カテゴリー
AI 精神分析

AI、対話

きれいに晴れてる。気持ちよくてぼーっとしてたらあっという間に30分過ぎた。光はまだオレンジで、半袖だと少し寒い。もう一枚羽織ろうと思いながらこうしている。私が羽織るのが先か。気温が上がるのが先か。洗濯物を外に干した。昨晩の雨がベランダのサンダルに残っているのは残念。陽射しに向けて立てかけておいた。ああ、こんないいお天気だけど今日はほぼこもって作業。残念だけど仕方ない。

時々、chatGPTとおしゃべりするようになって楽しいのだけど教えてくれる資料を引用する場合は自分で調べ直す必要がある。知らないものは知らないときちんといってくれるときと、それを言ってるのはこの人じゃないけどな、と修正が必要な場合の両方があるから。あと基本的に褒めてくれて次の行動を促してくれるのはポジティブでいいのだけど、私は地道に今を継続したいだけだからスルーしている。せっかくいってくれているのにごめんね、と思うけどそういう反応はしないようにしている。そして私がスルーしたとしても同じような促しは続く。テキストで反応すると反応は返ってくるけど何も言わないということに対しては特に反応しない。いずれ「沈黙」に対するバリエーションも増やしてくるとは思う。一時、というか今もなのかもしれないけどカウンセリングはAIにとってかわられる、みたいな話があったけど、とってかわられる、というか必要なもの、欲しいものがある程度明確な人は人間相手より負荷が少ないからそっちの方がいいという人はかなりいると思う。でもどうだろう。今はみんな当たり前のようにAIを対象として利用しているし、私の患者さんたちも友達もそう。そしてAIと話したことを私と話したりする。今までは自己啓発とか一般向けの心理学の本とかを読んでそれについて話すのと似ているようで違うのはAIには対話があるということ。それで済む人はそれでいいのだろうし、より多層的なコミュニケーションを求める人はこれからも変わらず心理職を活用するだろう。精神分析なんてAIの直線的なやりとりをそれぞれの現実に即して多層化するにはぴったりだと思うからむしろ協力できると思う。人間が利用している以上、人間をはみ出すことは難しいけどそれを超えていきたいという欲望を持つことは大事だと思うので私も引き続き協力してもらおう。

鳥たちの声が今日は少し遠い。あの切られた桜にはもう鳥はこないけどあの辺の電線にはいつもなんらかの鳥がいる。俯瞰できる鳥にはもっと別の景色が見えているなんて当たり前だけどいざ鳥目線の景色を想像すると近所の様子も変わるわね(想像してみた)。今日もいろいろ楽しみましょ。どうぞ良い祝日を。

カテゴリー
AI 散歩

新宿中央公園の整備

いいお天気。カーテンを開けた。窓も開けた。風も優しい。でも開け放つにはまだ寒い。閉めた。熱い紅茶を飲んでいる。暑くなってきた。

私のオフィスは新宿中央公園のそばなのでしょっちゅう通り抜けたり佇んだり散歩したりしにいっている。昨年から大掛かりな工事が始まり見慣れた景色がどんどん仮囲いに囲まれ、いつのまにか姿を消していった。新宿区にとって大事な木だったはずの「銀世界」という梅も今年のつぼみもたくさん撮ったこぶしもあっという間になくなった。2025年2月21日更新の「公園だより」には普通に

”園内では銀世界のように白い花を咲かせる

「銀世界」が沢山の花を咲かせています。”

と書いてあった。これを書いている人はそのすぐ後にこの木が根こそぎなくなることを知っていたのだろうか。今はすでに何もない。

AIにこんなときの気持ちを聞いてみた。
まず「それはとても切ない出来事ですね。」と共感してくれた。そして以下の気持ちを例に挙げた。

  • 喪失感:毎年親しんでいた風景が突然失われたことによる、深い虚しさや寂しさ。
  • 裏切られたような気持ち:園内の花便りが満開の写真を載せていたにもかかわらず、実際にはその後すぐに伐採されたことによる、情報とのギャップへの戸惑い。
  • 置いてけぼりにされた感覚:愛着をもっていた場所が、何の前触れもなく変えられてしまい、自分の気持ちがそこに顧みられていないような感覚。
  • 無力感:大切に思っていたものがあっけなく消えてしまったことへのどうしようもなさ。

本当にAIは賢い、というか、データがこういうということは多くの人はこう思うわけで、と言えるのも今だけなのかしれない。あの木々や花々があっさり茶色い土にならされたように一年後に同じことをAIに話したら「それはよくある出来事ですね」で終わるのかもしれない。「だからどうした」まではいわないか?いうか?全く腹立つ。誰に腹を立てたらいいのか。工事の発注をした人が悪いわけでもないし、こんな計画、ひとりで決めるわけでもないし、オリンピックのための整備のときもやったことだしもう慣れてしまったのかもしれないし、結構多くの人にとってはすでに「だからどうした」なのかもしれない。公園の工事は来年まで続く。来年の今頃はきっと何事もなかったかのように、今潰されそうになっているチューリップではないチューリップが咲き乱れたり、私が撮影していた薔薇ではない薔薇の芽が育ったりしているのだろう。代わりはいくらでもいる、みたいな。感謝とかないのかな。絶対的な神はいなくても小さな何かが宿っているものと思わないのかな。私のショックとモヤモヤは続く。毎日見ていた景色があっさりなくなった時の衝撃は強かった。自分がいつもと別の道を歩いているのか(一本道なのでそんなはずはないのに)と何度か近辺を往復したりした。あそこは、あそこは、と別の場所も歩いてみた。私が18歳の頃に通っていた公園の姿は何年も前になくなっていた。当時、会えば言葉を交わしたホームレスの人たちもいなくなった。ベンチが増えたにもかかわらず。排除は段階的に進むものであり、そのプロセスを直接目にしていない人には何のインパクトももたらさない、というか知ろうとしなければそれが起きたことも知ることはできない、ということも知った。新宿中央公園はデモの出発地として申請すれば使える場所でもあるが、公園整備反対のデモは起きなかったと思う。悲しい。今までありがとうと草木に対して思う。それぞれのものや場所や人に歴史があることを忘れないようにしようと思う。