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概念の使用、主体、言語の問題へ

眠い。大阪で買ったお花柄のクッキーをコーヒーといただいた。が、まだ眠い。

先だって、概念の歴史性と、実践による要素の吟味と更新の重要性をその例とともに述べた。

精神分析の「基礎概念」について考えるとき、最初に思い出されるのは「欲動と欲動の運命」(1915)の冒頭だろう。この箇所は、講談社学術文庫版のフロイト著、十川幸司訳の『メタサイコロジー論』の訳者解説187頁あたりで丁寧に説明されているので一読されることをおすすめしたい。

十川は、フロイト「欲動と欲動の運命」の冒頭の「この抽象的な観念は、新しい経験だけから導かれたものではなく、経験の外部から持ち込まれたものである。素材をさらに加工していく際に、抽象的な観念はますます不可欠なものとなり、それがのちに科学の基本概念となる」の箇所をもっと長く引用する。

十川は、フロイトのここでの記述を精神分析概念の固有性を示すものとし、よりわかりやすい説明を加える。

「最初にあるのは臨床経験の記述であり、それを相互に関係づけながら概念を構築しているのである。だが、新しい経験を記述する際に適切な概念の持ち合わせがない場合は、生物学や哲学のような臨床経験の外部から抽象的な観念を借りてくるほかない。」


ここまではそれはそうだな、と思うと思う。しかしそのあとに続く文章はどうだろう。

「このプロセスを考える上で重要なのは、その観念自体は臨床経験の外部に位置しているのではなく、経験の内部を規定し、もはや経験と不可分なものになっている、という事実である。フロイトが「経験素材のほうが抽象観念に基づいている」と言うのは、そういう意味である。」


臨床経験と観念の相互関係の複雑さを感じないだろうか。私たちが試みているのはこの部分である。


さらにややこしいことに、概念は、今ここの臨床経験に名前を与えるだけではない。ひとたび概念をもてば、私たちは、それまでとは違った仕方で経験を言葉にすることになるだろう。

たとえば「転移」という概念を知らずに患者の言葉を聞くことと、それを知ったうえで聞くこととは、同じ経験ではない。

だからこそ、精神分析経験との関係において概念を形成することは、同時に、精神分析家が臨床で何を経験しうるのか、その条件そのものを吟味する必要性を生じさせるのである。その両方向の作業がなければ、概念は、言葉のイメージや使う側の事情によって歴史性をはぎとられ、いつのまにか意味が反転する可能性さえあるだろう。そこには概念を使用して経験を語る「私」が登場するからである。

すると新たに問題にせねばならないことがでてくる。その「私」はどこからそれを語っているのだろうか。

たとえば「転移」という概念を用いれば、患者が分析家の休暇に対して示した反応を単に不満や不安としてだけでなく、それがどこから生じたのか、患者の過去の対象関係との反復、分析家との今ここの関係、分析設定への反応などをもとに認識し、考察しようとするだろう。このように、概念を用いることで状況を多様に認識し、考察することが可能になったとしよう。

それでは、その概念を用いて患者の経験を語っている「私」はどこにいるのだろう。その「私」は、自分の言葉や実践の外側に立ち始めてはいないだろうか。単に、患者を観察する者になってはいないだろうか。私がここ数日書いてきたのは、こうして概念と実践が少しずつ乖離していくことを、自分自身に対しても危惧しているからである。

私がこうしたことを考えるときに参照するのはフーコーである。まだ実家にいた頃、親の本棚にはグレーっぽい表紙の神谷美恵子著作集が並んでいて、私はフーコーをそこで知った。現在はみすず書房から新装版が出ているが、私の本棚には、出会った頃と同じ表紙の著作集が並んでいる。

理論と実践はこうして主体の問題へとつながるわけである。そしてそれは同時に言語の問題でもある、と考えるのが精神分析の特徴だろう。フロイトもラカンも土居健郎も、治療における言語を重視した。そして、人が語ることと、その人自身が語っているつもりのこととのあいだに生じるずれを、それぞれの仕方で示した。

ということを書いていたら、フーコーの『言葉と物』でラプランシュが参照している部分を読みふけってしまい時間がなくなった。続きはまた今度。

台風の進路はどうなっているのか。連休が雨なんて、とも思うが、連休でよかった、とも思う。ただお祭りや学園祭が多い日曜でもあるので、準備したものが存分に生かされないとしたらそれは残念だろう。ネガティブをポジティブに変えるのは言葉だけではないだろうから、それぞれにとってよい休日であるようにと願う。

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小寺学際的WS(ゲスト:平井靖史、小倉拓也)

10月9日は小寺記念精神分析研究財団が毎年開いている学際的ワークショップ『精神分析の知のリンクにむけて』 だった。今年度のゲストはベルクソン研究者の平井靖史さんとドゥルーズ研究者の小倉拓也さん。第八回のテーマは「心、身体、時間」。討論と司会は精神分析家の十川幸司先生、藤山直樹先生。

最初に今回の議論の基盤となりうる先生方の本をご紹介。藤山先生のだけ2003年出版で時間が経っているようだけど精神分析の実践に関心をお持ちの方には真っ先に読んでいただきたい一冊。今回の議論でいえば平井さんの時間論に対して精神分析は空間というものをどう考えているかを示すときの一例となる。

平井靖史『世界は時間でできている-ベルクソン時間哲学入門-』

小倉拓也『カオスに抗する闘い-ドゥルーズ・精神分析・現象学』(人文書院)

十川幸司『フロイディアン・ステップ 分析家の誕生』(みすず書房)

藤山直樹『精神分析という営み 生きた空間をもとめて』(岩崎学術出版社)

2022年はベルクソン・イヤーと言われるほどアンリ・ベルクソンに関する出版物が相次いだ。私もフロイトと同時代を生き、多くの類似点を持つベルクソンには以前から興味があり、昨年の盛り上がりのおかげでようやく門前に立つことができ福岡の「本のあるところajiro」でおこなれた連続トークイベントを視聴したりした。大変面白かった。羨ましいほどの盛り上がりだった。今回は精神分析と人文知の対話を試みる「学際的ワークショップ」だったのだが、平井さんは早くからベルクソンを意識研究や脳科学など他領域の研究とつなぎより大きな問題を考える基盤となりうる国際的な協働ネットワークを構築してきた人だ。その成果は平井さんがリーダーをされているPBJ(Project Bergson in Japan)のサイトが参考になると思う。それを知ったとき、本当にすごいな、と思って無料で入れる関連のオンラインカンファレンス的なものに入ってみたことがあったが使用言語がフランス語だったのでそっと退室した。なので今回は「学際的」であることを考えるためにもチャンスではないか、しかも自分のホームならば、とはじめてワークショップに参加してみた。

当日、セミナー直前に送られてきた資料を見てちょっとのけぞった。これは大変だ、と思った。「逆円錐のテンセグリティ・ダイナミクス」???テンセグリティ?平井さんは精神分析臨床を営む私たちとの対話を本当に望んでいてくださっていたようで最初にご自身で「ガチでいこうと思った」というようなことをおっしゃっていた。まさにそういう講義で大変刺激的だった。

ドゥルーズを主に研究されている小倉拓也さんは書名に「精神分析」とあるように私にとってベルクソンよりは身近なのではと感じてはいたが、私が主に國分功一郎さんの講義で学んできたドゥルーズとは異なる論点がたくさんあってビビっていた。でもSNSで時折あがる講演記録や資料は興味深かったし、なにより旅好きとしては秋田県内情報に惹かれた。小倉さんは秋田大学教育文化学部の准教授として哲学、思想史をご専門に講義をされているのだ。日本全国を回ってきたが秋田で寒さに泣き不機嫌になり幻の日本酒に救われたことは忘れない。まだ旅慣れてもいなかった。雪の角館で寝っ転がったりして遊び惚けて電車に乗り遅れたことも忘れたいが忘れない。その実践がどこで行われたか、ということはとても大切だと私は思う。精神分析でいえばフロイトとの物理的な距離とかもその後の研究の発展に関わっているに違いない。遠くにいるほうが自由にできるというのは大きい。小倉さんは舞台俳優のような滑舌のよさで率直で明快にドゥルーズにおける精神分析批判を期間限定のプロジェクトと位置付け、精神分析の対象として今後も議論が広がるであろう「自閉症」「認知症」をどう理解していくことができるかという話をしてくださった。ドゥルーズがマルディネのリズムの哲学を援用し(十川先生もマルディネを援用している)展開した「リトルネロ」論はやはりなじみやすかった。ただそのあとドゥルーズとガタリがリトルネロによって構成された領土を「我が家」といったみたいな(うろ覚え)話は!?!?となった。なんで「家」という発想がそこにくるの?みたいなかんじで。

お二人の講義はわかりやすく教えるものではなく徹底して対話を促してくれるものだったと思う。知識がなくても対話って可能なんだ、と知ってはいたがこんな難しいことが目の前に広げられていても色々考えてものっていえるんだ、と発言してから思った。なぜか発言したあとにめちゃくちゃ緊張して震えがきた。多分、私は結構なインパクトをお二人のお話から受けていた。自分が何を言ったかすでにあまり覚えていないのだがそういう実感が今後の咀嚼と消化を助けてくれるだろうと思う。

内容についてほぼ書いていないが(時間をかけないと書けない)それはお二人のご著書をぜひ。

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ウェブサイト更新とかフロイト読書会番外編とか

年末年始は東京よりも日の出が30分遅い土地にいたので朝になるといちいち「東京は早いなあ」と思うようになった。旅に出ると早朝から散歩にでるのが習慣だが今回は街灯も少なく真っ暗。それでも白い小さなお花をたくさんつけた木が雪みたいに明るかったのが不思議だった。

今朝は久しぶりにオフィスのウェブサイトを整えた。整えただけで特に記事を足したりはしていない。ここはただの雑文だからもう少し専門的なことをもうひとつのブログに書いてウェブサイトにリンクを貼りたい、と前から思っているけどやっていない。オフィスのウェブサイトは記事の量に制限があってひとつの記事が長い分にはいいらしいのだが、一つのカテゴリーに10個とか制限があるらしくすでに結構使ってしまっているのだ。でもそれも結構前に確認したことだから今は変わってたりするのかな。みてみよう。

ツイートもしたが、昨晩は毎週実施されているフロイト読書会番外編ということで私企画の輪読会を行った。私は普段はアドバイザーとして招かれているだけなので基本的には参加者のみなさんのやりとりを見守ってなにか聞かれればなにか言うみたいな感じなのだが読書会のしかたで迷いもあるとのことだったので私がオフィスでReading Freudと称して行っているフロイト読書会の方法を紹介がてらやってみた。といってもひとりずつ順番に1パラグラフずつ読んでいき、内容の区切れるところで議論をしてまた読み進めるというシンプルな方法で、今回はフロイトが第一次世界大戦中の1915年に書いたメタサイコロジー論文の中から「欲動と欲動の運命」を取り上げた。2時間で読むにはちょうどいいかなと思ったら議論の時間を含め本当にちょうどよかった。よかった。今回は岩波の全集ではなく十川幸司訳『メタサイコロジー論』(2018,講談社学術文庫)を使用した。フロイトのメタサイコロジー論文を読むならこれが一番いいと思う。文庫だし電子版もある。

ツイートしたが参考文献はこちら。

欲動というのは精神分析が想定する身体内部から生じてくる本来的な原動力のことである。なんのこっちゃという感じかもしれないが、フロイトは本論文でこの概念を基礎づけることで内部と外部、主体と対象、快と不快、愛と憎しみなど対極的なものを力動的、立体的に捉えようとしている。自己へと回帰する欲動の動きを言語的な枠組みを用いて描写するしかたはダイナミックで楽しい。途中なんで突然これ持ち出すのみたいに思った部分もあったがそれはフロイトが死ぬまでわからないと言い続けた事柄でもあるから錯綜するフロイトとともに読み続けることが大切なのだろう。この形での読書会はそれなりによかったようなのでよかった。継続の希望もあるようだけど時間がとれるだろうか。細々とやれればいいか。

一生懸命、真剣に大切にしてきたものを思いもかけない形で失ったことはあるだろうか。たぶんあるだろう。語りえないものとして残るであろう穴とも傷ともいえるその喪失をめぐって精神分析は独特の言葉の使用の場を提供してきた。精神分析はなんでもセックスと結び付けてなにかいう印象があるかもしれないが精神分析におけるセクシュアリティは単なるセックスよりもずっと広い対象をカバーしている。病理をいわゆる正常と地続きのものとして捉える精神分析の大きな特徴も今回の読書会で確認した。快だけを取り入れ不快なものは外へ、という今回読んだ論文にも記述されているあり方をいくら繰り返しても逃れることができない欲動とともに私たちはどうにかこうにかやっているらしい。死にたい。そんなことを時々つぶやきながら今日もなんとか。