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『性分化疾患(DSD)の子どもをもつご家庭へ』『「回復」という毒』『はじめてのベルクソン』

毎日雨。日差しがないと痒くならないからそれは嬉しい。肌がどんどん刺激に弱くなっていく。

これまでも、今も小さな子からかなり年上の方まで色々な人の色々の心と身体に出会ってきた。病名はどちらかだけのものであっても心と身体が切り離されることはない。離人感や解離があったとしてもである。

今週は性分化疾患(DSD)の当事者である公認心理師のみつばさんの「性分化疾患(DSD)の子どもをもつご家庭へ 診断から将来設計まで寄り添うためのガイド」を読んで、周りにもおすすめした。疾患について知るのは、その対応について知ることとセットだと思う。自分の身体、自分の子ども、パートナー、きょうだい、など身近な人の身体に対してどうしたらいいかわからない心をその時点でのもっとも正確な情報にもとづいて整理しつつ、共有することの大切さ。それがどれだけ難しいかも含めて。身体とこころをファンタジーではなく、現実として抱えていくために、わからなさとどう生きるかも含めて、診断を受ける側もする側もたくさんのことを考える必要がある。そしてこれもDSDに限らないが、現実的に時間をかける必要がある状況で影響をうける人たちにも心を寄せる必要がある。とくにきょうだいは、「きょうだいなんだから」という理由で我慢がふえることもあるかもしれない。疾患や障害に対してみんなのこととして考えるためにこういう本はとても助けになる。

最近、出たばかりの風間暁『「回復」という毒――支援に埋め込まれた構造的暴力』(日本評論社)も読んだ。これも当事者としての経験をもちながら現場に関わる人の本だ。

どちらも言葉がもつ影響力を重みをもって伝えてくれる本だった。大変勉強になったし、励まされた。

先週は平井靖史さんの『はじめてのベルクソン』にはまっていた気がするが、一週間があまりに早いので、過ぎたことはどんどんどこかへいってしまう。今回の平井さんの本は、かなり読みやすいが、かなり難しい。楽しくも読めるが、すごく腑に落ちたとか、これってこういうことだったんだ、という本ではなく、思考の場にどんとご招待、という感じで、大広間でキョロキョロするジブリの脇役になった気分でもある。ベルクソンが述べたことを平井さんはこれを書き、読ませることで実践しているし、実践させている。宿題が増えたな、と感じたが、多くの患者さんとの間で生まれた宿題に長い間、取り組み続けている私にとっては支えにもなる。それらは単に失敗の徴ではないし、失敗とかいう一者的な言葉を使うのも憚られる。結局、なにかし続けるには支えが必要ということだろう。肌も身体も心も記憶もなにかを受け取るための容器ではない。受け取れば変形し、変われば受け取り方も変わる。現在の経験によって過去の布置もまた変わる。

「一つひとつの出来事が、それを受け取る側のかたちそのものを変えてしまう。」ーー平井靖史『はじめてのベルクソン』

これは精神分析過程にもそのまま当てはまる。精神分析で重要なのは、現在を因果関係の線に乗せないことだ。

「感受性の地形そのものが、経験とともに刻々と変わり続けている」(平井)

精神分析は経験が生じる場である。

「感覚を受け取ってから行動に移るまでのあいだに、遅延が差し挟まれる。その遅延のなかで、生物はいわば記憶の中をまさぐり始めます。」(平井)

この場合の「遅延」はウィニコットが述べた再早期の乳児の時間間隔のように、ほぼ一瞬だと思う。それでもそこには「あいだ」が生じる。

「結果が保証されない探索が、完了した反復の流れに「未完了」の時間をこじ開けるのです。」(平井)

自由連想をする身体はその時間性に伴う。身体と心は切り離せない、と最初にも書いた。内と外という空間の意味にも意識的でありたい。

患者が「いま・ここ」の現実とぎりぎりの接点を保つために分析家は身体も心も使う。双方が「遅延」の豊かさに開かれること。

「生への注意 attention à la vie」という言葉もまた魅力的だ。この本もまた私の経験を広げようとしてくれている。すっかり目が悪くなって本を読むのが大変だけどこれもできる範囲と限定的なことをいいつつその可能性に目をむけるとする。

東京は結構強い雨。風がでないといいな。みなさんもどうぞお元気で。よい週末をお過ごしください。

新宿中央公園
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精読の醍醐味

と、まあ、なんと時間のないことよ。とりあえず書くけど。

土居が『精神療法と精神分析』で述べたこと、特にここまで私が引用してきたことは、その16年後の1977年の『方法としての面接』にほとんど書いてある。「劇としての面接」という章立てもある。これはこれで土居が臨床経験を積み、精神療法を教える立場になり、大学紛争を経て、より広い意味での診断的考察や精神科臨床の基本に関する本を記す必要性のもと書かれた本であり、臨床家がまず読むとしたらこちらだろう。

しかし、精読の醍醐味である、著者の思考への同一化を味わいたいなら『精神療法と精神分析』のほうが断然面白い。ここにはまだ「方法」になりきっていない土居の思考の動きの痕跡がはっきり残っている。1990年代になると土居の文章は雰囲気はそのままだが、もっとすっきりしてしまう。

平井靖史は『はじめてのベルクソン』で以下のように述べる。

‟歴史にも同じ構造があります。「あの事件が時代の転換点だった」という語りは、その後の展開を知っている者だけが構成できる。明治維新も、後から見れば日本近代化の出発点として語られます。しかし渦中を生きていた当事者には、それが何の始まりなのかは見えていません。何が決定的で何がそうでないかの区別すら存在していなかった。歴史の筋書きは、つねに結末から遡って編まれます。出来事の「意味」がその後の展開に応じて変わり続けるということ自体が、時間の未完了性を示しているのです。”

土居はもう死んでいるのでこれ以上書くことはない。なので、最後の方の著作のほうがすっきり洗練されたことが書いてあるのは当然と言えば当然だが、実はこれはそんなに当然ではない。ベルクソンが『道徳と宗教の二源泉』でみせたような飛躍は土居にはなさそうだ。土居の思考の動きは臨床家ならではだろう。臨床は常に患者とともにある。だから「臨床」なのだが。患者をおいてひとりでどこかへいくことはできない。どこかへいったとしてもまたいつもの時間、いつもの場所に戻ってくる。精神療法は特にそうだ。そうやっていつまでもその基盤を確かめるような作業を繰り返す毎日だからこそ日常語が大事になる。

今日はすごく風が強い。昨日は名古屋の様子を映像でみてびっくりした。電車も大変なことになっていた。どの地域も安全に一日が過ぎるとよいが。どうかお気をつけて。今日もよろしくお願いします。

初台もお祭りかな。
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土居健郎『精神療法と精神分析』続きとちょっとベルクソン

土居健郎は『精神療法と精神分析』(1961、金子書房)の最初から、精神療法を劇にたとえていた。治療の開始において「あなたには精神療法が適当である」と言われた患者は、舞台にあがることを誘われた観客ということになるだろうか。そのように言われた患者の心の中に生じる様々な思惑、それをとりあげるのが「探りあい」にひきつづく段階である。


土居は、ここで、いくつかの受けとり方を例示しながら、その対処について述べる。土居は、まず理論の記述をして、症例を素材として提示する、という方法はとらない。この本は、高度に専門家向けの内容ながら、多くの人が経験している、あるいは想像しうる精神療法の診察場面の実際が「こんな場合もあるし、こんなことだってあるし、と提示される。そしてそれが、次の理論的記述への種まきになっている。理論的記述といっても土居が使用するのはほとんどが日常語であり、専門的なことが誰にでも読める言葉で書かれている。


土居の頭の中ではつぎのような場面が次々に浮かんでくる。精神療法を受けるようにということは精神修養しないさいといわれることと同じこと、つまりこうなったのは修養が足りないからだ、と治療者にいわれたように受けとる患者、すなわち自分が責められいていると感ずる患者、土居は、そのように感じる患者は、以下の二つの態度のいずれかをとるであろうという。


現在の苦しみの原因について自分には責任がない、なにか身体の病気かもしれないし、周囲の出来事ないし他の人間の所作が原因である、と治療者のいうことを信じないという態度、もうひとつは、精神療法を精神修養と解する自らの解釈に甘んじ、よってこれは治療の問題でなく、自ら解決しなければならない問題であると信じ込む態度である。どちらも治療関係の断絶の危険をはらんでいる、と土居は述べる。

土居は、これらを精神療法の適応の話にはせず、信頼の話としている。それに私はとても共感する。精神分析は信頼し、協力できるこころを信頼して、協力するものと私は考えるからである。

土居は、精神療法の筋書きとして精神分析を採用したので、私が土居の考えに共鳴する部分が多いのは当然と言えば当然なのだろう。

土居は筋書きを「骨組み」「枠組み」としてとらえており、「その場その場の状況は治療者によって一方的に与えられるものではなく、むしろ患者自身がそれを作るのである。ただそれに対して治療者は、それぞれの治療の方針すなわち筋書きにしたがって解釈を施す。これは即興劇における相手方の台詞に相当するものである。」(p35)と述べた。

ここで少し、最近読んだ哲学の本で心に残った部分と重ねてみる。私はフロイトの「事後性」を考えるためにはベルクソンの時間論が必要なのではないか、と思い、何年か前からベルクソンを読んでいるが、平井靖史の本に出会ってから、少し解像度が上がった気がしている。そして先月、平井靖史『はじめてのベルクソン 時間をひらく哲学』(2026、講談社現代新書)というさらにわかりやすい入門書がでた。平井も土居と同じく、専門用語は最小限にして、生活に落とし込んだ言葉で高度に専門的なことを書く。

たとえば、土居は、患者が、先ほど書いたような受けとり方をした場合、すかさず次のような手を打つことが必要であるという。

「たしかにあなたの病気は気のせいだといってもよい性質のものです。しかし気のせいといっても、あなたが自分勝手にそうしているということではありません。その証拠に、あなたが苦しむまいとしても止めることはできないでしょう。ですから気のせいといっても、それは自分の思うままにならない気です。」

これは「気」という日常語を使わないとできない表現だろう。彼らはわかりやすくするために日常語を使ってはいない。日常語だからこそ捉えられる運動があり、その言葉を動かすことで、高度に専門的な思考を続けている。

と、平井の本と重ねて考えたことを書こうと思ったが時間がない。今朝はここまで。

各地、奇妙なお天気が続いているようで気候変動の影響が本当に心配だし、怖いのだけど、みんなで無事に過ごせますように。今日もよろしくお願いします。

文章と関係ないが鳥好きには欠かせない展示だった。
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精神分析

「想起」、相手あってこそ

夜明け前の空の青。静か。

精神分析における言葉と時間の関係を考えるにはベルクソンが必須だと思って平井靖史さんの本を中心に色々勉強しているわけだが、精神分析だけでも相当の勉強が必要なので時間が全く足りない。引用できるほど理解できるとは思っていないのであくまで精神分析が展開してきた時間概念を精緻化、あるいは展開するために読む。平井さんの本は難解ではあるが、本当に丁寧に書かれているので何度も読んでいるとだいぶわかった気がしてくる。

たとえば、フロイトの「想起」について考えるときに、平井靖史『世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門』(青土社)を読んでいると、ベルクソンの『物質と記憶』を引用して書かれている部分に興味を惹かれたりする。なかでも考えさせられた部分を脚注だけど引用すると

「通常は、「夢見る」こと自体が、生を司る欲求や意志の緩みに起因するわけだが、想起の場合は、逆説的なことに「夢見ることを欲求する(vouloir rêver)」(MM87[115])ことが必要だとされる」

とか。なんとなくわかった気分になるでしょう。こんなふうにわかった気は直感を得るためであればわりと大事だけど間違った理解は学問のためによくないのでフロイトやウィニコットの引用はできるけど、ベルクソンの引用には怖気付く。なんにしてもその直感を使うなら精神分析理論の方をかなり正確に理解しておく必要があるな、と思いながら取り組んできた。私はもともと実践志向だが、理論なき実践はないと。はいえ、私の頭では実践なしで理論の理解はできなかった。フロイトの著書に早くから出会ってはいたが、どちらかというそれまで慣れ親しんできた文学的な興味で読んでいたし、いざ、こういう実践の中に身を置くとすごく特殊なことをものすごいスピードで思考しながら書いていたんだなと思う。その思いつきの様子が大体書簡にも書かれているのも面白い。相手あってこそ。

相手あってこそ、という気付き、誰にも頼らずひとりでやってきたつもりが全然そうではなかった、という気づきは大事だが、誰にも頼れない環境がある子供がいるのもまた事実で、というか、本当に事実なんだよ、ということを知ってほしいと思うことがよくある。頼りたくても、というより、頼らなくては生きていけない中をぎりぎりで生き残ってきた子供たちがいる。それでも生きられたのだからいいじゃん、と軽々しい言葉を投げかけられながら生きてきた子もいる。もちろん養育者を守る福祉制度(親への支援、保育士の待遇、研修)の不足など社会施策の問題もあるし、子供単体でも母子ユニットでも父母子の三角形でもそれだけで生きられるはずもない。なのに、という現実を考え込んでしまうことは多い。多分、普通に困っている人が優先される政治はこれからもずっと遠い。「普通」が変わっていくから。すでに変わっているから。とにかく無事で、と願うより、安心して送り出し当たり前のようにまた会える毎日がいい。どうぞ良い一日を。

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ベルクソン、フロイト

早朝、窓を開けたら一番きれいな色をしているときの光に会えた。ただの強い日差しに変わってしまう前の爽やかなピンク色。昨日はそんなに汗をかかなかった。外に出るたびに「あぢぃ」となっていたけど長時間でていることがなかったからかな。熱中症にならないようにせねば。水分水分。

ここでも何度か書いている平井靖史さんの『世界は時間でできている -ベルクソン時間哲学入門-』が昨日3歳になったそう。ベルクソンに関してはこれと『ベルクソン思想の現在』檜垣立哉、平井靖史、平賀裕貴、藤田尚志、米田翼が私の愛読書となっている。2022年のベルクソン研究者たちの盛り上がりはすごく楽しそうで、そのネットワーク作りをしている平井さんの仕事ぶりも魅力的で私もようやく門前にとどまることができた。

アンリ・ベルクソンとフロイトは同時代を生きて神経学に同じような関心を向けながら心について考えていたにもかかわらず接点がなかった。ジャン=リュック・ジリボンがベルクソンの『笑い』とフロイトの『不気味なもの』を並べて読解することで見出した「不気味な笑い」という論考が2016年に平凡社ライブラリーから『笑い/不気味なもの』としてでており、二人をつなげる試みはなかったわけではない。ベルクソンに魅力を感じながらも長い間近づけなかった私もとりあえずこの本は買っていた。

日本の精神分析でいえば、小此木啓吾が哲学少年としてベルクソンを読みこむだけでなく、フロイトが導入した失認agnosieなど神経学的な問題に臨床で関わる中でベルクソンの『創造的進化』に影響を受けた学者たちも参照しながら自我発達理論と発達神経生物学の延長として精神分析における自我心理学の発展について述べている。小此木先生が見出した日本の若い(当時)医者や心理士は私たちに精神分析と精神分析的なものをごっちゃにしたままとはいえ、海外の最新の知見はもちろん、ご自身の臨床に基づいた精神分析的思考をたくさん教えてくださった。私はその世代に直接、精神分析やスーパーヴィジョンを受けてきた世代なので、小此木先生の批判されるべきところも知っているが、小此木先生の仕事に戻れば、精神分析を学際的な領域として楽しめることも知っている。今「自我心理学」と聞いたときに神経学からの発展として話す人は少ないように思うので、私は私の世代で言えることを幅広い視野から次の世代に伝えていければいいなと思う。

最近はビオンの自伝に感動したのでそればかり話している気がするが。今日はフロイト『心理学草案』。せめてここまで戻る場を作れてよかった。

今日も暑そう。気をつけながらがんばりましょう。

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天気、眠気、時間

静かな朝。昨晩は風が吹き荒れていたがどこか別の場所に移動したのだろう、とネットのウェザーニュースを見たら北海道に上陸?大丈夫だろうか。北海道上陸は2016年8月以来とのこと。被害が出ませんように。東京の昨日、私は朝少し雨に降られたが大したことはなくて安心した。東京みたいに狭い場所でもそれぞれ体験した空模様が時間によって全然違うだろうな、と思いながら過ごしていた。オフィス周りは風も不安定で空は晴れたり曇ったりだった。遠くには触りたくなる入道雲がもくもくと重なっていた。もっと近づきたかった。

それにしても毎日眠くて仕方ない。春なのか、と思うくらい眠いが、気づけばどの季節にも眠くて眠くてという日はたくさんある。朝、起きてしまわなければいいのだが、夜帰ってきたらもう何もしたくないので早朝に色々済ませておく必要がある。体調にあった生活、なんてものを一生懸命考える年齢になってしまった。周りの知恵をいただきつつ自分の生活を見直しつつというのはなんだか漢方の処方みたい。薬草園などにいくと生活の知恵というのはすごいものだなと思う。草木は毒にも薬にもなる。そういう発見を自分の身体でしてきた人たちはすごい。コロナが少し治まった頃、奈良県宇陀市大宇陀にある森野旧薬園へ行った。吉野葛で有名な小石川植物園と並ぶ日本最古の薬草園。いかにも日本最古という感じで街並みも素敵だった。そこの小さな資料館みたいなところで漢方の歴史が学べて大層面白かったのだが、今正確な情報がないからそれについて書きたいけど書けない。曖昧な記憶をクリアーにする漢方なんてないかな。

辻村深月の『この夏の星を見る』(角川文庫)を読み始めた。これも映画化されるらしい。コロナ禍の中高生が星を通じて交流するお話なんだろうな、ということは読み始めてすぐにわかる。当時の彼らを思うと今も胸がギュッと痛む。顔を顰めて読んでいたらしく「コロナだから?」と言われた。うん。大変だった。書き残すって本当に大切なこと。

アンドレ・グリーンのAprès-coup論文の内容は早くも忘れつつあるが、考えたいことの種はもらった。それは「時間」。無意識の無時間性をいう場合も含めて、精神分析が時間というものをどう考えてきたか。私たちが「今ここ」と使う場合のそれって何か、解像度を上げないと精神分析実践で生じていることが捉えられない、と思い、ベルクソンを開いた。正確には平井靖史さんが書いたベルクソン入門を開いた。これはとても明快な専門書。売れるわけだ。学問するならこうありたい。

『世界は時間でできている──ベルクソン時間哲学入門』

この本と連動している動画も見つけた。

→23 June 29 平井靖史 (日本語)「クオリアを時間で作る ー ベルクソンのマルチ時間スケール戦略」

こういうのも無料で見られるのだからいい時代といえばいい時代。学問を大切にしない政治家を選んではいけないなと思う。普通に考えて奥行きのある思考ができない人にお金のこともお米(日々の糧)のことも任せてはいけないのでよく考えて投票しよう。どうぞご安全に。良いことあるといいね。

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とうもろこしを茹でたり。

カーテンは開けない。エアコンって素晴らしい。喉にこなければもっと素晴らしいかも。洗濯をしてとうもろこしを茹でる。キウイも食べる。この1週間も身体の学びが多かった。何を知ったというよりどんなに調べてもわからないものはわからないとか、それでも予防というのは大事だとか、適切な対応というのはこういうものなんだなとか、日々の学びを特に身体を通じて学んだということ。

この前『ベルクソン思想の現在』をKindleで読んでいたのだけど第3章「創造的進化」藤田尚志×米田翼(司会:平井靖史)のところがやっぱりいい。分析哲学でいう「傾向性」(disposition)の勉強、私もしたい。米田翼さんの解説を読むと、これはウィニコットが考えるポテンシャビリティと近いように思う。ヴェターという人は「潜在性potentiality」としてそれを「個体がもつ「〜できる」という能力を端的に示す性質、いわば個体に局在的な可能性」定義しているという。私は植物が持つこういう傾向をASDの特徴の一つとして発表したことがあるのでそれを深めたいなと思ったのだよ。

とうもろこし茹で上がった。鮮やかな黄色。杉戸の「すきすきすぎーと」美味しい。クリームチーズ。

今日もいいことありますように。

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世界、社会、バウンダリーとか。

秋の朝は爽やか。今日はちょうどいい気温。ずっとこのままだったらいいのに。でもこれはこれで温暖化の結果のお天気なのかしら。世界で起きていることの深刻な事態とつなげて考えていく面とかいろんな時間感覚や距離感覚が必要なんだろうな。

家族以外の場所で他人の心身弄んでいる人がフェミニストに尊敬する人とか救世主とか言われていたり学者ぶって教育者やっているのを見ると絶対に変わりようのない社会の縮図を見たような気になる。片方でそれで片方でそれ、というあり方は誰しもそうだがこの場合中身が重要。バウンダリー、有限性がなぜ大切か、ということ。ちなみにフェミニストというのはその人の部分しか表していないとはいえその方面で稼いで生活をしている人に対しては私はあえて使う。家族って、教育って、友達って、セクシュアリティって、身体って、心って、と考えながら戦地で殺されていく子どもたちのことを思い浮かべたりする。以前は日本に住んでいた人たちでもあったりする。自分って、人間って、と考えるだろうか、彼らは。どうか早く戦いが終わりますように。

ベルクソンとドゥルーズの勉強続けたいな、と思ったけどもう目の前のことに追われて余裕がなくなっている。平井靖史さんの朝カル講義が昨日から始まり、それは見逃し配信ありだったので申し込んだ。自分の言ったことで派生していくものをつかむためにももう少し学んでおきたい。自分に違和感や不快感を与える相手を加害者にしながら別の気持ちよくさせてくれる対象に依存しいろんなことをなかったことにする他人事でしか偉そうなことを言えないお友達ごっこではない真剣さを感じたのはぶつかりあいは当然生じるであろうという態度で対話を求められたから。私たちの組織にもこういう緊張感は必要だろう。

今日はみんなどうかな。元気だろうか。秋の美味と出会えますように。今朝の柿も美味しかったです。

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小寺学際的WS(ゲスト:平井靖史、小倉拓也)

10月9日は小寺記念精神分析研究財団が毎年開いている学際的ワークショップ『精神分析の知のリンクにむけて』 だった。今年度のゲストはベルクソン研究者の平井靖史さんとドゥルーズ研究者の小倉拓也さん。第八回のテーマは「心、身体、時間」。討論と司会は精神分析家の十川幸司先生、藤山直樹先生。

最初に今回の議論の基盤となりうる先生方の本をご紹介。藤山先生のだけ2003年出版で時間が経っているようだけど精神分析の実践に関心をお持ちの方には真っ先に読んでいただきたい一冊。今回の議論でいえば平井さんの時間論に対して精神分析は空間というものをどう考えているかを示すときの一例となる。

平井靖史『世界は時間でできている-ベルクソン時間哲学入門-』

小倉拓也『カオスに抗する闘い-ドゥルーズ・精神分析・現象学』(人文書院)

十川幸司『フロイディアン・ステップ 分析家の誕生』(みすず書房)

藤山直樹『精神分析という営み 生きた空間をもとめて』(岩崎学術出版社)

2022年はベルクソン・イヤーと言われるほどアンリ・ベルクソンに関する出版物が相次いだ。私もフロイトと同時代を生き、多くの類似点を持つベルクソンには以前から興味があり、昨年の盛り上がりのおかげでようやく門前に立つことができ福岡の「本のあるところajiro」でおこなれた連続トークイベントを視聴したりした。大変面白かった。羨ましいほどの盛り上がりだった。今回は精神分析と人文知の対話を試みる「学際的ワークショップ」だったのだが、平井さんは早くからベルクソンを意識研究や脳科学など他領域の研究とつなぎより大きな問題を考える基盤となりうる国際的な協働ネットワークを構築してきた人だ。その成果は平井さんがリーダーをされているPBJ(Project Bergson in Japan)のサイトが参考になると思う。それを知ったとき、本当にすごいな、と思って無料で入れる関連のオンラインカンファレンス的なものに入ってみたことがあったが使用言語がフランス語だったのでそっと退室した。なので今回は「学際的」であることを考えるためにもチャンスではないか、しかも自分のホームならば、とはじめてワークショップに参加してみた。

当日、セミナー直前に送られてきた資料を見てちょっとのけぞった。これは大変だ、と思った。「逆円錐のテンセグリティ・ダイナミクス」???テンセグリティ?平井さんは精神分析臨床を営む私たちとの対話を本当に望んでいてくださっていたようで最初にご自身で「ガチでいこうと思った」というようなことをおっしゃっていた。まさにそういう講義で大変刺激的だった。

ドゥルーズを主に研究されている小倉拓也さんは書名に「精神分析」とあるように私にとってベルクソンよりは身近なのではと感じてはいたが、私が主に國分功一郎さんの講義で学んできたドゥルーズとは異なる論点がたくさんあってビビっていた。でもSNSで時折あがる講演記録や資料は興味深かったし、なにより旅好きとしては秋田県内情報に惹かれた。小倉さんは秋田大学教育文化学部の准教授として哲学、思想史をご専門に講義をされているのだ。日本全国を回ってきたが秋田で寒さに泣き不機嫌になり幻の日本酒に救われたことは忘れない。まだ旅慣れてもいなかった。雪の角館で寝っ転がったりして遊び惚けて電車に乗り遅れたことも忘れたいが忘れない。その実践がどこで行われたか、ということはとても大切だと私は思う。精神分析でいえばフロイトとの物理的な距離とかもその後の研究の発展に関わっているに違いない。遠くにいるほうが自由にできるというのは大きい。小倉さんは舞台俳優のような滑舌のよさで率直で明快にドゥルーズにおける精神分析批判を期間限定のプロジェクトと位置付け、精神分析の対象として今後も議論が広がるであろう「自閉症」「認知症」をどう理解していくことができるかという話をしてくださった。ドゥルーズがマルディネのリズムの哲学を援用し(十川先生もマルディネを援用している)展開した「リトルネロ」論はやはりなじみやすかった。ただそのあとドゥルーズとガタリがリトルネロによって構成された領土を「我が家」といったみたいな(うろ覚え)話は!?!?となった。なんで「家」という発想がそこにくるの?みたいなかんじで。

お二人の講義はわかりやすく教えるものではなく徹底して対話を促してくれるものだったと思う。知識がなくても対話って可能なんだ、と知ってはいたがこんな難しいことが目の前に広げられていても色々考えてものっていえるんだ、と発言してから思った。なぜか発言したあとにめちゃくちゃ緊張して震えがきた。多分、私は結構なインパクトをお二人のお話から受けていた。自分が何を言ったかすでにあまり覚えていないのだがそういう実感が今後の咀嚼と消化を助けてくれるだろうと思う。

内容についてほぼ書いていないが(時間をかけないと書けない)それはお二人のご著書をぜひ。