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仕事 言葉

どんな一日、どんな言葉

公に向けた仕事ができる人の特権、というのを「加害」「被害」の関連で読んだ。今回は本を書く人が特定の相手を傷つけたという事態。相手あることを事実として書くのにその言い方は、と最低限必要と思われる著者の想像力に基づいた配慮がなかったらしい。一方、そういうのを平然としないでいられる人の言葉だから一部の人に「ウケる」というのもあるのだろう。「相手」の苦痛は計り知れない。DVやいろんな中毒について考えるときにも同じ問題がある。人は発信せざるをえない。誰もが苦しい。特にものを書く仕事の人はそれで生活しているから書かざるをえないというもあるだろう。なんにしても「相手」あることをどう考えるかというのは人として一般的に持っていると想定される心的機能をどの程度使えるかということでもある。機能不全を起こしていても公に向けて書いて人気者になったり信頼を集めたりすることはできる。だったらむしろAIの方が、とか。

少し前に私は女が傷つきについて書くとき、まずは、主観的一方的に書く必要があると思うというようなことを書いた。書くのが仕事の人は別だろう。個人的な語りの場合だ。女性は構造上の問題に囚われ自分の言葉を奪われやすい。もちろん女性に限らず構造上の問題にがんじがらめになることはあるのでその場合も同様。私の仕事はそういう語りが可能になる場を提供しているのだと思う。外で話したら何回でも何重にも傷つく可能性がある思いや考えを言葉にしてみる。その手助けをする。これはこれで本当に難しいが大切なことだ。

切りつけるような言葉を言った相手が次の瞬間には多くのフォロワーをもつSNSで軽薄な言葉を使用しているのを目にする、そういう時代でもある。言葉の使用はどんどん残酷になり見えない分断の種をまいていると感じる。特定の相手にとってはその人はそういう人だとわかっていてもよくそんなことが平然とできるなという理解できなさにずっと苦しむ事態でもあるだろう。そのせいで起き上がれず何もできないのに相手の活躍を目にしなくてはならない、ますます苦しい、ということもあるだろう。当たり前だが個人的な関係は外からは見えない。個人的な状況と文脈を考えれば明らかに自分に向けられた揶揄にたくさんの♡や「いいね」がつくのを目にすることもある。「自分のことをいわれてると思ったんですか」と言われてしまえば黙るしかないかもしれない。でもまぁそれでも「ああまたこれか。直接的に相手がわかる形でされるよりはましか、この人いつもこうだし」と「〜よりまし」「いつもこうだから仕方ない」という方法で怒りや衝動を抑えこむ場合も多いだろう。そうして何十年も経ってからカウンセリングに訪れることもある。怒りを向けるべき相手が事故で亡くなったり病気にかかったりすることが契機になることもある。「どうしてもっと早く」と周りは思っても外からは見えないことの方が世の中には多い。そんな簡単ではないのだ。むしろ簡単に切り替えられてしまうのを目にすることで動けずに時間が経ってしまうことだってあるのだ。

今日はどうだろう。どんな言葉を受け取り、どんな言葉を使うだろう。動けない人たちに向けて言葉にならない人たちに向けて私は仕事をする。そのために私は私のこともどうにかしようとしているつもりだけどどうなのかな。難しいですね。東京は雨のち晴れですって。みんなの場所はどうだろう。がんばろうね、ただ耐えるだけの時間と感じているかもしれないけれどなんとなく誰にともなく。