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責任

痴漢にあったという話を聞くのは全く珍しくない。これだけ被害の数が多いのは日本のどういう部分と関係しているのか、あるいは関係ないのか、ということを考え始めたところから先日「被害と加害の言葉」というタイトルで書いた。日本文化というものを組み込んで考えるには力量不足なので、とりあえず広辞苑、日本語シソーラスなどを調べ、言葉の面からなんとなく書いた。

ちなみにジーニアス英和辞典ではsexual molester,groper,sexual pervert,child molesterとあり、日本語の「痴漢」は意味の幅が広い、とあった。また仏和辞典のプチロワ4ではsatyreとあった。驚いた。それにしても最近、ギリシア・ローマ神話とよく出会うな。サテュロスは好色、酒好きな半人半獣の森の精である。フランスではこれが「痴漢」の訳だそうだ。また、英語でもフランス語でも例文には「電車(地下鉄)で痴漢にあう」とあった。どの国でも車内は被害の場となりやすいのか。公の場でもあるのに。

ちなみに日本の鉄道で痴漢が発生した時期については原武史が『鉄道ひとつばなし』(講談社現代新書)のなかで少し書いている。これは牧野雅子の『痴漢とはなにか 被害と冤罪をめぐる社会学』(エトセトラブックス)とは全く目的が異なる本だが、原の「当時の人々の手記を見ても、列車内で見知らぬ人どうしが会話することは珍しくなく、その習慣が通勤電車にも継承されていれば痴漢は発生しなかったはずである」という言葉は、牧野が痴漢取り締まりの担当警察官の言葉としてあげた「被害に遭いやすいのは、全体から受ける印象が、おとなしそうなタイプの人」というのと関係してくるだろう。ちなみに肌の露出と被害の相関は特にないそうである。

被害者がひとりの抵抗、ひとりの勇気で「声をあげる」のではなく、自然な会話が外からの一方的な侵入を防ぐ、そういう環境は本当に大切だ。無言の群衆のなかで声をあげる勇気を持て、なんて無責任なことは言えない。非対称的な関係自体がすでに言葉を奪ったり歪めたりしている可能性にも敏感である必要があるかもしれない。

さて、言葉には、その人だけの言葉、二者にしか通じない言葉、第三者に向けられた言葉という分類(北山修が書いているかも)があったり、オースティンの言語行為論など様々な視点があるが、専門用語を使った論考はきっと誰かが書いているだろう。だからとりあえず思考をめぐらす。

牧野の本で引用されていたフレーズには一定のレトリックがあった。そもそも痴漢を加害と思っていたら公の媒体で軽々しく語るなんてできないわけだが、公にして悪ふざけにしてしまうことで悪意のなさを示し、責任を問われないようにという意識的、無意識的な動機が働くのだろうか。

悪意のなさというのは実際本当に厄介で「そんなつもりはなかった」という言葉も嘘ばかりではなかろうと思うと、もう天を仰ぐしかないというような気持ちになる。一方で、牧野が書いているように冤罪のことになると急に我が事として心配しだすというのもまた不思議な話で、すでに起きている被害とまだ起きていないことは本来別次元で取り扱うべきものだと思うが、そうではないので書名にも「被害と冤罪」が並んでいるのだと思う。

また、被害者に被害者資格のようなものを想定し、いつのまにか被害者から個別性をはぎとり、被害者の言葉を奪っていくのもこれが暴力であるゆえんかもしれない。もちろんこれは女性と男性という二分法において生じていることではなく、男性の被害者に対するラベル貼りなども事例として思い浮かぶ。

「そんなつもりはない」「みんなやってる」という言葉に戻ろう。「つもり」とか「みんな」というのは空虚な言葉だ。みんなって誰。つもりって?個人の意思というのがいかに間違いやすいかはすでによく知られているだろう。

「つもり」はどうであれ、生じた出来事には責任が発生する。

とはいえ責任をどうやってとるか。これもまた難しい問題だ。大人が子供に「ごめんね」と言わせて仲直りさせるような形ではなく、自分で責任を引き受けることの困難さについても考える。もしかしたら加害者は今いる位置から一度降りてみる、ずれてみることが必要かもしれない。非対称であることを十分に意識するために被害者と同じ立場、子供と同じ目線に立つこと、つまり加害者も被害者である可能性を保持する事である。そこにも支援があるとよいと思う。

自分から自分を引き剥がす。それは結構大事なことのような気がしている。

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無責任

まずは日本の精神分析家の岡野憲一郎先生のお話を聞くことができるポッドキャストのご案内です。https://anchor.fm/talksonpsychoanalysis-jp/episodes/ep-elh7u6/a-a3kvmg6

テーマは「日本人の精神分析家が恥と解離について論じる」。アメリカでの臨床経験も長く、日本とは全く異なる患者さんをたくさん診て帰っていらした岡野先生がずっと探求されているテーマです。

恥の概念は日本文化を考えるときにどうしても突き当たってしまいます。ここ数日「痴漢」について日本文化と絡めて考えていましたが、私が行き着いたのは竹取物語でした。

あれも恥と罪の話であり、その手前には北山修先生が取り上げる古事記があるわけです。古来から続く日本人のこころというものに出会ってからいまいちど現在の私たちを見直し、精神分析的に考えてみるとき、なんとなく緩い、儚さに似せて軽い、なあなあで反復をやり過ごすどこか無責任、というか、責任を個人から集団に引き伸ばして薄めるような、あるいは天の羽衣で思考を奪う万能感のようなもので恥と罪悪感をやり過ごしているような日本人の姿をみたような気もしました。

そしてそれは時としてひどく相手を傷つけます。

痴漢という暴力と健康な性の境界線もこうして曖昧にされてきたのではないかという一応の仮説を立てたわけです。

もうずいぶん前の本ですが芹沢俊介が『子どもたちの生と死』において、「限界としての権力について」とか「否定性としての普通、許容性としての普通」について書いていたことを思い出しました。

精神分析でいえば超自我との関連という話になると思いますが、私が今回、見出した超自我的な緊張感を維持できない、したくない、嫌う日本人のルーズさや無責任というものがあるとしたら、それについて(反転させてポジティブな言い方をすることもできると思いますが)はもう少し考えてみたいと思います。