色々読んだりそこから連想したりしていたら怖くなってしまったのでかわいい動物動画をみていた。かわいいし面白い。しばらくしたらうちで育てていた捨て猫のなかの一匹のことを思い出してまた気持ちが沈んでしまった。実家には車庫があってそこに怪我や障害を抱える猫が捨てられていることが何度かあった。そのまま死んでしまった仔猫もいたらしいが私も子供だったから覚えていない。その猫は白い仔猫だった。いつも母のそばか冷蔵庫の下の隙間のところにいた。とってもかわいかった。あ、気持ちが沈んだ原因になった仔猫はこの子じゃないや、と今気づいた。この子もすぐに死んでしまったから一緒に思い出したんだ、きっと。とてもとても悲しかったのは変わらないから。別のあの仔猫、と思ったけどやっぱり書かない。そこには加害者がいた。でもそれを加害といっていいか今となってはわからない。この仔猫たちは最初から被害者だったともいえるし、関わる者はみな加害者であった可能性もある。簡単には書けない。
読んでいたのは『現代思想2022年7月号 特集=「加害者」を考える -臨床・司法・倫理-』。怖くなったのはそれが別世界ではなく身近なように感じたから。そもそも人間がいるところに別世界も何もない。以前「文化が違う」といって突き放されたことがあったが今もそういう文言を聞くと「なんだその差別」と思う。そりゃ違うだろう。だから何?文化って何?どのことさしていってる?あなたの思う通りにならないことをそういうのであればそれはただの支配のための言い訳だよね、これ以上一緒にいないための、あるいは別の誰かに乗り換えるための口実だよね、と思う。実際そうなことが多いから。
見えにくい差別や暴力に対してしっかり抵抗しなければ。でもどうやって。あらゆる手段でこちらの力のなさを見せつけてくる相手にどうやって。自分の加害性についてはどうやって。被害者にも加害者にもならずにどうやって。
考えるしかない。傷つきながら。味方を作りながら。どうにかこうにかくっついたり離れたりしながら。