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読書

老眼鏡

今年は美味しい柿にたくさん出会えているけど美味しい林檎になかなか出会えません。どうしてかしら。

老眼鏡をはじめて使ったのは何年前だったでしょうか。ずっと目がよかったので見えなくなるという体験には戸惑いました。そして老眼鏡の効果に驚きました。でもその効果もまた薄れてきてしまってまた度数をあげなければという感じです。

老眼になってから本当に資料や本を読むのが億劫になってしまいました。画面上で拡大したとしても、画面の文字はそれはそれでこうやって見にくいのですよね。慣れないとでしょうけど。

若いうちにもっと読んでおけばよかった、と思うときもありますが、読んだからどうだったか、と考えるとなにかがそんなに変わったわけでもないような気もするのでこうやって生じている老いに身を委ねながら日々の不便を感じ、道具の便利さに感謝し、人の助けに気付きながらやっていけたらいいのかな、と思っています。

今朝の柿も当たりです!朝焼けもきれいだったし、よい一日になりますように。

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精神分析

自由

人は簡単に自由を奪われたような気がしてしまいます。奪えるような気もしているかもしれません。

そんなことできるはずないのに、と思ったり、そうかもなと思ったり。「自由」というなにものか定義しづらいものを相手にするのは大変です。

障害を持つ人がいう自由、捕らえられた人がいう自由、結婚した人がいう自由、子供を持ったいう人が自由、子供の自由、大人の自由、どれにも当てはまらない人がいう自由、いろんな自由は不自由さを抱え込んでいます。もう存在そのものがそうで、身体を持っていること、こころが動いてしまうこと、感覚が麻痺していてもそれを麻痺と知る脳を持っていること、これらは自由と不自由両方の基盤でどちらかだけを生み出すことはできないのでしょう。

逃れようのないものから離れようとするために人はいろんな防衛を発達させてきました。それでも逃れようはないのだけど。

フロイトが「不幸をありきたりの不幸に」と言ったのだって「幸せ」の定義が難しいから不幸一元論(そんな言葉はない)で言っただけではないでしょうか。

不自由一元論。ないものから始めること。ないことを前提にすること。そんなことはあり得ないと思いながら求め続けること。私は今のところそれを「自由」と呼んでいます。誰にも侵害されない願いのこと。

哲学者には叱られちゃうかもしれないけど。哲学者じゃない自由で遊んでいるだけだからご容赦願えたらと思います。