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精神分析 読書

天気、眠気、時間

静かな朝。昨晩は風が吹き荒れていたがどこか別の場所に移動したのだろう、とネットのウェザーニュースを見たら北海道に上陸?大丈夫だろうか。北海道上陸は2016年8月以来とのこと。被害が出ませんように。東京の昨日、私は朝少し雨に降られたが大したことはなくて安心した。東京みたいに狭い場所でもそれぞれ体験した空模様が時間によって全然違うだろうな、と思いながら過ごしていた。オフィス周りは風も不安定で空は晴れたり曇ったりだった。遠くには触りたくなる入道雲がもくもくと重なっていた。もっと近づきたかった。

それにしても毎日眠くて仕方ない。春なのか、と思うくらい眠いが、気づけばどの季節にも眠くて眠くてという日はたくさんある。朝、起きてしまわなければいいのだが、夜帰ってきたらもう何もしたくないので早朝に色々済ませておく必要がある。体調にあった生活、なんてものを一生懸命考える年齢になってしまった。周りの知恵をいただきつつ自分の生活を見直しつつというのはなんだか漢方の処方みたい。薬草園などにいくと生活の知恵というのはすごいものだなと思う。草木は毒にも薬にもなる。そういう発見を自分の身体でしてきた人たちはすごい。コロナが少し治まった頃、奈良県宇陀市大宇陀にある森野旧薬園へ行った。吉野葛で有名な小石川植物園と並ぶ日本最古の薬草園。いかにも日本最古という感じで街並みも素敵だった。そこの小さな資料館みたいなところで漢方の歴史が学べて大層面白かったのだが、今正確な情報がないからそれについて書きたいけど書けない。曖昧な記憶をクリアーにする漢方なんてないかな。

辻村深月の『この夏の星を見る』(角川文庫)を読み始めた。これも映画化されるらしい。コロナ禍の中高生が星を通じて交流するお話なんだろうな、ということは読み始めてすぐにわかる。当時の彼らを思うと今も胸がギュッと痛む。顔を顰めて読んでいたらしく「コロナだから?」と言われた。うん。大変だった。書き残すって本当に大切なこと。

アンドレ・グリーンのAprès-coup論文の内容は早くも忘れつつあるが、考えたいことの種はもらった。それは「時間」。無意識の無時間性をいう場合も含めて、精神分析が時間というものをどう考えてきたか。私たちが「今ここ」と使う場合のそれって何か、解像度を上げないと精神分析実践で生じていることが捉えられない、と思い、ベルクソンを開いた。正確には平井靖史さんが書いたベルクソン入門を開いた。これはとても明快な専門書。売れるわけだ。学問するならこうありたい。

世界は時間でできている──ベルクソン時間哲学入門

この本と連動している動画も見つけた。

23 June 29 平井靖史 (日本語)「クオリアを時間で作る ー ベルクソンのマルチ時間スケール戦略」

こういうのも無料で見られるのだからいい時代といえばいい時代。学問を大切にしない政治家を選んではいけないなと思う。普通に考えて奥行きのある思考ができない人にお金のこともお米(日々の糧)のことも任せてはいけないのでよく考えて投票しよう。どうぞご安全に。良いことあるといいね。

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精神分析 精神分析、本

小寺学際的WS(ゲスト:平井靖史、小倉拓也)

10月9日は小寺記念精神分析研究財団が毎年開いている学際的ワークショップ『精神分析の知のリンクにむけて』 だった。今年度のゲストはベルクソン研究者の平井靖史さんとドゥルーズ研究者の小倉拓也さん。第八回のテーマは「心、身体、時間」。討論と司会は精神分析家の十川幸司先生、藤山直樹先生。

最初に今回の議論の基盤となりうる先生方の本をご紹介。藤山先生のだけ2003年出版で時間が経っているようだけど精神分析の実践に関心をお持ちの方には真っ先に読んでいただきたい一冊。今回の議論でいえば平井さんの時間論に対して精神分析は空間というものをどう考えているかを示すときの一例となる。

平井靖史『世界は時間でできている-ベルクソン時間哲学入門-

小倉拓也『カオスに抗する闘い-ドゥルーズ・精神分析・現象学』(人文書院)

十川幸司『フロイディアン・ステップ 分析家の誕生』(みすず書房)

藤山直樹『精神分析という営み 生きた空間をもとめて』(岩崎学術出版社)

2022年はベルクソン・イヤーと言われるほどアンリ・ベルクソンに関する出版物が相次いだ。私もフロイトと同時代を生き、多くの類似点を持つベルクソンには以前から興味があり、昨年の盛り上がりのおかげでようやく門前に立つことができ福岡の「本のあるところajiro」でおこなれた連続トークイベントを視聴したりした。大変面白かった。羨ましいほどの盛り上がりだった。今回は精神分析と人文知の対話を試みる「学際的ワークショップ」だったのだが、平井さんは早くからベルクソンを意識研究や脳科学など他領域の研究とつなぎより大きな問題を考える基盤となりうる国際的な協働ネットワークを構築してきた人だ。その成果は平井さんがリーダーをされているPBJ(Project Bergson in Japan)のサイトが参考になると思う。それを知ったとき、本当にすごいな、と思って無料で入れる関連のオンラインカンファレンス的なものに入ってみたことがあったが使用言語がフランス語だったのでそっと退室した。なので今回は「学際的」であることを考えるためにもチャンスではないか、しかも自分のホームならば、とはじめてワークショップに参加してみた。

当日、セミナー直前に送られてきた資料を見てちょっとのけぞった。これは大変だ、と思った。「逆円錐のテンセグリティ・ダイナミクス」???テンセグリティ?平井さんは精神分析臨床を営む私たちとの対話を本当に望んでいてくださっていたようで最初にご自身で「ガチでいこうと思った」というようなことをおっしゃっていた。まさにそういう講義で大変刺激的だった。

ドゥルーズを主に研究されている小倉拓也さんは書名に「精神分析」とあるように私にとってベルクソンよりは身近なのではと感じてはいたが、私が主に國分功一郎さんの講義で学んできたドゥルーズとは異なる論点がたくさんあってビビっていた。でもSNSで時折あがる講演記録や資料は興味深かったし、なにより旅好きとしては秋田県内情報に惹かれた。小倉さんは秋田大学教育文化学部の准教授として哲学、思想史をご専門に講義をされているのだ。日本全国を回ってきたが秋田で寒さに泣き不機嫌になり幻の日本酒に救われたことは忘れない。まだ旅慣れてもいなかった。雪の角館で寝っ転がったりして遊び惚けて電車に乗り遅れたことも忘れたいが忘れない。その実践がどこで行われたか、ということはとても大切だと私は思う。精神分析でいえばフロイトとの物理的な距離とかもその後の研究の発展に関わっているに違いない。遠くにいるほうが自由にできるというのは大きい。小倉さんは舞台俳優のような滑舌のよさで率直で明快にドゥルーズにおける精神分析批判を期間限定のプロジェクトと位置付け、精神分析の対象として今後も議論が広がるであろう「自閉症」「認知症」をどう理解していくことができるかという話をしてくださった。ドゥルーズがマルディネのリズムの哲学を援用し(十川先生もマルディネを援用している)展開した「リトルネロ」論はやはりなじみやすかった。ただそのあとドゥルーズとガタリがリトルネロによって構成された領土を「我が家」といったみたいな(うろ覚え)話は!?!?となった。なんで「家」という発想がそこにくるの?みたいなかんじで。

お二人の講義はわかりやすく教えるものではなく徹底して対話を促してくれるものだったと思う。知識がなくても対話って可能なんだ、と知ってはいたがこんな難しいことが目の前に広げられていても色々考えてものっていえるんだ、と発言してから思った。なぜか発言したあとにめちゃくちゃ緊張して震えがきた。多分、私は結構なインパクトをお二人のお話から受けていた。自分が何を言ったかすでにあまり覚えていないのだがそういう実感が今後の咀嚼と消化を助けてくれるだろうと思う。

内容についてほぼ書いていないが(時間をかけないと書けない)それはお二人のご著書をぜひ。