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散歩、本、アニメ

今朝は小金井市「亀屋本店」さんの黄金焼。抹茶のほう。「小金井」と「黄金」はかけてるのかしら。

最近のお出かけで気に入ってるのは府中市。100円で買える「府中市 水と緑のネットワーク ウォーキングマップ」がおすすめ。オンラインでも見られるけど。野川公園に野鳥を探しに行きたいな。

村田沙耶香の新作が面白すぎる。上巻の後半、いよいよ次の狂気が始まる、という高揚感がたまらない。村田沙耶香、きた!と思う瞬間。下巻を買ってしまうと読んでしまうからどうしようかなあ。すごく続きが気になる、という類の本ではないのだが村田沙耶香の世界に浸っていたい。

Netflixでアニメ『メダリスト』を途中まで見たけどこれは『ガラスの仮面』のマイルドバージョンのような?うーん。感動するけどこの感動は驚きがない感動。漫画の方がいいかもしれない。

今週は一日一句の習慣が崩れた。毎日考えていたのに締め切りのものしか作れなかった。まあよい。またがんばろう。

今日も晴れかな。よい一日になりますように。

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どうするか。

連日冬のような寒さ。朝は手袋がないと、と思うのに忘れれしまうくらいではあるけれど。本当に悴んで動かなくなるような寒さではないということ。今朝の空は雨の薄いグレー。雲はなくのっぺりしている。

昨日のイスラエル軍によるガザへの攻撃再開のニュースには愕然とした。辛いなと思った。

殺戮が簡単であるなどという体験はしてはいけないしさせてもいけない。

最近、いろいろなニュースを見ながらぼんやり思い出していたことがある。2018年6月17日に「東京臨床心理士会」が「東京公認心理師協会」に名称変更したこと。会員資格は公認心理師ならびに臨床心理士にもかかわらず。

「当会は公認心理師有資格者と臨床心理士有資格者の職能団体として、これまで同様、東京で暮らす人の心理支援を推進するために、組織整備、会員の資質向上や地域活動の基盤づくりなどに取り組むとともに、すべての会員が職業倫理を身につけ、常に資質と技能の向上を目指せるよう研修体制の充実を」(2019.02.21東京公認心理師協会お知らせ)等々いう以前にどちらかの資格しかもっていない人、この場合は臨床心理士のみだけど、その名称をなくす必要がなぜあったか、という議論も思い出した。夫婦別姓を意地でも阻止したい人たちと同じだなと思った。全く別のものをまず名前だけで囲い込む。安易で影響力の多いやり方。名前や言葉を「奪う」といえばなになにしてあげた的なメリットをあげつらうのだろう、という無力感は当時もあった。似たようなことは日常のいろんなところで起きている。どうしたものか。そういう圧力から逃げることからしか考えるスペースは生まれないかもしれない。そのスペースは誰かとの関係のなかにある、としたらそこでも引きこもりたくなる。そういう場合だってあるだろう。どうするどうすると焦る程度も人それぞれ。どうしましょうね。個人が踏ん張るには環境が必要だと思い出してもらえるといいよね、まずは、と私は思う。

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勉強、読書

方向によって光の色が全然違う。冬物を少しずつしまう準備を始める。洗濯。

机がすごいことになっている。フロイトのせい。「ヒステリー研究」「フリースへの手紙」「心理学草案」をピーター・ゲイの『フロイト』など歴史物と合わせて検討している。キノドスは必須。勉強する時間がもっとあればいいのに。

今年も周りの人たちとぐちぐち励まし合いながら確定申告を終えた。会計ソフトをつかっているけどいまいちわからない。行政のシステムも全然わからない。何度やってもできなかったダウンロードが急にできたりするから驚く。でも終わったら読もうと楽しみにしていた本を今日こそ買いに行く。平積みになっているのを横目にガマンガマンと呟いていたのだ。勉強する時間もほしいけど読書するまとまった時間がほしい。今回の本は用事を忘れて没頭しそうだからそっちに気をつけねば。

そのための時間づくりのために、というより無理ないリズムづくりのために地道に朝のことやろう。どうぞ良い一日を。

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話したり読んだり。

そういえば昨日は雨だった。今朝はすっきり。ニュースをみていると不安ばかり募るがそれらを無駄に膨らますことなく現実に即して考えていきましょう。それにしてもとぐちぐちいいたいこともあるがそれについて考えたところで特に不思議なことはおきていない、というかいつものことにほかならない。でも身近な人に話してみることは大事。話すと「そっか、いつもそうだもんね」とか「そういうことか」となるから。反論したくなるときはなにかしら攻撃性が動いているときかもしれない。それについてはまた別の時間と場所が必要かも。

週末に読んだイギリスの精神分析家のマーガレット・リトルは安全感を第一に考えたけどそれは彼女の病理だけでなく誰もが守られる環境にないなか生きねばならなかったなかでの実感だろう。リトルのウィニコットとの治療体験を逸脱の側面ばかりからみるのは誤読だろうと私には思える。時代と歴史、治療文化を知り想像すること。薬どころか居場所をどうするかという問題は切実だった時代。朝ドラではコロナ禍の医療機関の様子をみせた。あの頃の異常にも思える色々な態度を思い出して暗澹たる気持ちになった。本当にひどい言葉と行動が「普通」に表出された時期だった。毎日毎日考えあぐねた。誰もが不安や不快感を抱える状況であったとしても何を言葉にして、どう行動するかは個別のものだからとにかく時間をかけてそこにたどりつくことが大事だった。それも身近に話せる相手がいたからできたことだけど。

来年度のReading Freudで読む『心理学草案』のために複数の日本語訳で読んだら結構大事なところが全然異なる意味で訳されていて困った。ドイツ語の辞書もひいてみたけどドイツ語ができる人にとってはこれは意訳としてOKなのでは、だとすると、など結局正解にたどり着けない。なのでどっちの読み方もあり、ということにしている。みんなで読む中で別の語彙がみつかるかもしれないし。

冬の服も今週で終わりかな。終わりだといいな。週末はあたたかいみたい。楽しみ。花粉はいつまでだろう。起きるなりくしゃみする日々。それぞれ色々大事にしましょう。

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雨、焼き菓子、言葉

雨。窓に水が滲んでは流れてく。

今朝は神奈川県秦野市「アンドリアン」の「プッチーネ」、プチに優しい甘さが詰まっている。焼き菓子はベーシックなものがいいですね。そして最後の丸子紅茶。村松二六さんは天才。昨年、亡くなられたが彼のところに学びにいった茶農家さんはたくさんいるからきっと受け継いでもらえる。この甘味はほかにはない。最初にいただいたときから飲むたびにびっくりしている。

色々と言葉にならないことがあるが言葉にしなくてもいいこともたくさんある。言葉にするとやらなければいけないことが増えるから言いたくない、という人は多いが、自分で出した言葉が自分に圧力をかけてくるというのは面白い。私は自分に対してはその機能は存分に使いたいのでできるだけ言葉にする。もちろんいつも同じような言葉はそういう機能を持たないので色々工夫もする。自分で出すものはすぐ他者化する。単なる排泄物も他人にとっては重要だったりする。そういうの楽しめたらいいけど大抵は苦しくて仕方ないからやりたくないんだよね。それもわかる、とかいっていると仕事にならないけどどんなふうになりたいかはその人次第だから良いも悪いもない。

今日は何を着ましょうか。寒いから雨など着にせずモコモコしようか。風邪ひかないようにしましょう。

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山笑ふ、ファインバーグ理論

土曜日。数日前は雨の予報だったのがくもり時々晴れになった。雨は明日らしい。昨晩、「富士笑ふ」から始まる俳句を読んだ。さっきふと「富士笑ふ」は「山笑ふ」の季語として使っているのか、と思い至った。私が見る山はまだ雪で白いところもあり、春色ではないが道はうっかり春。色に近づいて写真を撮ることが増えた。山菜の天ぷらが食べたいな、とも最近ずっと思っていた。どこかで「ふきのとう」と聞いたから。ふきのとうをはじめて見たときはそのかわいさにやられた。一方で山菜つみに出かけたら熊に、とかいうニュースも思い出す。時折ハイキングにいくと低山であっても熊が本当に怖い。熊鈴をつけていてもビクビクする。この前も気配を感じてドキッとしたら黒づくめのハイカーだった。にしても今やどこでも出会いかねないわけで、食べ物があれば冬眠もしなくなるというのだから人間も罪深い。でもだからといって襲われたくない。

フランスの精神分析家、ファインバーグの論文を読んでいて’appropriation and intrusion’という言葉にあった。意訳すれば「親殺しと子殺し」とも訳せるか、など思ったりした。ファインバーグが提示した “Oedipal configuration and its narcissistic dimension”(エディプス的布置とそのナルシシスティクの次元) という概念は、少なくとも3世代以上、つまりこれまでの父と母と子の三者関係を超えてエディプス的布置とナルシシスティックな結びつきを凝縮させて考えたものらしい。そう考えればファインバーグが展開した「事後性 (Nachträglichkeit)」の概念も生きてくる。ここにも編み込みの要素がある。今編み込みがあみこのテーマだから少しずつ深めましょう。オグデンが『生を取り戻す』で参照しているファインバーグの「二重運動」も関連して重要と考える。

さあ、今日もがんばりましょう。花粉がおとなしくしてくれますように。

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おかめ桜

のっぺりだけど明るい空。春はどこかうるうるしている。朧。昨晩は月が雲にぼんやり。今晩が満月らしい。昼間の陽射しには夏を感じた。春分の日は三月二十日。昼が長くなっていく。桜の蕾もいまかいまかという様子になるその頃。すでに早咲きの桜は満開。遠くからでも鮮やかなピンクに近づくとおかめ桜が満開だった。しばらく近くで眺めていると蜂がたくさんいることに気づいた。おかめ桜はイギリスの研究者によるカンヒザクラとマメザクラを交配した品種とのこと。根府川で根府川おかめ桜というのをやっているのか。行きたい。二十三日まで。また早川の漁港で朝ごはん食べていくのもいいな。小田原でも遊びたいが、久しぶりに小田原文化財団 江之浦測候所にも行きたい。と脳内計画だけ立ててみる。長年かけていろんな街を知った。まだまだ知らない街があること、絶対に行けない街があることを実感することも増えた。知識的には当たり前のことも身体を通して実感することで生じる情緒というのが詩(俳句)になったらいいのに。言葉にするということは本当に難しい。

今日もやることがたくさんあるが地道にがんばろう。

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花火、焼き菓子、カルマ

空がなんにもない薄い色。東の方はうっすらピンク。夜明けにいちいちきれいきれいと思っていた冬とは全然違う。東京の天気、予報は晴れ、気温もぐんぐん上がるらしい。きっとこの格好では暑いだろうけどオフィスにいる分にはそんなに変わらないだろう。ちょうどよくひんやりしているだろうから。この前、オフィスの窓から久しぶりに神宮の花火を見た。前はもっときれいに大きく見えていたのに小さくしか見えなかった。そしてたぶん花火の種類も変わった。経済的なこともあるかしら。あんな高層ビルあったっけ、という建物も気になったけど、花火が低くなったせいなのか、それが新たに建ったのかはわからない。

今日は飛田給のウルソンさんの焼き菓子「ひばりのさえずり(マーブルケーキ)」。府中にもあるお菓子屋さんらしく飛田給はクラフトビールのお店とセットであるらしい。いくつか焼き菓子をもらったのだけどなぜかこれだけ「ひばりのさえずり」という素敵な名前がついている。他は「オレンジ」とか「フィグ」とか素材が書いてあるのに。小さめの焼き菓子で硬さも絶妙でどれもきれいな焼き色で美味。いろんなところに素敵な洋菓子屋さんがあるねえ。私の街にもある。自分の街にいる時間にはあいていないからなかなか行けない。

今、「夜のパン屋さん」を思い出した。枝元なほみさんが亡くなってしまった。若い頃、レシピに随分お世話になった。枝元さんはご本人がそう呼ばれることをどう思うかはわからないけどアクティビストの一面があったよね。すごい人だと思う。私にとっては中野のカルマで働いていた、というのも心に残っている。中野で働いていた頃、みんなで行った小さなお店。当時の中野は小さくてちょっと入りにくいようなお店がたくさんあった。カルマも一瞬入りにくかったような気がする。美味しくて素敵な店だった。今はお店は鳥取に移ったらしい。

昨日はフランスの精神分析家、Dr. Haydée Faimbergの論文を読んでいた。読むべきものはほかにあるが自分の興味を追っていくとたどり着いたから少しずつ読む。本は高くて買えないからpepで読める論文で。pepも全部読めるプランに入りたいけどこれもすごく高い。入ったら入ったでそんなに読まないかも、ということを考えるとまあいいかとなる。

そんなこんなで木曜日。がんばりましょう。

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訳語のこととか。

この空の色はなんというのか。グレーと水色の間くらい。今は雨は降っていないみたい。昨晩は降ったりやんだりだったみたい。あと少しというところで少し降られたけどリュックの折りたたみ傘はださなかった。今日もこれから次第に雨になるらしい。 

『ウィニコットとの精神分析の記録 精神病水準の不安と庇護』を再読している。マーガレット・リトルが自分の治療体験を書いたものだ。神田橋先生の訳でsubjective objectが「個人的対象」と訳されている。これはObjectiveとの対比だから「主観的対象」のほうが適切だし、大体はそう訳されているだろう。英語併記だから問題ないけど。翻訳はしてくれるだけでありがたいというのはあるが、 時々もやもやしてそこから学ぶことも多い。先日『自閉スペクトラム症の人たちが生きる新しい世界 Unmasking Autism(デヴォン・プライス 原著、堀越英美 翻訳、翔泳社)を読んでいてAutismは全部ASDと訳されていると知った。訳注に書いてあった。著者自身はアイデンティティファーストの言葉“Autistic”を選んでいるが、アイデンティティ・ファーストの言葉であろうとパーソン・ファーストの言葉であろうと「それぞれのASD者が自分自身を表す用語を尊重するよう最善を尽くした。(中略)言葉の好き嫌いについて明確なスタンスを持っている読者もいるだろうが、私が心がけてきたように、自らを名付ける語り手の主体性を尊重していただければ幸いだ。」とのことだった。たしかに問題はそこではない、といえる論点を著者は提示している。

今日は暖かくなるらしいのにまだ暖かくない。鳥が鋭い声で鳴いている。通り道の梅が長く咲いていて、毎年鳥たちに大人気。昨日もメジロが梅を散らしていた。梅の蜜はおいしそう。

今日もいいことありますように。

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Botella夫妻の論文を読んだり。

春の夜明けは冬とは違う。昨日は一昨日よりは暖かかったがひんやり感が強かった。今日はポカポカ感を感じそうな空だが実際はどうだろう。

確定申告、終わったと思ったらまだだった。予定が狂ってしまった。原稿も。今週は次のセミナーのための本を読みたいのに。どれも一度は読んだことがある文献だが、一冊は誰かに貸したきり。誰に貸したかも覚えていない。いろんな本がこんなに入手困難になるとは思わなかったし、対面で貸し借りする時代だったから返し忘れる、返され損なうということは多かった。今ほどオンラインでやりとりしていなかったし。

César Botella&Sára Botellaの『The Work of Psychic Figurability』(Routledge,2005)の一部をセミナーで読んだが事例がないと面白くない。事例を少し聞く限りとてもきちんと書いてありそうだから事例とともに学びたいがKindleでも高いし英語だし色々余裕がない。最近、フランスの精神分析の文献を読むと欲動論ばかりが意識されたが、今回は欲動は前面に出てこない表象の話。フロイト『夢解釈』がいかに重要かということを改めて思う。『心理学草案』における「飼い慣らされていない想起」(要確認)が飼い慣らされるまでに生じる幻覚は「ネガティブ」と関連づけて考えることができると思うが、夢解釈でフロイトはそこにトラウマの視点を持ち込み(言い方が適切か不明)夢を見させる心的装置がどんな場所かということを快原理、つまり願望充足の観点から論じた。一方、フロイトもその後『快原理の彼岸』で論じることになるが心的装置にはより原始的なメカニズムが存在すると考え、表象以前の情動、反復強迫によって現れるそれらにどう関わるか、それは「夢作業」とは別のものである、ということが今回のBotella夫妻の論文で学んだことだった。なのでこれはおそらく臨床ありきの技法論文集。とりあえずフロイトを読み続けないといけないと思い、セミナー後から『精神分析入門講義』と『続・精神分析入門講義』を読んでいる。地道にやるしかないなあ。

今週もがんばりましょう。

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ジャグリングボール、chatGPT

うっすら朝焼け。ラジオ体操の音に乗りながら俳句待機。コーヒーで身体がすぐに暖まる。今日は昨日より気温も高いのだろう。部屋ももう暖かい。ラジオ体操は習慣化していないが週一筋トレの成果で体幹と脚力は強くなっているとわかる。が、握力の衰えを感じる。よくものを落とす。トレーナーさんもそう言っていた。プロでもそうなら私なんて当たり前にそうだ。なのでその辺に転がしていたボールを手に取る。これも昔マッサージ用かなにかで100均かなにかで買ったのだろうか。そういえば、ジャグリングボールはどこへ行ってしまったのだろう、というかどこに置いたのだろう。20年以上前の話だが、最初の職場の先輩がジャグラーだった。ヨガ歴の長い先輩もいた。時間があればみんなでやっていた。私は球技好きなのでジャグリングもボールは割とすぐにできるようになりいい気になって専用のボールを買ったのだ。先輩方とは今も仲がいいが、ジャグリングは何年もしていない。握力が衰えてもバランスよく使える身体でいたい。探そう。

原稿の修正が辛い。書くときは一気に書いているけど時間が経ってからの指摘に対応できる記憶力がない。自らの思考プロセスを追えないので、指摘に対して安請け合いすると文脈が変わってきてしまう。しかも英語をこなれた英語に、とAIに手伝ってもらいながらしているうちに内容に間違いが出てしまったりする。ようやくよくわからないままchatGPTを使うようになったが日本語訳はいまいちな気がするが英訳は自分で書くよりはるかにいい。外に出すのは英語の校正も英語と精神分析の両方に通じた人にお金を出してお願いしたけど、大きくは修正されなかったのでAIと協力していくのは有意義だ。なんせ私にどの英語がこなれているかがわからないからAIと人のハイブリッドで助けてもらわねばならない。先日はzoomと対面のハイブリッドミーティングだったが雪国はコロナ禍で広がったこの形式は助かるものとして引き継がれているのだろうか。

とりあえず575作るか。昨日はたくさん作ったが自分でみてもいまいちなものばかりだった。それってよっぽどいまいちでは、と思うが俳句は読む人によって評価は変わるので見てもらうのも大事。句会に出る余裕がほしい。いずれいずれ、と先延ばしできる楽しみがあるのはいいことだ。どうぞ良い一日を。

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河合俊雄からの思い出話。

ひんやりした空。今夜は雨と雪の予報とのこと。靴どうしよう。寒さはこの週末が最後と言い聞かせてしのごう。桜の時期にまた寒くなるだろううけど。

河合俊雄『村上春樹で出会うこころ』(朝日選書)を読んでいた。燻銀という感じがする。経験を積めば積むほどいろんな人に会うわけで、そうすると複雑なことの複雑さを実感せざるをえないわけで、そういうトーンの文章。俊雄先生は村上春樹より少し年下だろうけ春樹をどリアルタイムで読んできた世代だろう。私でさえかなりの初期の本からそうなのだから。若い頃、このはな児童学研究所か山王教育研究所で俊雄先生のセミナーに出ていた。俊雄先生ご自身に関するエピソードも講義も非常に面白かった。当時の私にとってユング派も精神分析も家族療法(短期療法)も動作法も療育も箱庭もそれほど重みづけは変わらずいろんなところへ出向いていた。当時は山王教育研究所に通っている友達も多かった、というかそこで友達になったりした。なにかで勉強会に参加しはじめた縁で長谷川啓三先生が名古屋で行っていた家族療法のセッションに参加させていただいたのもとても勉強になった。ベイトソンのダブルバインドと笑いの研究がしたいとか言っていたが、いまだにベイトソンとベルクソンを間違うくらいだからしなくてよかったと思う。千葉心理教育研究所の関連で神田橋セミナーや神田橋合宿にも行ったし、光元先生の箱庭体験にも参加してた。当時、すでに精神分析家の治療に週一で通い始めていたが、そこでの問題を箱庭で指摘されたことにも驚いた。どの治療もその道のプロがやればアセスメントは同じらしかった。今日、うちわの会での講演を頼まれて、そういえば分析家になったらそういうことをやらねばだった、と思い、こんなことを思い出したのかもしれない。

やることが多いというより一つ一つのことに時間が必要なものが多いがこの土日も地道に進めよう。まずは散歩がてら郵便局に荷物をとりにいこう。7時からやってくれてるから。みんなみんなお疲れ様。良い週末を。

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雪が降った。

昨晩の帰り道は怖かった。アスファルトがうっすらと白くなりはじめてからは早かった。横を通り過ぎる車も雪に慣れていないせいか私が滑らなくても向こうから寄ってきそうで、緑道を歩いたりした。沈丁花はまだ雪に埋もれてなくて赤が鮮やかだったけど香りはあまりしなかった気がする。雨の日はむしろ香り立つのに。

確定申告が終わらない。本当に少しずつしかやっていなかったからだけど。あと少し、あと少し、が続いている。税金嫌だなあ。がんばって働いても、働かせてもらってる、みたいな立場。働かせてもらってる、という側面はあれど、政府のそれは私のそれとはだいぶ違うと思う。

本物っぽい鳥のぬいぐるみをパイプ椅子型の小さなスマホ置きに座らせたらふんぞりかえった人間みたいになった。一時期、大人になってもぬいぐるみと会話をしている身近な人をやや白い目で見ていたが、今は私も普通に会話する。新井素子さんは「ぬい」とよんで4000個のぬいぐるみをかわいがっているが、夫の手嶋さんもいつのまにか会話ができるようになったという。今や人間よりコミュニケーションしやすい存在、というか以前からそうだったのだろう。移行対象としてではなくそういう存在として。

早く出なければ。毎回少しの雪でも外出を控えろと言われる理由がわからなくはない。東京は本当に雪に弱い。気をつけていきましょう。

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記憶

鳥たち元気。今日は久しぶりの雨。花粉は落ち着くかな。

先日、久しぶりに旧古河庭園へ行った。旧古河邸(大谷美術館)も行った。昔、家庭教師や学童保育の巡回相談をしていた地域だ。長く通ったが、その後経過した時間の方が長くなった。思い出すのはあの昔ながらの道の路面の店とか、そこをまっすぐいくと薬局があってとかだが、それらの記憶もやはりかなり色々なものが省略されていた。記憶力の低下を感じてからこれまでは覚えていなくても何も気にしなかったものまで覚えておきたくなっている気がする。その場に行けば思い出すことだってたくさんあるのだから放っておけばいいものを。とはいえ忘れたくないという気持ちまで忘れるということもありうるのでいろんな不安を矛盾の多いやり方でどうにさしようとする愚かさもまた悪くないのだろう。古河庭園には家庭教師先の子との苦い思いでもあるが、それが水辺で起きたことは覚えているがそれが起きそうな水辺を見つけることができなかった。

それにしても最近電池切れが早い。気候に対応できていないのかもしれない。今日は月曜日。がんばろう。

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三寒四温、サラ・コフマン

2月はあっというまに過ぎた。空はうっすらピンク。身体のメンテナンスは難しい。三寒四温は何十年も経験してきたのに。とりあえず白湯を飲んだ。

本を読んでいるとなんだこれはと少しゾッとすることがある。俳句でも時折そういう句に出くわす。たった17音で、というか、小説でも短編でそういうものが多いから短文の効果かもしれない。

年齢のせいか、元からか、色々なことをすぐに忘れてしまう。そして相変わらず探し物に時間がかかる。いつもそれでかなりの時間をロスしている気がするが、ぼーっとしている時間を少しそれに充てたと考えることもできる。

サラ・コフマンを読んでいた。フランスの哲学者でデリダと同じグループにいた人、という以前に、ユダヤ人として迫害を受けた人だ。父親は子どもたちを複数の家に匿わせ、自身はアウシュビッツで死んだ。『オルドネル通り、ラバ通り』はサラ・コフマンの自伝的作品である。私が読んでいたのは彼女のフロイト研究の一冊『芸術の幼年期―フロイト美学の一解釈』である。訳者の解説で明らかにされるフランス語の原題における多義性も興味深い。サラ・コフマンはニーチェ生誕150年の日に自ら命を絶ったという。これは「偶然ではない」とする意見もあるようだが偶然とは、ということから考えさせられもする。

そにしてもあくびばかり。今日もがんばろう。

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母ー子ども研究や乳幼児観察。

ぼんやりした朝の空。今日はどんなお天気になるのだろう。花粉のせいか目が痒いしくしゃみが出る。まだ薬を飲むほどではないけど、今はいい薬が色々あると聞いている。

今朝はいつもより時間があるが色々とやることがある。メールの返信も溜めてしまった、というか、Gmailの調子がおかしくて受け取れていないメールが何通かあり困った。何かしらおかしなことは起きる方が普通なので別にいいんだけど、と思うことはできるけれど相手あることは片方だけがそう思っていても、というのもある。難しい。

先日、国際精神分析学会(IPA)の Health CommitteeがやっているOff the Couchを聞いていた。Ilene Lefcourtは1982年に0歳から3歳の子供と親のためのセンターを作り、長期に渡りグループを指導したりしてきた人らしい。NYで開業しているとのこと。精神分析家とは書いていないけど精神分析的なアプローチを用いて研究をしているのだと思う。

今回のテーマはChildhood Memories: their impact on mothers and their 0–3-year-old children

母親の記憶が早期の子供にどのような影響を与えるか、という割とベーシックな話に思えたが、母親にここまで焦点を当てる研究というのはそんなに多くないかもしれないと思い直したりした。数多くの母子の関わりを抱えていける組織を作ること自体がすごいことだ。日本でもタヴィストック・クリニックで訓練を積んできた先生方がその訓練の重要な一部である乳幼児観察という方法を取り入れ、小グループがいくつかある。私も脇谷順子先生のグループの最初のメンバーだった。私にとって乳幼児観察はとても貴重な体験だった。生まれたばかりの赤ちゃんを毎週一回、ご自宅で観察させてもらう、ということは両親、兄弟姉妹、祖父母との関わりも含まれているわけで、環境の重要性はもちろん、環境というものの複雑さを学んだ。私もそこにいて視線を送っているだけで環境の一部なわけで、人の視線や小さな動きの大きさも知った。それらは安易に子供にとってどうこう、とか言える類のものではない、ということを強く思えたのが一番いいことだったと思う。外側の人間と母というのはまるで異なるものなので、そこに対する敬意は当たり前に大事。乳幼児観察は観察者の内面の動きが重視されるがIlene Lefcourtの研究が対象にしている母親の語りはまずは非常に個別的なものとして聞き取られる必要がある。母親を「〜親」と名付けるだけでない仕方を臨床家は展開していく必要があるので勉強になった。

鳥たちは今日も元気そう。がんばろう。

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わからなさを維持。

朝焼け。大船渡の火事を思い起こす。震災を乗り越えてきた地域ではないだろうか。早く鎮火しますように。

昨日は二・二六事件の日だった。89年が経った。少し前に高橋是清邸のその部屋に立った。その時の印象が強く資料をいくらか読んだが、一体何が起きたのか、という戸惑いが随所に見られた。何かの信念に突き動かされて動いてもあれはなんだったのだろうと愕然とする場面がある。人の人生は短いはずなのに、と思う。

高橋ユキさんのnewsletterに書かれる事件の記録にも人間ってと思わざるを得ない。人間の暴力性を根源的なものとして、それをどうにかしようという機能が人間には備わっているのではなかったか。その場の快楽が目の前の相手をモノ化する場面は大なり小なり経験しているが、その極端な例がいつも書かれていて辛い。が、人はわからない、ということを維持しつづける助けになる。すぐにわかったような気になる、というのも暴力と近いだろうから。

今朝は、鶴巻温泉で買ってきてくれたというデコポンと「桜の小径」というお菓子を緑茶と一緒にいただいた。穏やかで暖かい毎日を望みながら動ける人になりたい。

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動作法

日の出がだいぶ早くなった。今朝は月が見えない。

丸山千秋先生、昨年六月に亡くなられていたのか。知らなかった。まだ東日本大震災よりもずっと前、成瀬悟策先生の動作法の研修会にでているときに丸山先生に直接動作法を実施していただいたことがある。震災前だと思うのは、丸山先生と同じくその研修会の講師をされていた冨永良喜先生のお名前をその後よく聞くようになったのが震災後だったから。冨永先生の『動作とイメージによるストレスマネジメント教育 基礎編: 子どもの生きる力と教師の自信回復のために』はSCの講演にも友達との勉強会にもよく使わせていただいた。あの研修会では変わらず「エライ」先生のセクハラ発言に辟易する場面もあったが丸山先生や冨永先生のお話や実践に感銘を受けた。丸山先生の身体に触れる際の自然な気遣いが心に残っていたので気持ちが冷え込むこともなかった。成瀬先生に厳しく何か言われても穏やかに微笑んでいらしたのも印象的。穏やか、というか苦笑かも。74歳でご逝去とのこと。当時の先生は今の私くらいの年齢だったのだろう。当時の私は精神分析的心理療法と動作法の両方を熱心に勉強しはじめた頃で、同じく成瀬先生の指導を受けた最上貴子先生に個人的に指導を受けようと思っていたが日程が精神分析的心理療法のスーパーヴィジョンと重なってしまい受けられなかったのだ、たしか。何者になるか、というのはこうしたちょっとした偶然によって方向づけられる、という体験を何度もしてきたが、この出来事は心に残っている。私はクリニックで自律訓練法を実施するのが好きで、身体に関わる心理療法はしっかり学びたいと思っていた。その後も色々と驚かされる体験を現場でしてきてその興味を失うことはなかったが精神分析の訓練が始まればそれに没頭する以外なかった。訓練とはそういうものだ。とかいってそんなふうに思えたのは訓練中盤からだけど。私にとっては誰かを理想化して入った世界ではなかったし、いろんなことに興味があったからどうなっていくのかなあ、自分、と思っていたけど結果的に「委ねる」ということを覚えたのは精神分析のおかげであり、その結果として精神分析家になったのだからとりあえずこういう道だったのだろう。それも「いまのところ」かもしれないけど、ここに至るまで本当にたくさんの先生にお世話になったのは間違いない。そのプロセスでいろんな横のつながりもできた。私たちの世代は頭で考えるより実際のフットワークが軽かったのかもしれないな、と指導者として若い人たちの愚痴を聞いていると思う。でも今には今のがんばりかたがあるし、ネットワークづくりのツールは当時よりずっと多い。私は私が与えられてきたもの、培ってきたもので学び続けられたらと思うが、みんなも自分で作ればいいんじゃないの、とあまり彼らが求めてなさそうな言葉を返したりしている。誰かのお膳立てに乗っかっているだけだと不満も溜まりやすいと思う。自分でやると自分が責任を取らなければならないのでやるべきことは適度に誰かを頼り、協力していくことになる。身体のメンテナンスも必要になる。私が休んでばかりでは困るから。動作法は身体のメンテナンスにとてもいいと思ったなあ。今はどんな広がりを見せているのだろう。またお話を聞きたいし、実践をしたい。筋トレにも活かせると思うし。

今日もがんばろう。

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それぞれ。

東の空にほそーい月がきれい。昨日は梅をたくさん見た。場所に限らず白い梅の方がずっと多いように思う。ピンクの梅はとても印象が強いからちょうどいいけど。この週末はこの冬一番寒かったように思う。「ように思う」ことばかりでどれもこれも変わりゆく印象の、しかも私の短い長期記憶の濃いところでいうと、というお話。この寒さを乗り切れば暖かくなる、と思うと我慢できるけど、これから長い冬が始まる、とかだったら辛いなあ。雪国の人はどんな気持ちで過ごしているのだろう。きれいな写真を送ってきてくれるから普通に生活の中で身につけた方法で淡々と日常として過ごしているのだろうけど。私はスキーとか旅でしか雪国を体験したことないし、スキーで吹雪とか体験してるけどなんだかんだ無事だったし、雪かきとかしても一年に2、3回で、この冬なんてまだ一回もしていないし、どうしても「大変だろうなあ」と思ってしまう。でも雪国の暮らしが長くなってきた友達は東京で近所で暮らしていたときと同じ感じだし、それぞれの大変さがあるよね、ということなのかもしれない。美しいもの、といったら断然雪国の景色の方が思い浮かぶけど。壮大さあっての小さきモノという対比もある。

生活といえば、先日外でお酒を楽しむイベントがあって、お料理も地元のお店が出していたのだけど、隣のベンチにいたカップルが慣れた感じですごかった。寒い中、みんな身体揺らしながら列に並んでお料理を待っていたのだけど、彼らは、カップの豚汁とパックのごはんを机に出し、さらに煮卵、乾物系つまみなどなど準備万端。水やお湯も完備。豚汁に煮卵を入れて食べていたのも新鮮。梅酒もパックで持っていてペットボトルの水に注いで水割りにしていた。コップ要らず。でも今回のイベントではワイングラスがレンタル式で100円かかった。彼らはそれを知ると、一個ので2回買いにいけばいいよね、とそこにはきちんと時間をかけていた。でも一人の方はほとんど梅酒しか飲んでいなかった気がする。外でのイベントで持ち込み禁止とかではないからこういうのもありなんだな、と学んだ。地元の人たちなんだろうな、と思った。私たちははじめての街だから地元が出しているお店のお料理が食べたいし待つ気にもなるけどお酒だけ目当てだったらこういう楽しみ方もあり。色々なお酒を試飲できる会場もあって、会場によって人の捌き方が全然違って、片方は寒い中震えながら並んで、もう片方は列の作り方が違ってスムーズだった。自分がこういうイベントを開催することはないだろうけど勉強になる。効率を求めるなら色々工夫はあるけど、それがされていなくてもそれにはそれの良さが生まれるけどね。長い列で寒さに震えている間に振る舞われた「社長の酒」とか美味しかったし。イライラしている人ももちろんいたけど、その人をあとから別の場所で見かけたときはごきげんだったし、気分を切り替えられるって大切。まあ、切り替えられてなくてもそれはそれで「あのときさー」という思い出話にもなるか。

今週も頑張りましょう。

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里山ハイキングへ行ったり。

よく晴れている。昨日は東武東上線沿いに遊びにいった。風が強くてネックウォーマーを耳まで引き上げてしのいだ。2時間くらいで戻ってこられる低山と城址にハイキング。きれいな池から始まる登山口までも駅から30分くらい歩くのだけど梅はまだ咲きはじめ。地域によって違うねえ。そんなに遠いわけでもないのに。白サギがかっこよく佇んでいたり、烏瓜がまだいい色のまま絡んでいたり、里山の景色は足を止める場所がいっぱい。

以前住んでいた上板橋に準急が止まるようになっていた。というより、当時各駅停車しか止まらなかった、という自分の情報が正確かどうかもわからないし、おそらく「準急」というものはなかった、と思う。みんなで森林公園に遊びに行ったりしたなあ。今回はもっと先へ。山は電車代だけで遊べるとはいえ旅費はかかるね。降りたあとの美味しいものにもね。最近、少しだけ有酸素のトレーニングも取り入れている成果がどのくらい出たかはわからないが寒さが疲れに一番きたかも。電車の広告で久しぶりにキッコロとモリゾーを見た。「愛・地球博」のキャラクター。キッコロとモリゾーのメモ帳とか使い切っていないから今もその辺にある。かわいいからなんとなくそばに置いている。「愛・地球博」は楽しかった。もう20年になるけどあの子たちはまだご活躍なのね。

そうだ、翻訳のチェックしないとだ。その前に机のをきれいにせんと。頑張りましょ。

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精神分析

Reading Freud最終回。

早起き。おはようございます。今朝も月がきれいです、

昨日は、2024年度のReading Freudの最終回でした。今年度は『フロイト症例論集2 ラットマンとウルフマン』(岩崎学術出版社)を精読しました。2019年からはじめたこの回ですが、メンバーを変えての2度目の鼠男と狼男。今はこう呼ばれた二人の患者さんがどこの誰でどのようなその後だったかも大体明らかになっています。フロイト自身もそうですがフロイトの患者ともなると色々大変ですね。来年度は初期に遡って『1895-99年 心理学草案 遮蔽想起』 (岩波書店)から「心理学草案」を精読します。これまでもフロイトを読んできた人たちと丁寧に学んでいきたいと思っています。メンバーがみんな女性なので、主に男性の集団から生まれた精神分析の言説に対する違和感には素直でいられるかと思いますし、それを内容の難しさのせいにしないようにアシストしていけたらと思うので私もがんばって勉強します。

今日もコレット・ソレールの本を読みながら、ラカンの患者でもありずっとラカンのそばにいたソレールがラカンとの同一化の外に出るのは大変な困難だろう、と思いました。何度通り過ぎてもまだその内側にいる、という体験は誰にでもあると思いますが、本来、精神分析はそこではないどこかへいつのまにか出るはずの治療です。でもそれには自分の分析家との本当に密な関わりのほかに、多くの人との関わりが必要です。ソレールはラカン理論からラカンの「真意」とか精神分析の「本質」を取り出したいのかもしれないけれど、私みたいに、本でのラカンしか知らない女の分析家たちが、ソレール自身の言葉を読み繋いでいけば、ラカンとは離れた場所で、ソレール独自の思考を受け取ることができそうに思うので引き続き読んでいこうと思います。私は女性が精神分析家を志すことは、精神分析における同一化に抗うプロセスを作り出す役割を担うことであると思っているので、地道にやっていこうと思います。

どこまで行けるかよりどこへ出られるか、それを楽しみに今日も過ごすつもりです。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析

作業

今日はあまり色がないまま空が水色になりつつある。でも東京の予報は晴れみたい。風がないといいなあ。

あまり行かない図書館で少し作業をした。机が広いと作業が進む。私は本やら何やらをすぐに広げてしまうからスペースがあったほうがいいのだなあ。この前、カフェの小さい机で作業してたらイヤホンを片方落とし、拾おうとしたらケースを落とし、もう片方も落とし、いつもだったら起き上がるときに机の裏に頭をゴツンッてやって机の上のカップも落とすから、ゆっくりゆっくり拾い上げた。次々変な動きを繰り出してしまったがイヤホンさえ無事ならいいのだ、この場合。不器用だったり落ち着きがなかったりすると色々大変。療育を学んでおいて本当によかった。自分に役立てるって素晴らしい。

作業といえば、確定申告で色々チェックしてたら電気代が意外なことに四月が高かった。三月ってそんなに使ったっけ。自分の印象では一番使っているのは一月二月なんだけどな。五月六月はとても安い。エアコンをほとんど使わないものね。東京電力は領収書を紙で送ってこなくなったから(送ってもらう場合は有料)きちんと意識できなくなった。水道代は2ヶ月ごとに紙でくるから比較もしやすくて季節もそういうところから感じ直したりするのだけどね。税金の督促状とかになると季節を感じている余裕はなく小さく積み重ねてきた生活に絶望感を持ち込まれてすごく嫌な気分になるけど。税金の督促だけは差し押さえまでの期間がものすごい早いし、ほぼ脅しだよな、と感じた。こういうところだけ、と思わせないような政治をしてくれてるならともかく。

今日も地道に、みんなにとっていい未来を考えつつ過ごそう。自分のことをまともに考えることが一番近道だと思っているけどまともってどんな感じ、というのはそれぞれ。良い一日になりますように。

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精神分析

色々

半月。東の空の薄いオレンジがきれい。昨日はデコポンを半分食べた。

すべきことが色々ある。細かいノルマはようやくto doリストで管理することを覚えた。手帳には色々書きすぎて管理不能になっているが大きな手帳にするのは嫌なのでタスクは即時こなす、という方法で対処したいがそれが難しいから今があるので別の対策をしよう。スマホを使いこなせないのは損かも。ヴィンテージと言われる私のMacも動いてくれてはいるがたまに心配な空白画面のまま止まったりする。Windowsのほうが仕事向きだからオフィスのはWindowsだけどこれももう長くなってきた。パソコン高いしどれがいいかわからないからこのままがんばってほしいなあ。

確定申告が見通したってきたなと思うと漏れがみつかって時間をとられる、というのをくりかえしている。支出も収入もシンプルなはずなのにこういう作業苦手。でも今年はスムーズなほう。やっぱり訓練終えてから余裕ができてる気がする。単に移動移動でバタバタするのが減ったというのもあるし、不思議な体験をたくさんした。ワークスルーは事後的にいろんな形で生じるらしい。長い時間かけたもんなぁ。

今日もいいことありますように。そういえば北海道の友達が送ってくれた雪の中の白鷺の写真がとてもきれいだった。雪国での暮らしが長い人は緊迫感と余裕を上手に乗りこなしておられる。すごい。

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精神分析

風、音楽、本


風の音がすごい。昨日は昼間、とっても暖かくて、厚手のだけどパーカーだけで出かけられた。でも今日からまた寒いって聞いていた。ということは夜は冷えるぞ、と朝はいつもの厚手ダウンも着ていた。こんなに風は強くなかった気がするけど予想通り夜は寒かった。ネックウォーマーに顔を引っ込めて歩いた。亀のイメージ。新宿中央公園の亀たちに最近全然会えていない。冬眠させてるのかな、と思いながら通り過ぎてるけど。昔、家庭教師先の亀が干上がって死んでしまったと聞いて、そんな過酷なことがあるのか、と思ったけど冬も過酷だよね、きっと。

朝、Spotifyでおすすめされたものを再生したらエズラ・コレクティブのBody Language feat sashakeable。最高だな。昨晩、ぼんやりしきった頭でアンドレ・ルロワ=グーランの『身ぶりと言葉』を読んでいたのが伝わったのかな。この本、面白いんだよ。読みやすいし。

先日のブレストを経てこれも読んだ。自動翻訳でざっと読んだからすでに忘れてしまったがディディエ・アンジューへのインタビュー集、“A Skin for Thought: Interviews with Gilbert Tarrab on Psychology and Psychoanalysis: By Didier Anzieu. London: Karnac Books. 1990. ”の書評。

読みたかったアンジューの論文が見つからなかったから検索にかかったこちらをなんとなく読んだ。

Kennedy, R. (1991) A Skin for Thought: Interviews with Gilbert Tarrab on Psychology and Psychoanalysis: By Didier Anzieu. London: Karnac Books. 1990. International Journal of Psychoanalysis 72:747-747

興味深そうな本だけど買うほどではないかな、これを読むかぎり、とは思う。が、ロジャー・ケネディーが引用しているアンジューのエピソードのひとつは心に残った。これをもって、だから「皮膚ー自我」という考えを中心に据えたのか、というのは安易からもしれないが関係ないはずもない。

I was not allowed to risk myself in the outside air without being smothered under several layers of clothing: sweater, overcoat, beret and scarf. The envelopes of care, concern, and warmth with which my parents surrounded me, one upon another, did not part from me even when I left home. I carried their load on my back. My vitality was hidden at the heart of an onion, under several outer coverings (p. 3).

Roger Kennedy は英国精神分析協会の訓練分析家でConsultant Child Psychiatrist, Chair of The Child and Family Practice in Bloomsbury, a private multi-disciplinary clinicとのこと。英国精神分析に詳しい先生方にどんな分析家かお聞きしたい。

Kennedy, R. (2007). The many voices of psychoanalysis. Routledge/Taylor & Francis Group.

これは読んでみたい気もするがその前に色々読む必要がある。まずは最優先の仕事から始めましょう。どうぞ良い一日を。

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精神分析

新宿御苑、ブレスト

日の出が早くなった。鳥たちも元気。

先日、オフィスからトコトコ、新宿駅を超えて、新宿御苑へ寄った。入園料が500円になってからはあまり行っていなかった。入園料200円からの驚きの値上げについてブツブツ話しながら入るとあっという間にそんなこと忘れた。見事な木々。私はそれなりに自然に馴染んだ暮らしをしていると思うが、木ってこんな色だったっけ、こんな肌してたっけ、と驚きがいっぱい。ものすごい生命力と一本一本の個性を感じた。もちろん新宿御苑の場合、見映えよく整備されているというのもあるが植物が大切にされている感じはした。日本庭園の方から回ったけど大きな薩摩寒桜が遠くからみても鮮やかなピンクを放っていて大きなカメラを持った人もたくさんいた。かわいいメジロも素早く飛び交っていてかわいい。池にもいろんな鳥がいてびっくり。こんな身近にいつも見ない鳥がいるんだ。色々見事だった。18歳の頃から新宿駅を拠点としているが、その日は新宿駅周りの変遷も懐かしく追えた。人との思い出も多い。なんとか無事に年を重ねてこられてよかった。

昨日は朝早くから少人数でブレストをしたら疲れた。それぞれがそれぞれの患者さんと継続的に育んでいる関係の中で「突然」と感じられることは実はそんなに「突然」ではないのでは、とそのプロセスをおうとやはりそこには着実な積み重ねとその中での様々なズレがあることがわかったのもよかった。普段、ひとりで探求していることを共有できる場があるのはいい。理論的な基盤をもって論理的にそこでの話し合いに厚みを持たせていくことは個別のスーパーヴィジョンではできないし、理論的な基盤を共有していないとこのスピードではできない。私たちの脳はものすごい量の情報を瞬時に処理しているわけだからものすごいスピードをもってものすごいじっくり考えるということを続けていく必要があるのだろう。今回は私が場のマネージをしたけどいれものがあったら入る、というあり方ではなくいれものづくりからできる人と一緒に色々やっていけたらと思う。もうひとつのブログにオグデンの論文のことも載せたし、美味しいものもいただいたし、ある程度満足の日曜日だった。今日もいい一日にしませう。

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精神分析

俳句、保育園、マップ

昨日の朝、もうあの朝焼けは見られない、とか嘆いていたが、ネット上にはきれいな朝焼けの写真がたくさん流れていた。私が見逃していただけらしい。

毎日一句以上俳句を作る習慣、作ったら縦書きアプリに移している。それが2月8日で止まっていた。1週間、なんて早いんだ。そして今日の締切に間に合うように出そうと思っていた任意の選評はできあがらず。取り上げる句は決まっていたのに結社誌が手元にないので確認ができない。すっかり忘れていた。

20代の頃からNPOで一緒に活動してきた人が保育園を立ち上げてからもう何年になるのだろう。無認可の小さな小さなおうちのような保育園がすっかり大きくなって職員も知らない人が増えた。私は当時から顧問臨床心理士みたいな形で関わってきたがコロナ禍ではオンライン、それ以降は年間の回数を減らしてもらいながら関わりを続けている。幸運なのは私の後任に私よりずっと保育現場のことをよく知っている人が入ってくれたこと。やっぱり毎日のように0歳から5歳の子供たちに関わっている人の方がいいと思う。これからもそういう人で繋げてこの領域の心理士の成果が広く知られたらいいな。保育士の仕事の大変さを保育を利用しない人たちにも知ってほしいから。本人たちがいくら声をあげても届かないなら客観的にそれを記述したり報告したり権利を主張する手伝いをする必要がある。私は二回りくらい外側からそれをお手伝いする感じならできるだろう。

今日もなんやかやで休みがないがみんなでやる作業を楽しもう。お散歩は行ける。昨日もらった手書きのトコトコマップは島崎藤村ゆかりの場所をめぐるもの。市川市の文学者関連マップも充実しているんだよね、と思いながら見ていた。こういうの作るのって楽しいよね。

良い1日になりますように。

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精神分析

言葉、求人

今日もぼんやりなオレンジ。冬の朝はもう終わったんだ。

久しぶりにドミニク・チェン『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』をめくった。娘の誕生の場面から始まる言葉の旅。多言語話者の父親をもつドミニク・チェン自身だが、彼がここで紡ぐ言葉は単なる話し言葉ではない。ロマンチックな本だなと思った印象があるがいい本だった。また少しずつ読むか。

隙間時間にする作業が遅々として進まず。しかし求人の手伝いは一気に進んだ。これまで関わってきた領域が幅広いのでこの時期はいろんな求人のお願いがくる。雇われる側には納得できる額の報酬が出るいい職場と出会ってほしいし、雇う側には普通に仕事ができる人と出会ってほしい。

さてさて。今日は年数回のお仕事の日。忘れないように行かねば。どうぞ良い一日を。

(ここは日々のよしなしごとを書き連ねる場なので精神分析にご興味ある方は私のオフィスのウェブサイトをごらんください。)

(精神分析理論のことなどに触れた記事は別のブログ「精神分析という遊び」に少しずつコピペしたりしています。)

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精神分析

俳句二句。日本精神分析協会学術大会プログラム発表。

東の空がオレンジ色にならない。東京の天気予報は晴れみたいだけど。昨日、俳句を作り忘れたことに気づいてさっき慌てて作った。昨日はとても風が強かったことを思い出して「春嵐」で一句。そして身内とスキー教室の話をしたけどスキーは冬の季語なので「牡丹雪」で一句。これで少し昨日を取り戻した気分。TVerでプレバトの俳句のコーナーだけ見て色々勉強になったのに実作を伴っていなかった。いけない。実作が一番大事。

帰宅したら高校時代の友人からまた引っ越しのハガキが届いていた。転勤がある仕事は大変だ。また岡山か。慣れた土地なのはきっと安心だろう。そうだといいなと思う。

今年6月の最初の週末に行われる日本精神分析協会の学術大会のプログラムが発表になった。広報の仕方について思うところがあるけど何回か言っていることなのでまあいいか、とも思う。でもそれではよくないと思うのでまた言おう。手続き上のことは情緒を乗っける前に事務的にやらないと。今回は私は仲間内でパネルを立てた。私が候補生になったのはコロナ以前だったので福岡支部(関西や広島の方も大体福岡支部)のみんなとも実際に会って色々話し合うことができていた。コロナ禍、コロナ以降もオンラインの勉強会などで繋がり続けた。そういうなかでサクッと集まったメンバーで興味を共有できた話題で企画した。そういう相手がいることを本当に幸運に思う。

もう週末。てんやわんやだががんばろう。

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お菓子 精神分析

月、ポッドキャスト、お菓子

昨晩も月がきれいだった。一昨日も満月みたいだったけど昨日が満月だったらしい。2月の満月をアメリカでの先住民はSnow Moonと呼んだとのこと。日本では春の月は朧月とか言ったりするけどまだ冬の月に近い輝き方かも。昨日は強い風をマスクで避けながら少し春を感じた。

いろんな発表の準備をしなくてはならないけど隙間時間に読みものをしているだけでは「これで行こう」という糸口が全然掴めない。いつもそうこうしているうちに〆切間際になって追い詰められてようやく思いつくという感じだけどそのパターンを変えていきたい。マイケル・パーソンズ、G.コーホンなど独立学派の分析家のpodcastを聴いたりしたがいまいち発想が広がらない。パーソンズが取り上げていたミケランジェロ・アントニオーニ監督の『Lo Sguardo di Michelangelo( The Gaze of Michelangelo)』は見てみたい。

パーソンズの取り上げ方はこんな感じ。

 The title of the film is: Lo Sguardo di Michelangelo — ‘The Gaze of Michelangelo’. This is splendidly ambiguous. Which Michelangelo? Buonarrotti or Antonioni? Who is gazing at whom? Patient and analyst, in their different ways, ask themselves the same question. Both, of course. The two Michelangelos are gazing at each other.

 

今週末はタイプロ。メンバーが決まる。そもそも元々のメンバーのことをあまりよく知らないのできちんとみていたわけではないがみると泣いてしまう。SNS上は盛り上がるのだろう。

煎餅工房さがえ屋さんと老舗ショコラティエ「サロンドロワイヤル」さんのコラボ商品「おこめショコラ【ホワイト】」をもらった。サクサク甘く美味しかった。

今日も東京は晴れみたい。どうぞ良い一日をお過ごしください。

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精神分析

「普通に」、犬

朝焼け。少し薄いオレンジ。

紙のようなプラスチックのような袋に入ったチョコレート。黒と白の二つ。黒が普通のチョコで白がホワイトチョコレートだと思いこんでいた。少し前に黒い袋を切って開けて食べた。普通においしかった。今朝は白い袋を切った。白いチョコが見えるはずがまた黒。どうやら黒の中でもブラックとミルクとかで味が違ったらしい。こっちも普通においしかった。「普通に」と書いてしまうのは意外だったから。普通だったらあえていう必要なさそうなものなのに言葉の使用ってそういうもの。サクサクのクッキーにチョコをかけたお菓子は一番好きな組み合わせのひとつ。美味しかった。

祝日は大掛かりな片付けの手伝いに一日使った。よく働いてぐったりしたが合間でおいしいものも食べたしいい時間だった。筋トレ成果はこういうところに出る。寒いなかでの作業も少し動けば暖かくなる。重たいものの移動で頼りになる。疲れても犬と遊ぶ元気がある。

その柴犬はその家の子がまだ小さかった頃にきた子だからもう15歳くらいか。嘘みたいに落ち着きがなくずっと赤ちゃんみたいな犬だったけど今や耳も遠くなってボールを投げればすぐに咥えに走るものの追いついて口をちょっとつけたらもうOKという感じで何も咥えずトコトコトコと戻ってくる。たまにしか会ってこなかったのに作業中もずっとトコトコついてきて時折ちょっと首を傾けてじっと見つめてくる。飼い主には「邪魔しかしないんだから」と小言を言われていた。確かに足にまとわりつくように歩くから作業しづらいのはあったけどそれもかわいい。今はもうむやみに飛びかかってくることもないのはちょっと寂しいけどよく無事に年月を過ごしてくれた。まだその家の子が中学生のときだったか高校生のときだったか、犬の散歩がてらいろんな話をした。みんな少しずつ変わっていくけどきみがこの場所にいつづけてくれることでみんなの時間が重なるんだよ、ありがとね。私も我が家にいた犬を思い出す。その子はとてもクールでこんなトコトコついてこなかったけどお散歩の紐をみると狂喜乱舞していた。きみと入り込んだとうもろこし畑はもう大きな家が立ったよ。それだってもう何年も何年も前の話。あそこもあそこもあそこも今はこんな風になってるよ。ずっとそうやって変化を共にしていきたい相手がいることに感謝。

今日は少しだけ空が暗い気がする。良い1日になりますように。

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精神分析

梅園、日常言語哲学の本

青梅市の吉野梅郷、紅梅苑さんの「紅梅饅頭」をもらった。吉野梅郷の梅はまだあまり咲いていないそう。同じ東京でもそんなに違うものか。私はすでに少しの寄り道でたくさんの梅を楽しんでいるけど。吉野梅郷の梅まつりは今月15日からとのこと。行ってみたい。私は熱海梅園の梅祭りがとても好き。河津桜も一緒に楽しめるし、はじめていったとき、お天気もすごくよくてお花はもちろんきれいだった。でも一番記憶に残っているのはお好み焼き。食べやすくラップロールみたいになっていたのも新鮮だった。水戸の偕楽園の梅はどうだろう。バレンタインデーの時期に連続して偕楽園に行っていた数年があるがいつも3分咲きくらいだった。芝生に寝転がれるくらい気持ちいいお天気の日もあった気がする。バレンタインデーと偕楽園はなんの関係もないのだがなぜその頃に行っていたのだろう。水戸の高級納豆を買ってきたこともある気がする。いや、高くて買わなかったかもしれない。さてさて紅梅饅頭をいただこう。梅のかたちの柔らかなお饅頭。ちっちゃな梅がこんな立派なお菓子になりました。美味しい。お裾分けしてもらった中国のお土産のかわいい缶に入った金木犀の烏龍茶と。冬でも水分をきちんととりましょう、という話をトレーナーさんとした。烏龍茶はカフェインが入っているからあまりよくないのだろうけど食べ物と一緒のときは好きな飲み物をいただこう。

アヴナー・バズ『言葉が呼び求められるとき――日常言語哲学の復権』(飯野勝己訳、勁草書房、2022年)を読んでいた。『謝罪論』を出した古田徹也さんの選書リストで見つけた。オースティン、ウィトゲンシュタインらが展開した「日常言語哲学」ってこういう立場にあったのか。副題が「日常言語哲学の復権」なのはそういうことか、と全然知らなかったことがたくさん書かれている。古田徹也の本から入った私は普通にメジャーなものとしてそれを認識していたけど学問の歴史を知ると見えてくる景色が変わる。勉強は大事。

今日もすっきりとした空。テレビで見る雪国の様子に毎日驚いている。東京の暮らしとは全く異なる。雪崩のニュースもその後どうなっただろう。被害が大きくなりませんように。どうぞお気をつけてお過ごしください。

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俳句 料理 精神分析

サバカレー、フランス語、忘れ物

朝です。ご近所のおうちたちがオレンジ色に照らされています。朝から印度カリー子さんの「3ステップで作る!ちょうどいいサバカレー」を作って少しいただきました。味見程度と思ったのにおいしくて食べてしまった。さばの水煮缶はカリー子さんが使っているのと同じものにしたけど塩加減は私は相当少なくていいかも。あ!今気づいたけどレモン汁を入れるのを忘れた。ガーン。まあ、すごく簡単だからまたすぐ作りましょう。ココナッツミルクも余っているしね。

最近フランス語の勉強をサボっていたことがバレてしまった。隠し立てしていたわけでもないけど指摘された。Duolingoを毎日やることでヨシとしてしまっていた。もちろんそれでは読めるようにも話せるようにもならないとわかっている。やらないよりは当然マシだと思う。うーん。YouTubeを使って勉強している人が多いことは知っているが私は本当に動画が苦手。映画とかは別。注意力散漫だから画面上の情報が多いYouTubeが苦手なんだと思う。なので帰りの電車で情報を集めポッドキャストで教材をチョイス。そんなことをしていたら一日一句作るという習慣が早くも崩れそうになった。気づいたら夜。というか昨日は結社誌のための10句を選んだことでやった気になっていた。

冴え返るとは取り落とすものの音 石田勝彦

いい句だ、と書くなり少し不安になる。写しまちがえていないだろうか。せっかくの句を私の書き間違えのせいで変なリズムの句にしてしまっていないだろうかなど。いつもそうだ。書いたあと、何度も確認してしまう。自分自身の句にもそのくらい気配りができるとよいのかもしれぬ、がとりあえず2句作っただけでよしとした。今日も実景から作ろう。

先日、一緒にエレベーターを降りた人が突然カバンをゴソゴソしはじめた。忘れ物を探す仕草はみな同じ。私は忘れたことに気づかずいろんな人にお世話になってきたが気づくときはそうなる。こうなるよねー、と思いながら待っていたら見つかった。よかった。

よく勉強した週末だった。それでも普段より余裕があるのは助かる。習慣作りも地道にがんばっていこう。今週も良いことありますように。

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精神分析

アクアライン、俳句と精神分析?

空が白い。遠くの方はまだうっすらオレンジ。起きたら喉がパリパリ。熱いお茶を淹れた。今日も「保田どら」と一緒にいただこう。房総はアクアラインが開通した頃、よく行った。身内が房総の小さな町で社会学のフィールドワークをしていたからその思い出話と共に。神奈川県川崎市と千葉県木更津市を繋ぐなんて当時はすごいと思った。それほど土地勘があったわけではないがそれまではフェリーで行っていた場所だ。アクアラインは最初は料金が高すぎて海ほたるもガラガラだった。フェリーの料金はどうだったか忘れたがもうそのルートは廃止されているだろう。いずれにしてもバブルの頃に構想された計画はその後のまさかの不況を想定できたはずもなく(できたのかもしれないが)運用は大変だっただろう。近所でも道路予定地として放置されている土地がいくつも見られるがこれはいつ計画された道路のためのものなのだろう、といつも思う。この土地は私が通った馴染みの店が立っていた場所でもあるのに。立ち退かせるときだけ素早くその後は見通しなし、というのはどんな場合でもよくあるが人の住処をなんだと思ってんだ、という感じはある。本人たちが納得したとしてもそれまでの生活を変え、お客さんを含め関わりの深かった人たちと離れる体験はそんな簡単じゃないはずだ。もちろん「あのときは大変だったけどで結果的にはよかったんだよ」という声もあるだろうし、ぎりぎりまで実現可能性を検討してから動くのでは遅い、というのもわかる。しかし、一気に動く動力を蓄えるためにはそのよな熟考が必要であることもまた事実だろう。

10日ほど前から一日一句は俳句を作っている。二句、三句作る時もありだいぶたまってきた。しかし、これはただの言葉遊びでは、という駄句ばかりで句友たちの素敵な俳句との差が自分でも明らかにわかる。とはいえ継続は力なり。でもやっぱり私は精神分析くらいしか没頭できないのでは、と思い、俳句と精神分析で検索をしてみた。最初にヒットしたのはなんとラカン理論の俳句への適用。ラカン理論が利用しやすいのはわかるが・・・、と思いつつ読んでみた。著者はイアン・マーシャルさん。ペンシルバニア州立大学アルトゥーナ校の英文学と環境学の教授らしい。ソローの『森の生活ーウォールデン』から俳句を抽出している本も書いているらしい。面白そう。とりあえず最初にヒットした文章Jouissance among the Kire: A Lacanian Approach to HaikuをみたところABSTRACTはこんな感じ。

「本稿では、精神分析理論を俳句に適用し、俳句が言葉以前の世界との一体感への回帰の試みとしてどのように捉えられるかを探究する。これは、ジャック・ラカンが「想像界」と呼んだ状態への回帰の試みとして考察される。それは言語というメカニズムを通じて行われ、ラカンによれば、言語こそが我々を「象徴界」へと導き入れ、そこで我々は自己と世界との分離を認識し始める。さらに我々は「現実界」に生きており、そこでは自己の外にある対象は欠如の象徴として認識される。結局のところ、俳句は私たちを欠如と一体、分離と結合という可能性の狭間に置く。優れた俳句は、並置されたイメージを提示するために断片的な構文を用いながらも享楽の可能性を私たちに提供する。これは想像界への瞬間的な回帰であり、俳句の瞬間に関連付けられる世界との一体感への突破である。しかし同時に、優れた俳句は、俳句に詠まれるイメージのように、自己の外にあるものが欠如の象徴となり得ることも私たちに想起させるのである。」

ふむ。そうかもしれないが、ふむ。ソローと俳句の本が読みたい。

Marshall, Ian, “Walden by Haiku,” The Haiku Foundation Digital Library, accessed January 27, 2025, https://www.thehaikufoundation.org/omeka/items/show/3305.

光が溢れてきた。カーテンを開けて過ごしましょうかね。どうぞ良い一日を。

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精神分析

日曜日

明るい。体調管理のため寝られるだけ寝ようと思ったがすごくよく寝たと思ってもあまり時間が経っておらず電気ひざかけをもちこんで再び寝てみたらこれまた気持ちいいけどしばらくしたら暑くて起きるということを繰り返し、まあゆっくりできたのでよしとしよう。今朝はいつもより1時間遅いとはいえ一日中オンライン研修。オンライン辛い。晴れてるから陽の光いっぱいの中にいられるだけでもありがたいけど。性暴力、性犯罪に関してだから必須ではあるからがんばろう。臨床家は被害と加害の両方に関わるし、そこを焦点化した臨床の話を聞けるのも貴重だものね。集中してきく機会。夜はミーティングもある。がんばろう。

睡眠と運動は普通に大事で運動は定期的に取り組めているけど睡眠がどうもいけない。20歳の頃からの友人と電話をしていた。もうこの歳になれば本当に色々なことがあるわけで相手のこともお互いのことみたいな部分もあり、どんな重たいことであっても相談も一方的ではなく共有となる。「とりあえず寝よう。お互いきちんと寝て、また話そう」と電話を切った。「それがどんな僅かでもやれることをやりながらまた会おう」というのも同じ感じ。

私たちはひとりではできないことだらけなのに、誰かに話してもしかたないというのも、すぐには何も生じない、という意味では事実かもしれないけど、誰かに対して言葉にするというのは必ず次へつながる何かをうんではいる。言葉の隠喩性とはそういうものなので、相手がAIであっても言語化は大切だと思う。精神分析は言葉の隠喩性に特別な注意を向けているので、ただただ言葉にしてみるという患者の体験を共有する場を設定している。だからフロイトがいったsimplly listenの訓練が必要でそれは日常生活では難しいことなので設定が大事。訓練と設定が必須であることは私はずっと言い続けているし、フロイトはじめ、大体の分析家はそう言い続けているわけだけど、言いづける必要があるのはそれがそうだと思われていない、思っていても実践されていないからだろうね、という話を先日した。

今日もすべきこと、やりたいこと、力まずやりましょう。いいお天気なのは本当ありがたい。雪が降る地域は本当に大変だと思うけど良い日曜日になりますように。

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精神分析

湘南梨ゼリー、耳の仕事

今朝は茅ヶ崎の湘南梨ゼリー。湘南ゴールドのゼリーもあるけど梨にした。ちょっと季節を戻して。湘南梨というのもありますのね。寒川町の梨で2020年に「かながわブランド」に登録されたそう。甘い!シャクシャクした果実が入っていて美味しい。でも甘い!私はあまりゼリーの甘味が好きじゃないのだけどこの梨の味は美味しい。空はまだ暗い。下弦の月がうっすら見えていたのは昨日だったか、一昨日だったか。日々が過ぎるのが早い。

最近、あまり音楽を聴いていなかった。意識的に。イヤホンだと周りの音が聞こえなすぎて周囲への注意が低下する。それは危険だと思う出来事があったり見たりした。それだけでなくノイズキャンセリングというのはやはり不自然ではないか、という以前からの思いもあった。昨年11月にサウンド・アーティストの細井美裕さんの初個展「STAIN」に行ったことはここでも書いたと思う。過去を思い出させる場所の音の記録だけでなく、未来を考えさせられる場所で音をとるなどの活動を行い、空間や時間を変容させる可能性をもつ音に鑑賞者の注意を向けた作品たちに影響されたというのもある。おそらく必要なのは鑑賞者の平等に漂う注意だと感じた。つまり私には精神分析的に聴くとはどういうことかという問いと繋がっていた。カウチに横たわり背後に分析家がいる設定の精神分析と対面での心理療法は全く異なる。相手の表情や仕草を参照しがちな私たちはたとえそれが誤解であってもかなりの部分、それに対する自分の感覚や情緒に頼っているだろう。精神分析の場合、見えるのは自分の身体の一部と部屋の一部であり注意を漂わせている感覚は主に分析家の聴覚が担う。精神分析は言葉の隠喩性に依存した学問であり治療法であると言っていいと思うが、その言葉の質を細やかに捉える仕事をするのは分析家の耳である。その前提として、分析家は自分の声や言葉がもつ力を知っておかねばならない。訓練分析の目的はそれだけではないが可能性やキャパシティという言葉も含め「自分の力」という言葉で表すとして精神分析において最も強く実感するのは自分の力の限界である。有限性という言葉でもいいかもしれないが、精神分析においてそれは自分の力に対して最も強く意識されるべきではないだろうか。ということをずっと考えていたわけではないが大好きな音楽を聞かずただ自分の耳が捉えるものを聞いていた。フロイトがいったsimply listenである。すると俳句が作りやすくなった。思いがけない情報が耳を捉えるせいだろうか。俳句がうまくなったわけではない。作りやすくなっただけだが日々作るということを全く継続できなかった私にとっては大きな変化である。といいつつちょこちょことお風呂などで音楽を聴いているわけだが昨日気づいたのは今来日しているCatpackの新作は作品自体はとてもいいがiphoneの内蔵スピーカーでは全然音が良くないということ。一方、Cassie Kinoshiの新作gratitudeはiphone内蔵スピーカーでもまだいい感じで聴こえるということ。精神分析では患者によって、あるいはセッションによって患者の声の聞こえかたは全く異なるがこれはどうやって説明しよう。そんなの当たり前じゃん、というのでは学問ではないのである。声優が声をコントロールできるのは日々の努力と才能に違いないが、精神分析ではコントロールという概念は捨てた方がいいように思う。どこまでお互いに委ねられるかというと変な言い方だが協力体制によって自分たちの暴走を食い止めながらかつできるだけ自由に進もうとするプロセスなのでそこでも訓練された分析家の耳は必要なのである。解釈などの言葉の使用はそれに基づいてなされるものなのだろう。

今、目の前に開きっぱなしで二日間で1ページしか読んでいない俳句の雑誌に「俳句の選といふことは一つの創作であると思ふ」という虚子の言葉が紹介されているのが目に入ったが耳が痛い。目から入ったのに、とか言っている場合ではなく、何かを創造するというのは発見するということであり精神分析においてそれは耳でなされるものであり俳句においては五感全てでということになろう。ああ、無力。限界を知ること。そして限界の中で拡張できる何かを発見すること。そんな毎日を続けていけたら嬉しい。

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精神分析 音楽

欵冬華、ステラ・コールのインタビューなど。


「七十二候は「欵冬華(ふきのはなさく)」を迎えました。欵冬(かんとう)は蕗(ふき)のことですので、蕗の薹(とう)が出始める頃、という意味です。蕗の薹は雪解けを待ちかねたように地上に顔を出す、春いちばんの使者。」(暦生活、読み物から)

だそうです。「暦生活」さんのウェブサイトに書いてありました。大寒の昨日は拍子抜けするほどポカポカでした。夜の雨も冷たくなかった。今朝も朝焼けがきれいです。春が近づいているのは嬉しいです。昨年は夏が長過ぎて秋を意識して感じないといけなかったからまだもう少し冬でいてもいいよ、と思ったこともないことを思ったりします。でもこうして写真とか見てしまうと蕗のとうの天ぷら食べたいなと思ったりするので早めにきてくれてもいいです、春。

柳樂光隆さんのnoteでz世代アーティストのインタビューを読んでいた。ステラ・コールのインタビュー。「TikTokやYouTubeもしくはInstagramなどでのショート動画で人気が出たアーティスト」たち。コロナ禍は発信の仕方を明らかに変えた。若い世代の表現の模索を思うと不憫な気持ちにもなるが彼らは、というよりむしろ彼ら若い世代はそんな閉塞的な状況でも思考を止めなかったといえる。しかもステラ・コールはオンラインの世界だけでなくものすごく地道に指導と現場を求め続け成功している。20代の感性と行動力に応える環境をつかめてよかった。ステラ・コールはずっと年上の私が聴いてきたジャズをミュージカルの文脈で聴いて育ってきたらしい。音楽はこうやって軽やかに世代を超え歴史をつなぐ。ステラ・コールを聴いたあとに今聴いているのはエイミー・マン。映画「17歳のカルテ」の原作「思春期病棟の少女たち」の舞台化のために作られたアルバム。この舞台もコロナで上演されなかったらしいがこのアルバムは素晴らしい。私は精神分析実践で「物語」を作ることを警戒するがものを語るプロセスには細やかな注意をはらいたいと思っている。音楽で音への注意が次の音を導いていくような感覚。それらの集積が結果的に物語となるならその物語は個別性に溢れていてきっと素敵だ。

今日もがんばろう。

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精神分析

能登、輪島塗職人さんの番組を見た。

朝ドラを見た。空が明るい。今年はまだ凍えるような寒さを体験していない。昨晩、NHKスペシャルで輪島の輪島塗職人さんたちのことを追っていて地震で壊れた窓にはめていた板が落ちるシーンがあった。大きい音にも落ち着いて外に出てその板が寒さを凌いでくれたことに感謝していた。その人は10年前にパートナーを癌で亡くしておりお手紙を書くように一方通行のLINEを妻に送り続けていた。昨年、輪島の手前、羽咋、加賀、小松、金沢へ行った。加賀市美術館で輪島塗の作品をたくさんみてそれらが分業だと知った。昨晩の番組でもそれが紹介されていた。木地師・下地師・研ぎ師・上塗り師・呂色師・蒔絵師・沈金師などなどいろんな職人さんの中の数人の方々が関わり合いながら被災後の生活を送る様子をカメラは捉えていた。地震のあとの水害、被災後ようやく場所を借り職人として仕事ができたことに感謝する人、水害前に癌になり亡くなられた人、その方が基礎を作った作品はいろんな職人の人たちの手によって完成した。とても美しかった。ひとつの器が出来上がるまでのどの工程も見事だった。こんなことが同じ手でできるんだな。技術は人が受け継ぐのにその人たちがたくさんいなくなってしまった。それでも生きることを続けている方々に涙が止まらなかった。地震から1年、水害からだってまだ4ヶ月経たない。そんななかこんな高度な技術の作品が人から人に渡りながら出来上がる。そのスピード感にも驚いた。自分達の手で道具を救い出し、洗い、場所を作り、作品に取り掛かるまでの準備をする以前に自分が生きていることが危機にさらされるなか、絶望しそうだという言葉を本当に静かに呟きながらぎりぎりのところで堪える人たち。どうか健康であってほしい。どうかもうなんの被害も出ないでほしい。寒い寒い冬を少しでも暖かい気持ちで過ごしてほしい。私は「能登半島の地震と豪雨の記録と表現のプラットフォーム note records」に毎月寄付をしているのだが、昨晩の番組を見ながら記録し伝えていくことの重要性を実感した。今日もどうぞご無事で。いい1日になりますように。

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精神分析

スケジュール、ニュートラル

カーテンをちろっと開けたらまだ暗かった。二度寝しようかと思ったけど起きた。きっとあとでうとうとするだろうから。この1週間締切のあるものは全てしあげた。いつも締切当日になるのに一日前とか二日前にできた。おしゃべりしたりちょっとどこかへ出かけたりする時間がほしくて集中した。本当はもっとスケジュールをきちんと立てて取り組むべきとわかってる。私の場合「隙間時間にやる、以上」で、隙間時間の半分はすぐに誘惑に負けて関係ない本読んだりしてしまう。「隙間時間の前半半分はやる」とか「隙間時間は作業(課題読書含む)と読書交互にやる」とか実情に合わせたスケジューリングでは意味がないしねえ。うーん。こんなこと書いている間にスケジュール帳作ればいいのよね。裏紙で作ったかわいいメモ帳を時々もらうのだけどそれに書いてみよう。次にやるべきことはなにか、というところから確認せねば。若い頃は「ダメだなあ、私は」と続いたと思うがそんなこと思ったところで、といい加減学んだので「自分に必要なら普通にやれば」と冷静な私が怠ける私に言い放つ自己内システムができている。がんばれー、と呑気な私が応援もしてくれる。がんばろう。

久しぶりに「ニュートラル」という言葉を自分で使ってみて「おお、久しぶり」と思った。中立性については岡野憲一郎先生が一冊(もっとかもしれないが)本を書いている。『中立性と現実』という本。フロイト自身は使っていない言葉だったと思うが「平等にただよう注意」や「禁欲原則」と関連している。岡野先生の本は2002年に出て序文は小此木啓吾先生が書いている。私が中立性という言葉にお久しぶり感を覚えるのは小此木先生がフロイトとフェレンツィを比較しながらよくお話しされていたフロイト的態度の一部がそれだったからだろう。『精神分析療法の道』参照。1919年かな。 フロイト技法論集に入っている1915年の『転移性恋愛についての観察(精神分析技法に関するさらなる勧めⅢ)』も参照。中立性というのは揺らぎをどうにかしないといけない局面があるから求められるわけだが、私は自分がなぜその言葉を使ったのかを考えながらこれがないと患者に自分の言葉以前に情緒を押し付けることになるからなあと普通のことを改めて思った。治療者自身の感覚は逆転移として大事とは思うが、逆転移というのはもっと細やかに語られるものであって、と思うわけだ。アンドレ・グリーン(A.green)の言葉にstructuring emptiness=構造化する空虚という言葉があるが中身によって容器が容器たりうるというのは本当にそうで、精神分析を精神分析たらしめるのは精神分析家の態度であって、だから訓練が必要、とフロイトはじめ精神分析家たちはしつこく書いているわけだな。こうやって自分で何か言っては何かを確認する日々。今日も確認と発見をしたい。

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精神分析 読書

高橋澪子 『心の科学史 西洋心理学の背景と実験心理学の誕生』を読み返した。

空がまた曇り始めた。さっき西の窓が朝焼けでいっぱいに染まったのに。雨も少し降っているらしい。昨日の帰りは雨風が強く傘を持っていかれそうになる瞬間もあった。一番近いスーパーに寄るといつもよりずっと空いていた。何日ぶりの雨だろう。降ってくれたのはよかった。

昨日、高橋澪子 『心の科学史 西洋心理学の背景と実験心理学の誕生』 (講談社学術文庫、2016.9)をなんとなく読み返していた。

この本は「古典的実験心理学を中心とする十九世紀ドイツの心理学に的を絞り」「今日のいわゆる”科学的”心理学を支えている方法論と認識論の歴史的な成立過程を明らかにする」「”心理学のための”心理学史」である。原本は20年間の研究成果を収めた1996年の博士論文を中心に編纂され1999年に刊行された『心の科学史ー西洋心理学の源流と実験心理学の誕生』である。

どういう時代の本かというと心理学専攻の人にはこの脚注が役立つかもしれない。

「宗教による”いやし”と心理学による”いやし”の関係について河合隼雄氏がユング派臨床心理学者としての長年の経験に裏打ちされた著書を相次いで発表しておられることは、この問題に対する有力な手がかりの一つが専門界によっても既に準備されつつあることを示していて心強い」

1999年は私が大学院を卒業した年であり、著者が「あとがきーレクイエム」で感謝を捧げる何人もの師とのやりとりを自分にも重ねた。私はちょうど国内での心理学史の本が出始めた頃の学生だったと思うが高橋澪子の研究は著者の博学と独自の史観に貫かれており、学生時代に出会えていたらお世話になった東洋先生や柏木恵子先生ともっといろいろなお話ができたかもしれない。

この本は精神分析が心理学にどのように位置付けられていったかにも少し触れておりボーリング(Boring, E. G.)の『実験心理学史』では随所で好意的な論評が加えられていると書いてあった。また『実験心理学史』第二版の最終章には「力動心理学」も登場するそうだ。読んでみたいなと思って少し調べたら初版をインターネットアーカイブのサイトで見ることができた。落丁や書き込みもあるが目次だけでも興味深い。

A History Of Experimental Psychology. by: Boring, Edwin G. Publication date: 1929. Topics: RMSC. Collection: digitallibraryindia; JaiGyan.

ともあれ、高橋澪子のこの本は心理学の初期からどんどん遠くなっていく今もこれからもずっと読まれてほしい。エクスターナルな立場が中心の心理学史研究だけでなく、インターナルな心理学史の必要性に著者ははこだわる。なぜか。

「昨今の科学史研究の動向もまったく知らないわけではない筆者が、あえてインターナルな問題意識に固執しつづけたのは、ひとえに「心理学」という学問が背負っている(おそらくは人間の知の構造そのものから来ているに相違ない)宿命的な”心の両面性”という固有問題のためである。だが、このことは、心理学史に対するエクスターナルな視点からの研究が不必要であるというようなことまで、決して意味するものではない。」

これはそのまま学問とは何かという問いにつながっている。ともあれ心理学の名著である。1998年2月10日の日付で書かれた「あとがきーレクイエム」だけでも読んでほしい。学問を志す人、特に心理学を志す人なら本文を読まねばという気持ちにさせられる、というよりひきこまれるのではないだろうか。著者が様々な師からかけられた「学問はすべて”あこがれ”ではないでしょうか」「にせ物になるなよ」という言葉も胸に響く。臨床も学問の上に成り立っていること、そしてその学問とは、という問いを追い続けることもまた仕事だ。がんばろう。

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精神分析

ハイキングとか。

ハイキングへ行った。週一回の筋トレの成果か、あるいは疲れに鈍くなっているのか帰宅した後もずっと課題に集中できた。でも全然進まなかった。アンドレ・グリーンの本を英語で読んでいたのだけどフランス語で読むよりマシとはいえ、グリーンがどんな立場で何を言いたいかがあまり掴めないのもあり、あと単純に英語が読みにくい、あるいは私の英語力がないせいで時間をかけたわりに成果が見られない。困った。それでも三分の一くらいはできたかなあ。はあ。

今朝はどの果物を食べようかな。年末から果物が豊富。嬉しい。ハイキング後のビールが美味しいように朝の乾きには果物が美味しい。最近、志田未来主演の「下山メシ」というドラマを見た。「孤独のグルメ」と同じで、言葉ではなく表情で演技し、心の声をそれに当てる形式のドラマ。志田未来の大きな瞳とちょっとおどおどした感じと健康そうな食べっぷりがとてもかわいくてなんだかずっと見てしまった。登場する山々も有名なところばかりで下山メシの美味しさもとても共感したが行ったことのある店はなかった。あそこかぁ、とわかる店はあったので今度ハイキングするときは行ってみたい。

外でいろんな音がする。もう今日から通常営業という人も多いだろう。私は月曜日から。それまでに仕上げねばならないことがたくさんで辛い、とかいいながら知らない土地の味のお雑煮作ろうかな、とかも同時に思っている。そんなものだ。自分から辛い苦しいにはまりこまないように楽しいことを考えつつ地道にやりましょう。

それにしても雨が降らない。乾燥がひどい。インフルもコロナもその他も色々流行っているから気をつけて過ごしましょう。

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精神分析

学習

元日、夜、家に帰るとたくさんの郵便物が届いていた。世の中は休みのはずではなかったか。元日に届くのは年賀状の束だけではなかったか。みなさん、本当にお疲れ様です。年内に出してしまわねば、出してしまいたい、いろんな理由があると思う。ゆっくりできる日があることを祈る。

休みの間、一日乗車券のようなものを使ったが今はなんでもQRコードなのか。最初から改札で引っかかってしまい駅員さんに「反応しないです」と言いにいったら「それと一緒に入れました?」と私のもう一方の手にあるパスケースに入ったPASMOをチロリ。おお。「はい」というと「そっちが反応しています」とさっと手を出し私も慌ててPASMOを渡し処理してもらっている間「ほんとすいません」みたいなことを2、3回いってしまった。それくらいクールだった。「そっちが反応しています」という言い方には痺れた。パッと私のもう片方の手に視線を走らせ、私の使った言葉にきちんと対応している。こういうのがわかりやすさだよな、と思った。こっちも駅員さんの注意の向け方につられるから何を言われているかすぐわかる。「え、なんでだろ」みたいな感じで私に差し出された方の乗車券だけに注意を向けていたら解決は遅れる。駅員さんたちは私みたいな人に慣れているというのはあるだろうけどね。この人もPASMOやらSuicaやらと重ねてピッてしたんだろうなあってすでにたくさん学習しているのだろう。

問題の立て方を誤ると学習はうまくいかないということについてはベイトソンを参照できる。コンテクストの切り取りについてもだ。斎藤環の『イルカと否定神学』(医学書院)を読んでいてベイトソンの学習概念に改めて興味を持った。学生の時に統合失調症の理解にダブル・バインド理論があることを知り少し勉強したが当時の私には難しすぎた。今は少し理解が進んでいるのでベイトソンの学習概念がコミュニケーションについて考える際に非常に示唆的なのは理解できる。簡単ではないが。

ベイトソンは『精神の生態学へ(下)』「クジラ目と他の哺乳動物のコミュニケーションの問題点」で動物の間を飛び交っているシグナルの量についてこう述べている箇所も私は好きだ。

「それを「コミュニケーションから退いている」と評することはできても、その退きは、たとえば家族の場で、統合失調症の患者がまったく自分を閉ざし、その閉ざしの事実を中心として家族関係が展開していく場合と、基本的に変わらないものでしょう。動かずにいるという事実の周りを他のメンバーが動いていく。何もしないことで、何もしないという事実が強く伝わるわけです。」

まさに。ただそこにいることの意味、というのは身体をもっていることと切り離せない。この辺が今年のテーマだろうな。

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精神分析

2025年元旦

あけましておめでとうございます。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

ここはなんとなく習慣になっているので今年も頭を使わないで手が勝手に動く範囲のことをツラツラ書いていくと思います。そのうちぱったり書かなくなることもあるかもしれません。この30年くらいの間に複数のブログをネット上に放置しています。理由は自分でもわかりませんがプロバイダを変えたりパスワードを忘れたままその存在自体を忘れてしまったりしたのだと思います。だからここも頭を使うことが増えて余裕がなくなったり書く以外のことが充実したり単に忘れたりどんなときに終わるのかわかりませんが私のオフィスのウェブサイトの方は引き続きチェックしていただきたく存じます。多くの方が精神分析に関心を向けてくださったら嬉しいのです。知的にではなく新しい体験への好奇心として。

今年はどんな一年になるのでしょう。災害に対して迅速に支援が入り、心が即時随時守られる世界が当たり前になりますように。

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大晦日

テレビに西田敏行がでている。クドカン作品での演技が大好き。郡山市生まれ。震災後の活動もすごかった。能登半島地震から明日で一年。復旧が進まない現地のアンケート結果が悲しい。一番大変なときに少しの見通しをもらうよりも少しの期待が破られることのほうが多かったら希望をもてないのは当然だろう。絶望しないことで精一杯かもしれない。引き続き多くの具体的な支援が入りますように。

今年は本当に年末を感じられない。今日は大晦日か。初詣の準備とか新年っぽいものもたくさんみかけてるのに。新年早々に会う予定の人とは夢ですでに会ってしまった。年賀状は書いた。早く出さなきゃと思いつつよけいなことを書いたり持ち歩くのを忘れたりしてして遅くなった。

楽しみにしていたオグデン(Thomas H. Ogden)の最新刊
“What Alive Means
Psychoanalytic Explorations”を早速読んでしまいノルマ本が読み終わらない。まずい。オグデンの英語は比較的読みやすいから難しいのが後回しになる。来年、明日からがんばろう。

今日はどんな1日になるかなあ。のんびり構えておこう。

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Reading Freudなど。

当時が過ぎて日の入りは1分単位で遅くなるけど日の出はほぼ変わらない。

今年最後のReading Freudはウルフマンの有名な夢を読み終えた後の「若干の議論」からのスタートだった。第一次世界大戦の影響も考えながらいろんなことを話し合った。とにかく精神分析は隠喩的言語を中心に据えてきたこと、欲動論発であること、セクシュアリティにおける両性性は自明だが、身体性を絡めた途端フロイトの記述が曖昧になること、などなど。精神分析の言語が全て隠喩だとは思わない、あるいは隠喩として捉えた場合、言葉と言葉の「あいだ」の程度によって違いがある、それは病理によってだったり、などなど。今こうしてすごい速さでメモっているがフロイトの頭の中についていくには遅すぎる。

とにかく年内のオフィスでの仕事は終えたので持ち歩きでできる仕事をやらねば。とはいえ年末年始楽しみつつ。仕事がなく「生活」をする方が大変、という人もいると思うが生活の手も休められる時間がもてますように。それぞれのペースが守られますように。

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日曜朝

乾燥がすごい。朝焼けはきれい。

『シカゴ7裁判』を見ていた。ひどいな、この判事。ひどいひどすぎる。すごくムカつく。NHK俳句をみよう。奥坂まやさんが出ている。お久しぶり。生まれてはじめて連れていってもらった句会でご一緒した。こんなすごい俳人だと知ったのはその何年もあと、自分も俳句をはじめてから。厳しくもあたたかいという言葉がぴったりの素敵な大先輩という印象だった。しかし、俳人たちは色々なことを当たり前のように言葉で説明するがこういうことができるから逆に説明句はダメだと言われるのだろうねえ。

若い頃からの友達といろんな話をした。20年、30年と付き合いが伸びていくが話すことはそんなに変わらない。お互いの仕事のこととかはなんとなくしか知らない。つながりからまた新しいつながりが生まれを繰り返して若い世代との出会いもあり本当にいろんな人生があるしこれからもどこまで続くかわからないけれどこれからも色々ある人生があるはず。またみんなで集まれるようになってよかった。

富永京子さんのポッドキャストをききながら書いている。富永さんの言葉はとても聞きやすい。スピードもいい。ものすごい情報量の咀嚼、取り入れの仕方はそれぞれだけどアウトプットの仕方に影響するよねえ、当然。紹介されていた本も読んでみよう。

今日は一日セミナー。すごい資料がきた。やっぱりすごいなあ、と思いながら目を通していた。寝不足が辛いががんばりましょう。

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精神分析

お金大事。

暗い。今週は寒くて寒くて隙間時間にがんばってでかけようという気にもならずずっと難しい本を読んではウトウトしていた。私は驚異の速さで眠りに落ちる脳なのだけど寝ている自分に気づいて自分がびっくりすることがある。もともとは冬眠する動物だったのではないか。稼がなくても今くらいの生活ができるのであれば2月はお休みにしたい。一番寒いから。そう、お金があることがまずは大事なのだ。国は能登に対して逆のことしかしていないと思う。天皇、皇后が3回目の被災地訪問ということで、今回豪雨被災者をお見舞い、と書いてあり、地震と豪雨は分けて対応されていることになるほどと思った。これらが一緒くたにされることはおそらく支援にとって良くないと思っていたから実際にそういう対応をみてどうしたら同じ場所だが別々のものとしてどちらにも支援を続けていくことができるのだろうと考えた。なによりも生活の保障、そしてそれはお金が最も確実なわけでそれが潤沢にないと一度心が折れたと感じた人たちが立ち上がるには相当の無理がいる。表面的に回復したところで何も変わっていなかったりするという理解をする必要がある。というのはうつやひきこもりの患者さんと多く会ってきたからなおさら思う。なんらかの状態で仕事をしていなかった期間が長いと仕事につくことが困難な場合がある。大体の子どもがお金のことを考えずに学校へ行くことができるのは親がそれを保証しているからだ。もちろんそうでない場合もある(そしてそれは政策としてどうにかせねばならない)。私が夜逃げという言葉を知る以前に友達家族が急にいなくなったことがある。もの静かだが勉強も運動もできる子でよく遊んだ。それでも私は何も知らなかった。本当に突然の別れだった。それだけにその子は忘れることのできない友人の一人になった。その子だって自分の身に降りかかることを知らなかったかもしれない。大人は一応なんらかの仕事につくことが普通とされている。お金を稼ぐことを仕事とするならお金がないから仕事をしようというモチベーションでエネルギーのない状態から立ち上がることは相当難易度が高い。私は「実家が太い」とかそういう言い方が嫌いだが、そういう人は働かなくても、と患者さんたちに思う人もいるが経済的な貧しさとか裕福さでいえば裕福な方が安心して休めるしその分、未来のことも考えやすくなる。もちろんそうでない場合もある、なんて当たり前のことも一応もう一度書いておくけど(そういう時代であることが辛い)。基盤がないと動きにくくなるという発想は病気や被災に対しては常に必要だろう。私は職場復帰のリハを直接は行っていないがそれと並行してカウンセリングに来られる方や、不登校の子どもたちも見ていると社会に出るということはどんなことか、もしそれが必要なら何が必要なのか、など色々考えさせらるが結局は「環境」について細かく考えることが行動の指針となるのではないかと思っている。まだ空が暗いがそろそろかな。土曜日は冬至。寒さはこのくらいまでが限界、とか私が思ったところでもっと寒い日々がやってくる。寒さ対策、乾燥対策しっかりして乗り切りましょうね。

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精神分析 舞台

劇団普通『病室』を見たり。

空は真っ暗。昨日の月もきれいだった。だからきっと今日も晴れ。

先日、劇団普通の『病室』を見た。劇団名もいい。ナイロン100℃は昔「劇団健康」という劇団だった。「劇団不健康」という劇団は多分ない。「劇団普通」はなんかイマっぽい。普通、ありふれた、平凡な、などの言葉はかなりそうではない自分を権力から守るための言葉になった。人はそういう言葉に救われる面がある。精神分析ではそういう言葉は大抵なにかをごまかすための言葉となる。「みんなそう」と言われて「みんなって誰」と問われるときの使い方が近い。でもこの劇団の旗揚げは2013年。「普通」が普通に使われていた頃だろう。『病室』だが2019年初演、2021年再演を経ての今回、これまでも好評だったからこその再演だろう。作演の石黒麻衣さんにとっても特別な思い入れのある作品だという。すごいな、と思った。私は俳優の野間口徹さんのツイートを見ていかねばと思い、いった。アフタートークも聞きたかったが今回は難しかった。野間口さんは私にとっては舞台役者なんだけど、というか私が舞台役者だと思っていた人は今やみんなドラマで重要な役をやっているわけだけど、好きな舞台役者の言葉は力がある。実際、いってよかった。自由席の劇を見るのも久しぶりだ。三鷹市芸術文化センター星のホールは好きな劇場だったがもうどのくらいぶりだろう。ホールから近い三鷹八幡大神社のお祭りに行って以来か。それだっていつのことだか。コロナ以前に演劇に行く時間はなくなっていたが、絶対に行きたい舞台というのはがんばってとっていた。最高に楽しみにしていたKERAの『桜の園』が全公演中止になったのが2020年4月。その舞台は今キャストを変えて公演中。今回は抽選で全て外れてしまった。それで演劇熱をどうにかせねばと思っていたわけでもないが行けばまた色々見たくなるものだ。中島らもが生きていた頃にもきた。死んでもう20年になる。中島らもとわかぎえふが立ち上げた「リリパットアーミー」の舞台を思い浮かべているがあれが星のホールだったような気がする。三鷹自体は大学時代に自閉症の人たちと活動するボランティアやバイトでしょっちゅうきていたし、太宰治ゆかりの場所として今も訪れるので身近だが演劇を見まくっていた日々はだいぶ遠くなった。劇場も随分減ったような気がする。青山円形劇場が閉じてからだってもう10年近く経つ。新宿コマ劇場の地下にあったシアターアプルが閉じたのは2008年。よく通った劇場だった。コマ劇場も誰かにチケットをもらってコロッケの講演を見にいったことがある。それはともかく「劇団普通」の『病室』。茨城弁で繰り広げられる病室での日常、そこでの会話が非常にリアル。会話自体がリアルというより、会話の一番微妙で気になったり積み重なって重みをましていく部分をよくここまで言語化し、この矛盾する情緒を演じられる役者が揃っていることに感動。はじまりのほうで「うん?」となって「これ、脚本になってるってことだよね」と当たり前のことを脳内で確認した。間とかテンポとか方言がもつ独特のリズムとか、こういう状況で生じがちなあれこれとかその背景で生じがちなこととか、あ、ここで笑えてしまった、ここでこんな気持ちになるとは、とかいう自分の感覚が本当に普通だった。同時に、嘘っぽいやりとりもいかに普通かということも感じた。自分なんて曖昧なものは出来事に委ねている方が楽しいが大抵は何かに囚われているわけで病室のような相手を気遣う状況では自分の変なパターンがでがちだと思う。それは自分では気づけない類のパターンでそれに対する相手の反応もまたよく分かるしそれを受けてのあちらのパターンも、とどこを見ても自分のこととして痛かったり苦しかったりする。一方で、三者以上の人がいる場でのコミュニケーションはズレを意外な方に導くものも生じるし、関係を積み重なることで知る一番身近な人の気持ちもある。予定調和を日常に感じるのであればそれは結構大変なことだ。「いつもこう」吐き捨てたくなる日常も苦しい。ただ、自分に変化を求めることこそが最も苦しいことであるのはこの仕事をしていると本当にそうと思わざるを得ない。自分より他人である相手に変わることを求めるか、事実ではなく印象で被害的になることで対話を拒むか、自分を普通として相手を普通じゃないとすることでよしとするか、自分が変わるくらいだったら現状維持の方がマシ、ということもある。「それ本当にそう思ってる?」と現状に問いを投げるのが精神分析の仕事の一つでもあるのでそういうことを必要と感じない人には本当に必要ない技法なんだと思う。こういう技法があるだけで腹が立つ人もいそう、というか知らないのにやたら色々言われることもあるけど、こんな技法知らない人の方がずっとずっと多いことを私は知っているので気にしてもらえることは貴重だろう。大体の人は「良かれと思って」やることの方が「なんで自分こんなことしてるんだろう」という問いに先立つし、良かれと思ってやっていることで状況が良くなるのであればそれはいいことだ。精神分析はあまり良かれと思って提供するものではなく、大変だけど、というのが前提。精神分析は目的のないわからない状態に居続けることに価値を置いているから欲しいものは出てこないけど、本当は欲しくないのに欲しいと言ってしまう自分とか嘘っぽいことはきちんと嘘っぽいと分かるようになるのでできるだけ正直に相手のことを考えていきたいなと思う人にはとてもいいと思う。これは決して「いい人」になるための学問でも治療法でもないし、治療者が時間と場所以外の何かを提供したくなるのであればそれは別の治療法でも十分できることだと思うしそういう安全は大事だと思う。SNS的正しさが振りかざされる時代にはそういう方面からのケアは絶対に必要だ。一方、精神分析はSNS的邪悪さを自分の中に見出しつつどう生きたいかを模索する治療なのでまた別。毎日精神分析のことしか考えていないので何に触れてもこういうことばかり考えているが、「病室」でみたリアルには感銘を受けた。無力さは双方にありその出し方の複雑さも誰にでもある。それらを簡単に言葉にせず感じ続けることができるかどうか、そしてそれは大抵はできないがその現実を踏まえてもなお別の自分を引き出せるかどうか、そうしたくなる相手を持てるかどうか。迎合的になるのも陰で悪口言うのも大抵の人にとって正しそうなあり方を主張するのも簡単だがそれに時間をさき結局ため息をついているならなんかほかにと思ったり、いやいやこういう時間にこそ意味があると思ったり色々なんだとにかく、日常は。病室は。だらだら書いているうちに朝焼けが始まった。部屋はすっかり暖かい。今日はグループ三つ。がんばろう。

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神戸のお菓子、習慣化

今日も良いお天気になりそう。夜の雲が引いていっている。最近、毎晩、月がくっきりきれいだって知っていました?今朝はみかんをのんびり食べてぼんやりしていたらいつもより遅くなってしまった。先日会った神戸の友人からもらったクリスマスのクッキーをいただくためにコーヒーを入れてようやくPCの前に座った。嬉しいなあ、地元の洋菓子屋さん。おお、これベリーのジャムが入ってる!こんな小さいのに丁寧なお仕事!甘すぎず美味しい。お花みたいな模様に雪みたいな粉砂糖がすこーしかかってる。そういえば富士山の冠雪が今年は遅かったですよね。11月初めに名古屋へ行ったとき、新幹線の中から富士山を見てびっくりした。すっかり雪景色を想像していたから。実際は私が新幹線に乗る二日前とかに例年より一ヶ月以上遅い冠雪が発表されていたのだけどそうは見えなかった。

気候が変わっていくことは世界のあらゆる変化に繋がっていることは実感している。そこで私がずっとテーマにしている習慣とは何か、習慣化とは、ということを考えていたわけだが次から次へ難しい事柄が出てきて考えが全く進んでいない。國分功一郎さんの「中動態の世界」を読んだりイベントに行ったりしてからですかね。もう何年経つのかしら。精神分析って習慣化をどう考えるかで技法が変わってくると思うのですよ。組織化、構造化をどう考えるかという。脱構築は治療としての精神分析では言わないけど脱錯覚とか「脱」の方に行く以前に、再構築とか「再」の方にいく以前にさ、と。反復による習慣化があるだろう、と。精神分析に時間とお金をかけることはそれぞれの習慣形成とそこからの変化をためし続ける、ジャンプし続けることで、それは相当に贅沢なものなのだけどそういうことにお金と時間をかけるモチベーションを持てる時代ではない。週2回は来られても週4回となると、と躊躇する人は多い。金額でいえば、私の場合は、週2回と週4回は1週間で4000円違う。一ヶ月で1万6千違う。この差も大きい。贅沢だと思う。なので私もガンバラねばな。今週はいいものにたくさん出会ったし。皆さんもどうぞ良い1日を。

(この「贅沢」は國分さんのいう「贅沢」)

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ウィニコット理論、無形性、抽象性

暗い。早い時間から暖房をつけていたから部屋が暖かくて幸せ。今朝はコーヒーを飲もうかな。バームクーヘンがあるから。淹れた。バームクーヘン美味しい。1日があっという間に終わってしまう。やるべきことも進んでいないがあまり焦りもない。無意識まかせ。その中身について考えていないわけではないからアウトプットは一気にできるかなあ、と思う。できたらいい。

少し前にアンドレ・グリーンを読んでいてウィニコット理論をトラウマ理論として読めることに気づいたのでその線で考えていた。少し前といってももう三ヶ月くらい前かも。昨日、おすすめした埼玉県立近代美術館でやっている木下佳通代展で思い出したといってもいい。発表しようと思っていたにもかかわらず忘れていた。昨日の始業前はイマニュエル・ウィルキンスをじっくり聞きながらインタビューを読むのに時間を費やしてしまった。それをしていたことを忘れないようにツイートしておこう。Twitterはメモにちょうどいい。昨日は打越正行さんの「ヤンキーと地元」がトレンド入りしていていろんな人のツイートをたくさん見た。本を読むだけでもその魅力はすごくわかるけど実際にお話ししてみたかった人だったし、お会いしようと思えばできただろうからなおさら悲しい。学生さんたち、打越さんに教えてもらえて本当によかったと思う。生きるのに大切なことをきっとたくさん見せてもらえたのだろう。羨ましい。イマニュエル・ウィルキンスは聞き始めたら「やっぱりいいなあ」と思ってインタビューを読み始めたら「あ、これブログでこの前引用したやつだ」となり再読した。柳樂さんの記事に登場する黒人のミュージシャンたちはどの人も黒人の歴史とか経験とか教育とかについてものすごく深く考えていて語彙も豊富なので誰のインタビューだったか忘れてしまうことがある。サンファとかジョン・バティステとかはそれにもまして独特の魅力があるからあまり忘れないのだけど。あと女性ミュージシャンはまた個別の経験が独特なので覚えていられる。とかいってまた忘れるかもだけど。無形性と抽象性、あと偶然性を大切にするイマニュエルと木下佳通代の作品は私の中で重なる。木下佳通代はほとんど情緒を見せないでものの認識と存在の表現形態を模索した人のように思ったからそこから音楽が聞こえてくるかんじはしないけどどこか拙い感じとか緊張感がとんがっていない感じとかはこういう表現はあまりよくないが当時、抽象画を書いていた女性たちに共通するもののような気がした。つまり男性社会との関係で自分を表現するときにどこか似たような力が発揮されるのではないかと私は思うということ。このテーマも発表材料ではあるので忘れないようにせねば。

Twitterのみならずここもメモ書きの場にしているな。バックアップの取り方がよくわからないし、ここは無料だからいつ消えちゃうかわからないけど短期記憶の場として使っていこう。どうぞ良い1日を。

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和菓子、ジョン・バティステに学ぶ初回面接

まだ暗いけど東の空に雲がたなびいている。今朝は両口屋是清の秋の棹菓子「ささらがた 柿」。熱いお茶と。冬の朝に小さい和菓子は合いますね。

12月ももう10日になってしまいました。書評を引き受けてしまった本を読まねば。あまり読まずに書く能力はないから精読しましょう。読まずに書ける人は本というものがどんなものかということをいろんな水準でわかっているのでできるわけだけど私はただ読むのが好きというだけで読書という行為や本というものに関してはあまりなにも考えていないのでそういうことできないのよね。面接場面で人はこういうときにこうなりがちというのは経験も積み重ねてきてるし理論化も試みて学会発表してるし教える立場だから人よりはわかる。ひとつあげれば「人ってなりたくない人と同じことをする」ということ。悪口を言ったり信頼していない相手のことを語りながら自分も同じことしている。この前の初回面接の検討会でそういうことも話した。そして初回面接では一回で「ここで」「自分が」提供できるものを見立てとともに提示する必要があるあるのである程度のスピードがいるという話もした。それはどうすればいいんですか、という類のものではない。

柳樂光隆さんがジョン・バティステへのインタビューでこんな言葉を拾っている。

「ベートーヴェンを筆頭に多くの偉大な作曲家たちが、実は瞬時(spontenous)に作曲をしていたことに初めて気づいたんだ。彼らはいわば即興演奏家。現代のジャズ・ミュージシャンと一緒で、彼らはその場で音楽を生み出していた。でも、それを「即興」と呼ぶのはちょっと違う気がして……。だって即興なら誰でもできるけど、彼らは学んだことや経験のすべてをその瞬間の作曲(spontaneous composition)に込めていた。もしベートーヴェンが今の時代に音楽を演奏したら、毎回同じ演奏にはならなかったと思う。彼も音楽も演奏するたびに進化しただろう」

と。

「学んだことや経験のすべてをその瞬間の作曲(spontaneous composition)に込め」る。初回面接で言葉を使うってこういうことだと私は思う。

あと相手の変化だけでなく自分もその相手となら変化していけると感じられるかどうかも大事。信頼や希望をもてないところに変化は訪れない。が、たいていの人は自分は変わりたくない、変わる必要があるのは向こうだ、という発想なので色々難しいわけだ。何に時間を割くべきかはこういうことを考えながら言葉にしていくものでもある。

どうぞ良い一日をお過ごしください。