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ダナ・バークステッドーブリーン「時間をかけること、精神分析のテンポ」を読んだり。

今日は久しぶりに晴れるらしい@東京。早朝はまだ少し降ってように思ったけどぼんやりした頭で窓を開けて眺めたからそんな気がしたのかもしれない。でもまだ曇っている。

風邪気味かも、と昨日感じた不調はすでに治っているのにごろごろしていたからすでに時間がない。すでにすでに。

ダナ・バークステッドーブリーン『精神分析の仕事』の第9章「時間をかけること、精神分析のテンポ」を女性の精神分析家グループで読んだ。数か月に一度集まるが、その数か月があっという間にすぎる。でも現在はそう簡単に過去にはならない、というか、時間はそんな直線的ではない。ベルクソンもそういっているが、ダナがこの本で展開しているのも精神分析における時間論だ。

ダナは、ベルクソンのいう「持続」ではなく、「こころの状態は即座の反応を差し控え、結果として[時間]の持続を意味する」(邦訳185頁)といった。この「持続」はdurationである。 時計は先に進み、時間は失われていくようにみえる。しかし、分析の仕事は時間を生じさせる。現在をただちに過去に送り出したりしない。なぜなら時間は宙づりに出来るから。フロイトが「平等に漂う注意」といったように。分析の仕事は、現在において過去を思い出させることではない。現在においていまだ過去になっていないものが生じる場をつくることである、というのは私の解釈。むろん、フロイトの場合、宙づりにされるのは直接には「時間」ではなく、何かを選択し、意味づけ、判断してしまう分析家の「注意」だが。

昨晩、読んだ章では、ビオンの「もの思いreverie」のなかに時間性temporalityあるいはテンポtempoを見出しながら、精神分析家がとるべき時間に対する態度が検討されていた。症例も二つあった。temporality は構造寄り、tempo は分析の場で実際に経験される速さ・間・リズムなど具体的な臨床状況寄りなのだろう。抽象的な時間論を、精神分析状況において具体的思考が象徴的思考に変形されるプロセスとともに示す論文だった。ダナはめちゃくちゃ博識だから、ここから展開できそうな種まきもいっぱいしてくれているように思う。

関連してスカルフォン(Dominique Scarfone)のL’impassé, actualité de l’inconscient について書きたいが時間がないのでまた今度。今日は一日、精神分析における時間性について考える機会になりそう。どうぞよい一日をお過ごしください。

小雨に濡れつつ。
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精読の醍醐味

と、まあ、なんと時間のないことよ。とりあえず書くけど。

土居が『精神療法と精神分析』で述べたこと、特にここまで私が引用してきたことは、その16年後の1977年の『方法としての面接』にほとんど書いてある。「劇としての面接」という章立てもある。これはこれで土居が臨床経験を積み、精神療法を教える立場になり、大学紛争を経て、より広い意味での診断的考察や精神科臨床の基本に関する本を記す必要性のもと書かれた本であり、臨床家がまず読むとしたらこちらだろう。

しかし、精読の醍醐味である、著者の思考への同一化を味わいたいなら『精神療法と精神分析』のほうが断然面白い。ここにはまだ「方法」になりきっていない土居の思考の動きの痕跡がはっきり残っている。1990年代になると土居の文章は雰囲気はそのままだが、もっとすっきりしてしまう。

平井靖史は『はじめてのベルクソン』で以下のように述べる。

‟歴史にも同じ構造があります。「あの事件が時代の転換点だった」という語りは、その後の展開を知っている者だけが構成できる。明治維新も、後から見れば日本近代化の出発点として語られます。しかし渦中を生きていた当事者には、それが何の始まりなのかは見えていません。何が決定的で何がそうでないかの区別すら存在していなかった。歴史の筋書きは、つねに結末から遡って編まれます。出来事の「意味」がその後の展開に応じて変わり続けるということ自体が、時間の未完了性を示しているのです。”

土居はもう死んでいるのでこれ以上書くことはない。なので、最後の方の著作のほうがすっきり洗練されたことが書いてあるのは当然と言えば当然だが、実はこれはそんなに当然ではない。ベルクソンが『道徳と宗教の二源泉』でみせたような飛躍は土居にはなさそうだ。土居の思考の動きは臨床家ならではだろう。臨床は常に患者とともにある。だから「臨床」なのだが。患者をおいてひとりでどこかへいくことはできない。どこかへいったとしてもまたいつもの時間、いつもの場所に戻ってくる。精神療法は特にそうだ。そうやっていつまでもその基盤を確かめるような作業を繰り返す毎日だからこそ日常語が大事になる。

今日はすごく風が強い。昨日は名古屋の様子を映像でみてびっくりした。電車も大変なことになっていた。どの地域も安全に一日が過ぎるとよいが。どうかお気をつけて。今日もよろしくお願いします。

初台もお祭りかな。
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土居健郎『精神療法と精神分析』続きとちょっとベルクソン

土居健郎は『精神療法と精神分析』(1961、金子書房)の最初から、精神療法を劇にたとえていた。治療の開始において「あなたには精神療法が適当である」と言われた患者は、舞台にあがることを誘われた観客ということになるだろうか。そのように言われた患者の心の中に生じる様々な思惑、それをとりあげるのが「探りあい」にひきつづく段階である。


土居は、ここで、いくつかの受けとり方を例示しながら、その対処について述べる。土居は、まず理論の記述をして、症例を素材として提示する、という方法はとらない。この本は、高度に専門家向けの内容ながら、多くの人が経験している、あるいは想像しうる精神療法の診察場面の実際が「こんな場合もあるし、こんなことだってあるし、と提示される。そしてそれが、次の理論的記述への種まきになっている。理論的記述といっても土居が使用するのはほとんどが日常語であり、専門的なことが誰にでも読める言葉で書かれている。


土居の頭の中ではつぎのような場面が次々に浮かんでくる。精神療法を受けるようにということは精神修養しないさいといわれることと同じこと、つまりこうなったのは修養が足りないからだ、と治療者にいわれたように受けとる患者、すなわち自分が責められいていると感ずる患者、土居は、そのように感じる患者は、以下の二つの態度のいずれかをとるであろうという。


現在の苦しみの原因について自分には責任がない、なにか身体の病気かもしれないし、周囲の出来事ないし他の人間の所作が原因である、と治療者のいうことを信じないという態度、もうひとつは、精神療法を精神修養と解する自らの解釈に甘んじ、よってこれは治療の問題でなく、自ら解決しなければならない問題であると信じ込む態度である。どちらも治療関係の断絶の危険をはらんでいる、と土居は述べる。

土居は、これらを精神療法の適応の話にはせず、信頼の話としている。それに私はとても共感する。精神分析は信頼し、協力できるこころを信頼して、協力するものと私は考えるからである。

土居は、精神療法の筋書きとして精神分析を採用したので、私が土居の考えに共鳴する部分が多いのは当然と言えば当然なのだろう。

土居は筋書きを「骨組み」「枠組み」としてとらえており、「その場その場の状況は治療者によって一方的に与えられるものではなく、むしろ患者自身がそれを作るのである。ただそれに対して治療者は、それぞれの治療の方針すなわち筋書きにしたがって解釈を施す。これは即興劇における相手方の台詞に相当するものである。」(p35)と述べた。

ここで少し、最近読んだ哲学の本で心に残った部分と重ねてみる。私はフロイトの「事後性」を考えるためにはベルクソンの時間論が必要なのではないか、と思い、何年か前からベルクソンを読んでいるが、平井靖史の本に出会ってから、少し解像度が上がった気がしている。そして先月、平井靖史『はじめてのベルクソン 時間をひらく哲学』(2026、講談社現代新書)というさらにわかりやすい入門書がでた。平井も土居と同じく、専門用語は最小限にして、生活に落とし込んだ言葉で高度に専門的なことを書く。

たとえば、土居は、患者が、先ほど書いたような受けとり方をした場合、すかさず次のような手を打つことが必要であるという。

「たしかにあなたの病気は気のせいだといってもよい性質のものです。しかし気のせいといっても、あなたが自分勝手にそうしているということではありません。その証拠に、あなたが苦しむまいとしても止めることはできないでしょう。ですから気のせいといっても、それは自分の思うままにならない気です。」

これは「気」という日常語を使わないとできない表現だろう。彼らはわかりやすくするために日常語を使ってはいない。日常語だからこそ捉えられる運動があり、その言葉を動かすことで、高度に専門的な思考を続けている。

と、平井の本と重ねて考えたことを書こうと思ったが時間がない。今朝はここまで。

各地、奇妙なお天気が続いているようで気候変動の影響が本当に心配だし、怖いのだけど、みんなで無事に過ごせますように。今日もよろしくお願いします。

文章と関係ないが鳥好きには欠かせない展示だった。
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リズム、時間、共に在ること。

今朝も風がない。昨日も日射しのある時間は暑かった。ほとんど移動しなかったから汗もかかなかった。夜は涼しかった。久しぶりに明るい月を見た。もうひどく暑くなることはないのかな。台風がたくさんきてるという話があったような気がしたけど。沖縄や奄美はいつも本当に大変だな。今調べたら台風18号のため、25日、26日は休園、休校するところも多いみたい。なにごともありませんように。石垣市では沖縄県知事選の選挙掲示板も一時的に撤去したりするみたい。沖縄の選挙はとても重要。無事に行なわれるといいけど。2年前の年末年始かな、沖縄で過ごした。25年ぶりとかだったと思う。2003年にようやく開通した沖縄都市モノレール「ゆいレール」のおかげで前回まわれなかった場所も色々歩けた。ほんの数日の観光ならそれでいいけど、広い沖縄で車を使えない人たちの移動手段が増えたら見えてくるものも変わるし、沖縄の現状や未来を考える機会をもてる人が増えるのではないかな。「ゆいレール」のときも沖縄は車社会だから地元の人は使わないという意見もあったけど実際はそうじゃなかったわけだし。一方、港で生活用品をたくさん船に乗せて帰る人たちと一緒に島に渡ったりすると、その暮らしに根づくリズムの軽やかさにも重みにも心が動く。生活が守られること、それが基本だしすべてなんだと思う。

この数年、特に2022年2月、ロシアがウクライナに全面侵攻を開始した、つまり、戦争が突如として私の目の前に現れたという感覚をもってからずっと心が落ち着かない。ニュースをみたり読んだりしては途中で耐えられなくなってしまうことも増えた。

私はその頃まだ精神分析家になるためのトレーニング中で訓練分析家のところへ通っていたので、なんで、どうして、と混乱した気持ちを話す場も時間もあった。あれから日本も世界もますますおかしくなっている、と書きたくもなるが、大竹裕子が雑誌『世界』(2025年12月号)に「人間とは「共に在る」世界だ」とするアフリカ思想のウブントゥを生きるジェノサイド後のルワンダのことを書いており、世界は広く、涙を流し続けてきた人たちの笑いや言葉や音楽や踊りはよきものへ向かう力を信じなくてはいけないという気持ちにさせられる。

土居健郎が『精神療法と精神分析』の「第2章 治療場面の設定」で場所の条件と時間の条件をあげている。場所の条件に関してはここですでにふれたが、時間の条件について、土居は、治療者が患者にどれほど時間をさくかあらかじめ決めていない場合、患者にとっては今与えられている時間はいつ打ち切られるかわからないし、また再びこのような時間が与えられるという保証もないため、「お時間をおとりしてありがとうございました」と感謝はされてもそこには無意識の非難がかくされていると考えることもできる、と述べる。 

「したがって時間のとりきめのない精神療法は、原則として精神療法の体をなしていないといって、過言ではないのである。」p26

土居はここまでのところと同様に

「しかしながらそうはいってもこの場合精神療法的効果が全然怒らないということではない」

と付け加える。土居は「治療者に患者を助けたいという行為が存するかぎり、」自分の時間を与えることで患者が慰められる場合もあるだろうという。なぜなら、人生は時間だからである。

土居は「人生において各自が本当に自分のものといえるものは時間だけである」「また時間は、それを他のものと分かつことができる」という時間の特性をあげ「時間は愛情の問題と密接な関係を持っている」と述べる。

そして「治療者が個人的に患者に与える時間については何のとりきめもないもの」として取り上げられるのがここでも森田療法である。土居は森田療法とずっと対話をしている。

土居はここで場所と時間をわけて考えている。私たちが治療構造、あるいは設定という言葉を使うときはおおむね同じことをしているだろう。しかしこれをわけて説明することは本当に適切なのだろうか、と思うことがある。ベルクソンへの興味もそのような疑問から始まっている気がする。私は最初、ベルクソンってなんでも時間で説明するんだな、空間はどこいった、生じてしまうものとしての空間は時間でどう説明するんだ、と思っていた。でもちょこちょこ読んでいると、ベルクソンこそ時間と空間を分けて考えることを疑った人なのではという気がしてきた。ベルクソンの持続 duréeという概念が空間化される時間という考えにつながるとしても、その拡がり étendueは均質で分割可能な空間とは異なる。異なるリズム、緊張、興奮、これらは時間によって区別される世界の運動にかかわるものであり、空間はその内側で現れたり消失したりしているのだろう。私は今ルワンダの人たちの音楽と踊りを思い浮かべている。彼らの物理的な空間がいかに破壊されようと彼らには彼らの時間と空間があり、それは流れ続け、彼らは存在する。私たちは共に在ることができるだろうか。共に在りたいと思う。

今日は火曜日。良い一日になりますように。

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精神分析

「想起」、相手あってこそ

夜明け前の空の青。静か。

精神分析における言葉と時間の関係を考えるにはベルクソンが必須だと思って平井靖史さんの本を中心に色々勉強しているわけだが、精神分析だけでも相当の勉強が必要なので時間が全く足りない。引用できるほど理解できるとは思っていないのであくまで精神分析が展開してきた時間概念を精緻化、あるいは展開するために読む。平井さんの本は難解ではあるが、本当に丁寧に書かれているので何度も読んでいるとだいぶわかった気がしてくる。

たとえば、フロイトの「想起」について考えるときに、平井靖史『世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門』(青土社)を読んでいると、ベルクソンの『物質と記憶』を引用して書かれている部分に興味を惹かれたりする。なかでも考えさせられた部分を脚注だけど引用すると

「通常は、「夢見る」こと自体が、生を司る欲求や意志の緩みに起因するわけだが、想起の場合は、逆説的なことに「夢見ることを欲求する(vouloir rêver)」(MM87[115])ことが必要だとされる」

とか。なんとなくわかった気分になるでしょう。こんなふうにわかった気は直感を得るためであればわりと大事だけど間違った理解は学問のためによくないのでフロイトやウィニコットの引用はできるけど、ベルクソンの引用には怖気付く。なんにしてもその直感を使うなら精神分析理論の方をかなり正確に理解しておく必要があるな、と思いながら取り組んできた。私はもともと実践志向だが、理論なき実践はないと。はいえ、私の頭では実践なしで理論の理解はできなかった。フロイトの著書に早くから出会ってはいたが、どちらかというそれまで慣れ親しんできた文学的な興味で読んでいたし、いざ、こういう実践の中に身を置くとすごく特殊なことをものすごいスピードで思考しながら書いていたんだなと思う。その思いつきの様子が大体書簡にも書かれているのも面白い。相手あってこそ。

相手あってこそ、という気付き、誰にも頼らずひとりでやってきたつもりが全然そうではなかった、という気づきは大事だが、誰にも頼れない環境がある子供がいるのもまた事実で、というか、本当に事実なんだよ、ということを知ってほしいと思うことがよくある。頼りたくても、というより、頼らなくては生きていけない中をぎりぎりで生き残ってきた子供たちがいる。それでも生きられたのだからいいじゃん、と軽々しい言葉を投げかけられながら生きてきた子もいる。もちろん養育者を守る福祉制度(親への支援、保育士の待遇、研修)の不足など社会施策の問題もあるし、子供単体でも母子ユニットでも父母子の三角形でもそれだけで生きられるはずもない。なのに、という現実を考え込んでしまうことは多い。多分、普通に困っている人が優先される政治はこれからもずっと遠い。「普通」が変わっていくから。すでに変わっているから。とにかく無事で、と願うより、安心して送り出し当たり前のようにまた会える毎日がいい。どうぞ良い一日を。

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哲学 精神分析

ウィニコットとか米田翼『生ける物質-アンリ・ベルクソンと生命個体化の思想-』とか。

夜はいつまでもおなかいっぱい。遅い夕飯が胃腸に良くないことはわかっている。昼間なら胃腸の調子に気をつかえるが夜はもうだめ。つくおきもしない方がいいのかもしれないがしなかったらしなかったでお惣菜を買ってくるに違いない。いろんなことを上手にコントロールできたら私はこんな仕事についていない。だってもしそうできたら困る人はいなくなるだろうからこの仕事はいらないと思う。お勉強として消費する分にはいいかもしれないけど。臨床は相手がいないとできない。困りごとのない世界、自分で自分をコントロールできる世界なんてないからお金も時間もかかる仕事の世話になる。だったらそんなのなければいいのに、と思うかというと私は思わない。人間は時間もお金もかかってしまう厄介な生き物なんだ。だって可能性がいっぱいだから。人間だけでなはくて生命あるものはみな。だったら生命をどこまで拡張して考える?動物まで?宇宙まで?

私はウィニコットは多くの赤ちゃんや妊婦さんと関わるなかで有機体の起源を考えていたと思う。母と子のユニットという考えがひとつの到達点になったのだろうけど、それは単に自己の起源を他者と未分化な場所に位置づけただけではなく、有機体の可能性を母胎という宇宙、あるいはマトリックスに見出したからだろうと思う。ウィニコットは常に「可能性」について考えていた人だったと思う。

そんなことを考えいてるときに何かヒントがほしくて開いたのがベルクソン・イヤーにベルクソン研究者の皆さんが魅力的な時間論を展開するなかで独自の生命論を展開していた米田翼さんの『生ける物質-アンリ・ベルクソンと生命個体化の思想-』。この本はベルクソン『創造的進化』はもちろん、古典の丁寧な読解の仕方も勉強になる。

著者はいう。

「たとえ絵空事であっても、ベルクソンの創造的進化論を徹底するのであれば、我々は「あらゆる法則は突然変化することがある」ということを肯定すべきである。」

本当にそうだと思う。

「ベルクソンは我々が住まう現実世界そのものに決して空虚ではない「可能性」や「偶然性」を植え付けているのだ。系外惑星における未知の生物たち、あるいは地球上で眠りに落ちていった植物や動物たち、彼ら・彼女らが歩んだ道のりは、ひょっとすると我々が歩いた道のりだったのかもしれない。この「ひょっとすると〜かもしれない」が「空虚ではない」と言える理由は、ただひとつしかない。それは、これらすべての生物たちは、起源においては我々と一致していたということである。ベルクソンの進化論が提示する世界観・存在論では、可能世界に住まう私と(行動の履歴まで)よく似た対応者(counterpart)よりも、この現実世界で私とはまったく別の道のりを歩んできたミツバチたちの方が、よほど私とよく似ているのだ。」

痺れる汎生命論。進化に対して「絶滅」という表現を使うよりずっと現実的。

「ありえなそうなことが、本当にありえないかどうかは、それが実際に生じるまで誰にもわからない。」

維持したいのはこの姿勢で、なぜなら、というところに生命の起源を探究する意味があるように私は思っている。

今朝も暑い。洗濯物を干しながら窓を開けたけどびっくりするくらい何も吹き込んでこなかった。今日も涼しい場所を探して過ごしましょう。良いことありますように。

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哲学 精神分析 読書

ベルクソン、フロイト

早朝、窓を開けたら一番きれいな色をしているときの光に会えた。ただの強い日差しに変わってしまう前の爽やかなピンク色。昨日はそんなに汗をかかなかった。外に出るたびに「あぢぃ」となっていたけど長時間でていることがなかったからかな。熱中症にならないようにせねば。水分水分。

ここでも何度か書いている平井靖史さんの『世界は時間でできている -ベルクソン時間哲学入門-』が昨日3歳になったそう。ベルクソンに関してはこれと『ベルクソン思想の現在』檜垣立哉、平井靖史、平賀裕貴、藤田尚志、米田翼が私の愛読書となっている。2022年のベルクソン研究者たちの盛り上がりはすごく楽しそうで、そのネットワーク作りをしている平井さんの仕事ぶりも魅力的で私もようやく門前にとどまることができた。

アンリ・ベルクソンとフロイトは同時代を生きて神経学に同じような関心を向けながら心について考えていたにもかかわらず接点がなかった。ジャン=リュック・ジリボンがベルクソンの『笑い』とフロイトの『不気味なもの』を並べて読解することで見出した「不気味な笑い」という論考が2016年に平凡社ライブラリーから『笑い/不気味なもの』としてでており、二人をつなげる試みはなかったわけではない。ベルクソンに魅力を感じながらも長い間近づけなかった私もとりあえずこの本は買っていた。

日本の精神分析でいえば、小此木啓吾が哲学少年としてベルクソンを読みこむだけでなく、フロイトが導入した失認agnosieなど神経学的な問題に臨床で関わる中でベルクソンの『創造的進化』に影響を受けた学者たちも参照しながら自我発達理論と発達神経生物学の延長として精神分析における自我心理学の発展について述べている。小此木先生が見出した日本の若い(当時)医者や心理士は私たちに精神分析と精神分析的なものをごっちゃにしたままとはいえ、海外の最新の知見はもちろん、ご自身の臨床に基づいた精神分析的思考をたくさん教えてくださった。私はその世代に直接、精神分析やスーパーヴィジョンを受けてきた世代なので、小此木先生の批判されるべきところも知っているが、小此木先生の仕事に戻れば、精神分析を学際的な領域として楽しめることも知っている。今「自我心理学」と聞いたときに神経学からの発展として話す人は少ないように思うので、私は私の世代で言えることを幅広い視野から次の世代に伝えていければいいなと思う。

最近はビオンの自伝に感動したのでそればかり話している気がするが。今日はフロイト『心理学草案』。せめてここまで戻る場を作れてよかった。

今日も暑そう。気をつけながらがんばりましょう。

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天気、眠気、時間

静かな朝。昨晩は風が吹き荒れていたがどこか別の場所に移動したのだろう、とネットのウェザーニュースを見たら北海道に上陸?大丈夫だろうか。北海道上陸は2016年8月以来とのこと。被害が出ませんように。東京の昨日、私は朝少し雨に降られたが大したことはなくて安心した。東京みたいに狭い場所でもそれぞれ体験した空模様が時間によって全然違うだろうな、と思いながら過ごしていた。オフィス周りは風も不安定で空は晴れたり曇ったりだった。遠くには触りたくなる入道雲がもくもくと重なっていた。もっと近づきたかった。

それにしても毎日眠くて仕方ない。春なのか、と思うくらい眠いが、気づけばどの季節にも眠くて眠くてという日はたくさんある。朝、起きてしまわなければいいのだが、夜帰ってきたらもう何もしたくないので早朝に色々済ませておく必要がある。体調にあった生活、なんてものを一生懸命考える年齢になってしまった。周りの知恵をいただきつつ自分の生活を見直しつつというのはなんだか漢方の処方みたい。薬草園などにいくと生活の知恵というのはすごいものだなと思う。草木は毒にも薬にもなる。そういう発見を自分の身体でしてきた人たちはすごい。コロナが少し治まった頃、奈良県宇陀市大宇陀にある森野旧薬園へ行った。吉野葛で有名な小石川植物園と並ぶ日本最古の薬草園。いかにも日本最古という感じで街並みも素敵だった。そこの小さな資料館みたいなところで漢方の歴史が学べて大層面白かったのだが、今正確な情報がないからそれについて書きたいけど書けない。曖昧な記憶をクリアーにする漢方なんてないかな。

辻村深月の『この夏の星を見る』(角川文庫)を読み始めた。これも映画化されるらしい。コロナ禍の中高生が星を通じて交流するお話なんだろうな、ということは読み始めてすぐにわかる。当時の彼らを思うと今も胸がギュッと痛む。顔を顰めて読んでいたらしく「コロナだから?」と言われた。うん。大変だった。書き残すって本当に大切なこと。

アンドレ・グリーンのAprès-coup論文の内容は早くも忘れつつあるが、考えたいことの種はもらった。それは「時間」。無意識の無時間性をいう場合も含めて、精神分析が時間というものをどう考えてきたか。私たちが「今ここ」と使う場合のそれって何か、解像度を上げないと精神分析実践で生じていることが捉えられない、と思い、ベルクソンを開いた。正確には平井靖史さんが書いたベルクソン入門を開いた。これはとても明快な専門書。売れるわけだ。学問するならこうありたい。

『世界は時間でできている──ベルクソン時間哲学入門』

この本と連動している動画も見つけた。

→23 June 29 平井靖史 (日本語)「クオリアを時間で作る ー ベルクソンのマルチ時間スケール戦略」

こういうのも無料で見られるのだからいい時代といえばいい時代。学問を大切にしない政治家を選んではいけないなと思う。普通に考えて奥行きのある思考ができない人にお金のこともお米(日々の糧)のことも任せてはいけないのでよく考えて投票しよう。どうぞご安全に。良いことあるといいね。

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精神分析 精神分析、本

小寺学際的WS(ゲスト:平井靖史、小倉拓也)

10月9日は小寺記念精神分析研究財団が毎年開いている学際的ワークショップ『精神分析の知のリンクにむけて』 だった。今年度のゲストはベルクソン研究者の平井靖史さんとドゥルーズ研究者の小倉拓也さん。第八回のテーマは「心、身体、時間」。討論と司会は精神分析家の十川幸司先生、藤山直樹先生。

最初に今回の議論の基盤となりうる先生方の本をご紹介。藤山先生のだけ2003年出版で時間が経っているようだけど精神分析の実践に関心をお持ちの方には真っ先に読んでいただきたい一冊。今回の議論でいえば平井さんの時間論に対して精神分析は空間というものをどう考えているかを示すときの一例となる。

平井靖史『世界は時間でできている-ベルクソン時間哲学入門-』

小倉拓也『カオスに抗する闘い-ドゥルーズ・精神分析・現象学』(人文書院)

十川幸司『フロイディアン・ステップ 分析家の誕生』(みすず書房)

藤山直樹『精神分析という営み 生きた空間をもとめて』(岩崎学術出版社)

2022年はベルクソン・イヤーと言われるほどアンリ・ベルクソンに関する出版物が相次いだ。私もフロイトと同時代を生き、多くの類似点を持つベルクソンには以前から興味があり、昨年の盛り上がりのおかげでようやく門前に立つことができ福岡の「本のあるところajiro」でおこなれた連続トークイベントを視聴したりした。大変面白かった。羨ましいほどの盛り上がりだった。今回は精神分析と人文知の対話を試みる「学際的ワークショップ」だったのだが、平井さんは早くからベルクソンを意識研究や脳科学など他領域の研究とつなぎより大きな問題を考える基盤となりうる国際的な協働ネットワークを構築してきた人だ。その成果は平井さんがリーダーをされているPBJ(Project Bergson in Japan)のサイトが参考になると思う。それを知ったとき、本当にすごいな、と思って無料で入れる関連のオンラインカンファレンス的なものに入ってみたことがあったが使用言語がフランス語だったのでそっと退室した。なので今回は「学際的」であることを考えるためにもチャンスではないか、しかも自分のホームならば、とはじめてワークショップに参加してみた。

当日、セミナー直前に送られてきた資料を見てちょっとのけぞった。これは大変だ、と思った。「逆円錐のテンセグリティ・ダイナミクス」???テンセグリティ?平井さんは精神分析臨床を営む私たちとの対話を本当に望んでいてくださっていたようで最初にご自身で「ガチでいこうと思った」というようなことをおっしゃっていた。まさにそういう講義で大変刺激的だった。

ドゥルーズを主に研究されている小倉拓也さんは書名に「精神分析」とあるように私にとってベルクソンよりは身近なのではと感じてはいたが、私が主に國分功一郎さんの講義で学んできたドゥルーズとは異なる論点がたくさんあってビビっていた。でもSNSで時折あがる講演記録や資料は興味深かったし、なにより旅好きとしては秋田県内情報に惹かれた。小倉さんは秋田大学教育文化学部の准教授として哲学、思想史をご専門に講義をされているのだ。日本全国を回ってきたが秋田で寒さに泣き不機嫌になり幻の日本酒に救われたことは忘れない。まだ旅慣れてもいなかった。雪の角館で寝っ転がったりして遊び惚けて電車に乗り遅れたことも忘れたいが忘れない。その実践がどこで行われたか、ということはとても大切だと私は思う。精神分析でいえばフロイトとの物理的な距離とかもその後の研究の発展に関わっているに違いない。遠くにいるほうが自由にできるというのは大きい。小倉さんは舞台俳優のような滑舌のよさで率直で明快にドゥルーズにおける精神分析批判を期間限定のプロジェクトと位置付け、精神分析の対象として今後も議論が広がるであろう「自閉症」「認知症」をどう理解していくことができるかという話をしてくださった。ドゥルーズがマルディネのリズムの哲学を援用し(十川先生もマルディネを援用している)展開した「リトルネロ」論はやはりなじみやすかった。ただそのあとドゥルーズとガタリがリトルネロによって構成された領土を「我が家」といったみたいな(うろ覚え)話は!?!?となった。なんで「家」という発想がそこにくるの?みたいなかんじで。

お二人の講義はわかりやすく教えるものではなく徹底して対話を促してくれるものだったと思う。知識がなくても対話って可能なんだ、と知ってはいたがこんな難しいことが目の前に広げられていても色々考えてものっていえるんだ、と発言してから思った。なぜか発言したあとにめちゃくちゃ緊張して震えがきた。多分、私は結構なインパクトをお二人のお話から受けていた。自分が何を言ったかすでにあまり覚えていないのだがそういう実感が今後の咀嚼と消化を助けてくれるだろうと思う。

内容についてほぼ書いていないが(時間をかけないと書けない)それはお二人のご著書をぜひ。