たい。戯曲は面白いな、と思ってもう一冊読んでしまっているのが町田康『口語 古事記』。これはいい意味でずるい面白さで戯曲ではないのだけどなんか近いものを感じる。軽みとイキイキさがにているのかもしれない。

さて、今日も休みという感じはないができるだけ色々進めよう。東京寒い。でもこのくらいの寒さはなんてことないはず。どうぞ良い一日を。

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精神分析 読書

学会とか自分語りとか

2023年1月4日から6日までContaining Diversity, Bridging Difference is the theme of the 4th Asia-Pacific Conference, which comes to Delhiだった。インド・・・。行こうと思っていた学会だけど私は日本にいても体調が悪いのに特に悪い胃腸のせいで学会どころではないかも、海の向こうで友達の世話になるわけにもいかぬ、と思っていかなかった。11月にインドの精神分析家とお話ししたばかりだったから頭にはあったのだけどその時に参加費が高すぎるという話が出たのが残っていたのかオンラインで参加できるのに申し込みを忘れておった。スーパーヴァイザーと話しててはじめて気づいた。そして気づいた今、学会は終わっていた。友達からの現地の動画とかみて感激したりしていたくせに。あとで友達の発表は様子教えてもらおう。なんだかすいません。がんばれない以前の問題が色々あるな。組織でやっている学問だからコミットしていかないとね。

今朝はキウイを食べた。柔らかくて甘い。安かったのにね。嬉しい。キウイ畑っていうのかな。夏にたくさんの子供たちを連れてキャンプに行っていた頃にキャンプ場の隣にあった。毎年夏の終わりに開催してたのだけどたくさん実がなっていたと思う。でも収穫って10月とか?でしょ?本当になってたのかな。これ何がなる畑?キウイだよ。とかいう会話をしてたくさんのキウイがなる景色を思い浮かべたのがその後実際に見たキウイ畑と重なって事実みたいになってるのかな。記憶ってそういうものよね。重なり合いながら変化していく。話を聞いていてもそういうものなんだなあって思う。いろんな人のいろんな話をずーっと継続的に聞いていると出来事としては同じ描写でも体験の仕方が全く異なるのはもちろんのこと、患者さん自身「今はじめて思った」とか逆に「話したら全然違う気がしてきた」とか自分の体験の仕方が変わることに気づいたりする。私はフロイトがいうようにsimply listenということでただ聞いてるだけなんだけど患者さんのその感じはとても伝わってくるものがある。内容じゃないんだよね。だから話せばいい、話させればいいというものではなくて基本的には患者さんの世界を邪魔しないように一緒にいることが大切なんだと思うよ、当たり前のことだけど。見たことも聞いたことも想像もしたこともないような出来事について語られることもあればありきたりすぎてどこにも書かれないような出来事もあるけどそれを体験している彼らの全体が大切。私は小説どころか色々書けないけど自分を保つために創作はしていて小説家っていうのは自分の中で話し聞くが両方できるんだからすごい!と思う。金原ひとみの『パリの砂漠、東京の蜃気楼』(2020,集英社)をクリスマスに再読していたんだけどやっぱりすごかった。エッセイなんだけど自分語りとは全く違う。あれはあれで小説読んでるみたいだった。自分語りといえば昨年一番面白かったのが町田康『私の文学史 なぜ俺はこんな人間になったのか?』(NHK出版新書)。作家の自分語りって独り言みたいな自分語りと全然違うから読者の自由を奪わないというかものすごく対話的なんだと思う。寂しがりなぼくを、傷つきやすいわたしをそうとは言わずに知って、愛して、みたいな厄介な方向のナルシシズムを全く感じない。ロックだった。パンクだった。めちゃくちゃ面白かった。町田康のアルバムを聞きながら読んだ。記憶の話に戻るけど彼らみたいな作家の記憶って普通の人と全然違う気がしない?脳が違う感じ。記憶と言語は精神分析も専門的に関わるところだからもっと真面目に書けよ、と自分でも思うけどとりあえずここは雑文だから。私のナルシシズムは特に満たされないのだけど創作とセットだとそこそこいいみたい。才能なくてもそれでお金もらわないから気軽に書いてる。この仕事、見えないところでもいっぱい書くのだけどそれもエネルギー使う。ああ。やらねば。で、記憶ね。記憶について考えるといつも私の頭に浮かぶのは日渡早紀『ぼくの地球を守って』。今チェックしたらKindleでも読めるのね。あれは最高だよ。みんなも読んで。ここで試し読みできるって。

もうこんな時間か。朝ちょっと余裕があるととめどなく書いてしまいそう。今日もなんとか過ごしましょう。