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刀剣、公園、日本

東京の日の出は6時21分。すっきりと寒そうな空。宇宙飛行士の油井亀美也さんがあげてくれた宇宙の日の出の動画がとてもきれいだった。11月初旬、新潟の彌彦神社の宝物殿でみた刀たちを思い出した。きれいだった。丁寧に説明をしてもらいながら様々な日本刀をみたのが山形県上山市の蟹仙洞だと思うが、今年8月に閉館してしまったらしい。なんと・・・。これまで出会ってきた人たちのなかに刀剣好きな人はわりといていろんな話を聞かせてもらった。私も好きだが、ほとんどオタクのみなさんの語りには驚いてばかりだった。推しの話をするときの輝きや力強さはいまやアセスメントの指標のひとつだ。2017年、初台の物件で開業することを決めたとき、刀剣博物館が近いのが楽しみでいっぱい通うぞ、と思ったのに9月、ちょうど私がオフィスで仕事をはじめたときに両国に移転してしまった。貼り紙をみてガーンとなった。墨田区はSCとか幼稚園巡回で身近だから気楽にいけるけれど近所とは全然違う。オペラシティアートギャラリーだって近くなくても行っただろうけど毎日仕事をする場所の近くにある特別感。手ぶらでいけるし。

それにしても冬らしくなってきた。紅葉がとてもきれいで公園で読書とかしたいなとか思うけどとどまるには私には寒い。西新宿はベンチが多くて新宿中央公園のベンチでのんびりしている人をたくさんみかける。新宿白糸の滝と名付けられたミシシッピアカミミガメたちがいる水辺と新宿駅方面へ続く西新宿の高層ビルがみえるきれいなベンチでくつろぐ人たちをみるのは楽しい。公園全体の整備が進んで、なんか辛いなあ、と思いながらみていた工事中の景色が順々に新しくなっていく。私が毎年親しんで楽しんで開花を待っていた花たちはただの道になった。上を見上げれば高い木々の紅葉と鳥の声は前のままで誰を気にすることなく大きなため息をつける場所もあるけれど。アメリカデイゴは花の時期が長いらしく、いついってもまだ咲いている、という印象がある。

昨晩はずっとエアコンをつけていた。加湿器もつけた。加湿するとぬくぬくさが増す気がする。辛いニュースをぬくぬくしながらみていられるのは幸せな環境かもしれないが背筋が凍るような事態が進行していそうで怖い。辻田真佐憲の『「あの戦争」は何だったのか 』(講談社現代新書 2780)に靖国神社の遊就館が

「今日においても実質的に″日本を代表する戦争博物館″としての役割を果たしているといっていい」

と書いてあってそうなのか!と驚いた。外国人観光客も多く訪れているらしい。偏ったことばかりが書いてあるのではないか、という疑いはこれを読めば薄まるが、「負の歴史」を因果関係ではなく単なる事実として記憶に残る記録として展示していく公的な機関の必要性は強まるばかりではないか。そういうものが作られないための準備ばかりされているような気がしないでもないが。私は辻田さんの本は挑発的な部分を誤読してしまったらどうしようと思いながら読むのだけどこれも大変勉強になった。言いっぱなし、使われっぱなしの言葉や出来事をどう未来につながるものに育てて形にしていくか、ということを考えないといけないのだろう。「反省」って言葉とか。

アンドレ・グリーンの罪と恥に関する論文を読んだので、それについて書こうと思ったのに日本に思いをはせてしまった。罪と恥も土居健郎の「甘え」の文脈で考えているから結局日本に住む日本人として色々考えるのは当然だが。

いいお天気でうれしい。暖かくして温かい飲み物と一緒に過ごしましょう。

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読書

『新プロパガンダ論』

ゲンロン叢書008『新プロパガンダ論』について早朝から呟いていた。2018年4月から2020年9月にかけて、辻田真佐憲さんと西田亮介さんのお二人がゲンロンカフェで行った5回の対談が書籍化されたのがこちら。この間に何が起きたかを私たちは共有しているだろう。ウィルスによって。

辻田さんの「辻」は本当はしんにょうに1点なんだけど2点しか出ないからすいません。本当は1点のしんにょうの「つじ」さんです。

ところで、私は対談がそのまま掲載されているような本は、対談形式が多い著者以外のはあまり好きではないが、この本は書籍化に伴い大幅に加筆修正がされたという。というか大抵の場合、そうだと思うけどそうでないものもあり、雑誌ならともかく書籍だとなんだかなとなる。

内容についてはすでに呟いてしまったので書かないけど、書籍の一部はネット上で読めるので関心のある方はチェックを。私はとても関心があったのでゲンロン友の会に入っていると選べる本の中からこれを選んだ。表紙もカラフルでポップ(ポップの意味を本当はよくわかっていないけど)で置いておくだけでもかわいい。

でも置いておくだけにしないで読んだ。辻田さんは朝ドラ「エール」の時代考証(?)的つぶやきが好きでみていたのだけど、近現代史の研究者なんですね。西田さんは公共政策の社会学がご専門だそう。

この本、「プロパガンダ」というやや古い、しかもネガティブなイメージを伴う言葉を巡って二人が語り合っているわけだが、「新」と書名につくだけあって、この言葉がこの数年で生じた出来事を眺めるときのちょうどよいフレームになってくれる。

というより、お二人、とくに辻田さんがこの言葉の使い方がとても上手なのだ(西田さんはあえて使っていない)。議論を狭めるためではなく、広げるためにこの用語を使い、結果的にこの用語自体がもつイメージに曖昧さを与えることに成功している。少なくとも私はこの用語ってこうやって役に立ってくれるんだ、という感触を得た。

知ったり、学んだりすることが何かに気をつけることばかりにつながりがちな気がする昨今、情報を自分の自由な思考のために使えるようになりたい。

プロパガンダ、要するに情報戦略だが、それがどのように人のこころに入り込み、行動変容を促してきたか。精神分析的臨床の世界でも患者やクライエントと治療者がオンラインで出会うようになった。それだけではない。セミナーなどのオンライン化で彼らをオンラインにのせることになった。私たちは彼らをどのように表現していくのか。

私は、特に臨床家が対談をそのまま書籍化することが好きではない。これらは同じ問題意識から生じている感覚だと思う。話し言葉と書き言葉は違う。ともにいる場で話される言葉と身体が別々のところで話される言葉も違う。

コロナ禍の「利用」も言い方を変えれば悪いことばかりではないだろう。経験から学ぶ、という点ではたしかにものすごく気持ちを揺さぶられ、思考を促される体験だった。そこにどういう形を与えていくか、それをなんらかの合理化のもとに情報戦略として利用するか、空気感で忖度を迫るものたちに対して冷静に思考を維持できるか、どれも人のこころをどれだけ普通に慮ることができるかという話かもしれない。

辻田さんの冷静で率直な語り口は、西田さんがいうとおり「優しい」と思った。西田さんの政策に関する話は非常に勉強になった。よい対談だった。

そして以前『ゲンロン』に掲載された「国威発揚年表2018-2020」も加筆されていた。この対談が行われた期間は加筆せざるを得ない数年であり、それは今も続いている。今回「プロパガンダ」という用語がそのイメージに反していろんな世界を見せてくれたように、情報を単なる情報として受け取った結果、ダメージを受け、思考停止に陥るのではなく、情報が単なる情報である可能性を踏まえ、あれこれ考えることを意識するにはとてもタイムリーな本だと思う。