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精神分析、本

9月1日、言葉の仕事

土居健郎が、精神療法をひとつの劇にたとえたことはすでに書いた。

土居は、『精神療法と精神分析』の第3章で、「精神療法の筋書き自体はある思想なり価値なりを前提としている」。「精神療法の筋書きの中に含まれている思想なり価値なりに断固として反対する者は、その精神療法によって利益を受けることができない」。ただし、「それら思想や価値は表面には出ていないのであるし、またある思想や価値に断固として反対するという者は稀である」。なので「実際にある患者がある一つの精神療法によって何ら利益を受けないということは、少ないといってよい」と述べた。

筋書きとは「単に仮装された思想や寓話ではない」。また、精神療法が目的とする自己洞察も「単なる観念的なものではなく、治療によって起きる患者の性格変化に伴なう新しい精神的視界のことである」。

「自己洞察」という言葉には、ものすごく頭でやってる感があるが「性格変化に伴なう新しい精神的視界」と書かれると日常生活となじむ。土居は、理解→変化、ではなく、変化すると見え方が変わるという体験のことを「洞察」と呼ぶ。

この「洞察の出現」に関しては第8章で詳述される。

精神療法を劇とすると、そこには「物語」があって、患者がその筋書きのなかで自分を発見していく、と読めてしまうかもしれない。たとえば「あなたの苦しみを深堀りしていくと幼児期の葛藤につきあたります」という精神分析的寓話に患者を当てはめるような。

土居はそうはいっていない。土居は「精神療法の筋書きは、それぞれの学派によって異なるが、価値や思想よりも、むしろ精神構造もしくはパーソナリティについての理論の基礎の上に立っている」という。

筋書きを規定しているのは、人間の精神がどういう構造をしていて、どう変化しうるのかという作業仮説である。


それでも精神療法の筋書きに暗黙の思想や価値が含まれることに変わりはない。だからこそ、土居は、理論的偏見に左右される可能性も認める。そのうえで「最も普遍的であり、概念的に構成されたもの」として精神分析理論を採用する。ここで「精神分析が治療の筋書きとして最も実用的であるというよりも」と書いているのも面白い。実用性が最優先される現代に精神分析がはやらないわけである。というか、これまでだって日本で精神分析がはやったことなどない。

土居は、精神分析を絶対的な立場に置かない。そういうことをしない人であるらしい、というのはこれまでの書き方からも推測できるだろう。比較はする。境界線は引く。でもそれは序列をつけるためでも、壁を作るためでもない。


ちなみに土居は「精神療法の学派のうち何れが正しく何れが間違っており、何れが完全でありまた不完全であるか、と詮識することは思かなことといわねばならぬのである」と述べている。深く同意する。


精神分析にはその歴史のなかで埋め込まれ、いまいちど取り出して問わねばならないジェンダー観、家族観、自立観、そこに含まれる歴史的、社会的文脈がある。土居は「甘え」をキーワードに社会と精神分析をつなげて思考し、言葉にして伝えた。


現代は、即座に、しかも、わかりやすい応答が好まれるため、待たずに済むAIの需要は多いだろう。しかし、応答するには意味を固定しなければならず、言語の距離作用はむしろ失われる。精神分析が待つことを苦にしない、むしろ仕事にしているのは言葉のそのような機能をものすごく大切に考えているからである。

土居を読むときは、土居の書きかたに従い、議論の運動を保持したまま、要約をせず進んだほうがいい。切断によって失われる意味ではなく、新たに現れる意味を追う。地図を描きながら移動し、修正し、また移動し、道に迷い、少しずつ世界を知っていく。そういう書き方に応じた読み方ができたらと思う。

今日から9月。毎月1日の早朝に、ホームページ作成会社からの領収書がメールでくる。「あー、ついたちか」とやや憂鬱になるので決済を15日とかにしてくれたらいいのに。気分の問題ではあるが。

今日は火曜日だって。学校がはじまるね。みんなどんな感じかな。無理するもしないも自分で決められたらいいと思うけど、そんなあなたにきちんと関心を向け続けてくれる人がいますように。良い一日になりますように。

作成者: aminooffice

臨床心理士/精神分析家