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回帰

今日の東京の日の出は5時25分。毎日1分ずつ遅くなる。金曜日から急に涼しくなるらしい。明日は雷の予報も出ているのね。昨晩の新宿の空は大きな雲が層になっていて明るく感じた。東京だから?星かと思って眺めていた小さくて白いものはいつのまにか雲に隠れた。飛行機だったらしい。オフィスのそばでいつもみる飛行機は都庁やオペラシティに突っ込むのではないか、というくらい低空飛行だからあれはなんだったんだろう。UFO?と思うのはいろんなところでUFOの話を聞きすぎているからか。能登地震があった翌年の5月は石川県羽咋市の宇宙科学博物館、コスモアイル羽咋にも行った。宇宙人がたくさんいて展示も本格的ですごく楽しかった。最近だと千葉県銚子市の地球の丸く見える丘展望館でもUFOの映像をみた。経営困難による廃線の危機を「ぬれ煎餅」などで乗り切ってきた銚子電鉄の犬吠駅が最寄り。途中のひまわり畑が圧巻だった。以前は、展望館でUFO召喚イベントとかもしていたらしい。銚子電鉄に乗ること自体が目的の人もいるし、観光だと犬吠駅で降りる人がほとんどかも。駅前の回転寿司屋さんも犬吠埼灯台もとてもいい。そういえばこの前、京王線新宿駅の売店で銚子電鉄のぬれ煎餅を見かけてびっくりした。「まずい棒」もあったのかな。銚子電鉄と京王は何繋がりなのだろう。銚子電鉄が京王線の車両を使っているとか?私の実家の方のローカル線はたしか井の頭線の車両だったからそういうのもありうるかも。鉄道はそれ自体、旅の醍醐味。昔の面影も届ける大切な手段。盛り上がってほしい。

不注意で色々予定を入れまちがったり、アプリを使ったあれこれができないのは、最近の携帯が私には小さすぎるからではないかと思い至った。Duolingoだってパソコンでできればいいのに。。。と思っていたらパソコンでもできるというではないか。私が知らないだけだった。いざやってみたらやりづらいのは携帯が小さすぎるせいではなく、どちらにもメリットデメリットあるという普通のことに気付かされただけだった。でも携帯とPCではやれることが違う気がするので両方使ってみようと思った。これも少し前に書いた習慣を崩すことの一環になるかも、と少しワクワク。この話をしたら「ボケ防止ですね」と言われた。まあそうなんですけどね。

ボケ防止で思い出したのだけど、最近思うのは、私は死ぬまで本を売ることをしないだろうなということ。もちろん売るための本なんて書けないというのもあるけれど、本を書いている人たちは目的がはっきりしている人が多いなと気づいて、私は特に自分の中にそういうものを見出せないから、こういう毎日のパーソナルで他愛もない発見をメモ的に記しておくのがあっているんだな。もちろん国内外での発表は続けたいし、協会のジャーナルには投稿していくだろうけど。それにしてもこういうのだってすぐ忘れてまた少ししたらそういえばDuolingoってパソコンでもできるんだって、とか戻りかねない。自分だけのことならそれでいいわけで、というか、相手あることだって何度でも聞き直していいわけよね、人は。何度も同じ話するのだって人なんだから。精神分析なんてほんと何度も何度も同じ話をしたりする。けど、それも全く同じということは全くないのだな、とか考えているのがフフフという楽しみだったりする。自分のことってよくわからないから、何度も同じ道で迷っちゃったりはしないかもしれないけど、またここに出ちゃったよ、みたいなことはあるわけだし。回帰するともいう。

フロイトは「代替形成や症状は抑圧されたものの回帰の指標」であるとして欲動との関係で抑圧を精密に捉えようとした。メタサイコロジー論のひとつ「抑圧」論文でフロイトは三つの神経症、つまり不安ヒステリー(動物恐怖症など)、転換ヒステリー、強迫神経症を取り上げて抑圧のメカニズムを記述する。1915年の三論文「欲動と欲動の運命」「抑圧」「無意識」は、フロイトの症例とともにセットで読んだほうがいいと思うけど、私たちがReading Freudで読んでいる「心理学草案」が前提とした神経学的な仮説に基づいた思弁ではない方法、つまり臨床観察に基づく基礎づけをフロイトが試みたものたち。とても面白い。もちろん「痛み」とか「草案」からすでに印象的な取り上げ方をされているテーマは引き継がれている。

そういえばこれもどうでもいい話なんだけど、私はAmazonのオーディブルって無料期間に少し聞いたことしかなくて携帯の読み上げ機能でキンドル本を聞くことがある。これがかなりストレス、と同時に面白かったりもする。メタサイコロジー論は多分そんなに間違えて読まれないと思うけど、読まねば、みたいな目的があるときはそういう間違いはストレスでしかないかもしれない。ちょっとした息抜きとして聞いているときは読み上げの間違いは逆に面白みになったりもする。よくある読み上げの間違いは耳が自動変換するようになっているのでいちいち引っかからないけど、自然に思い浮かばない区切りや変換がされるときは、手を止めて文章を確認して「えー」となったり本当に知らない単語だったりする。英語の読み上げもフランス語が混ざっていたりすると急に声が変わったりして覚醒水準は上がるけど聞くだけではわからない場合が多いので、英語は地道に自動翻訳に助けてもらいながら書いたり読んだりしないといけない。自動翻訳もまだ辞書機能とかの使い方がよくわかっていないな、そういえば。そのポテンシャルを全然いかせていない気もするのだけどすごく助かってはいる。AI翻訳はみんな駆使しているみたいで私も教えてもらったのだけど使いこなせない。こんなでもどうにかなる世の中であってほしいな。パソコンだって普及していなかった時代に生まれているので素朴に自分の身の丈でやっていきたいよ。アナログ思考も大事でしょう。

この前、時計屋さんへ行ったときも思った。そこはこだわりの店主さんだからちょっと緊張するのだけど大事な時計を預かったのでみてもらいにいった。ついでに自分の時計も電池が切れてしまったので変えてもらった。そっちは1時間くらいでできるというので指定の時間を少しすぎたくらいに受け取りにいった。小さなビニール袋に小さなクッション付きで入れてくれていた。お礼を言いながら受け取ると携帯電話と近づけないように、と早口で言われた。一緒にいた人も少し驚く素早い指摘に「すいません!」と携帯をしまって時計をはめた。こういう切迫感は緊張するけどプロの仕事だもんね、と思う。私が文明の利器を使いこなせないという話とは全然違うけど。ところで、さっきから「携帯」と書いているけど書き言葉にするといつも違和感がある。iphoneとか書かないと通じなかったりして、とか。でも大抵は文脈で通じるよね、多分。

昨日、なんでだか忘れたけど倉橋由美子と三島由紀夫のことを考えていた。倉橋由美子が書くかっこいい登場人物に会いたかったのかも。いや、先日、神奈川近代文学館へ行ったからか。常設展には今回もいい感じの三島由紀夫がいた。お目当ては開催中の企画展「中島敦の手紙展――おとうちゃんからの贈り物」。行きたかったのだ。『山月記』は教科書で読んだのが最初だったか?覚えていないけど漢文の授業で読んだ気がしてしまっている。途中からはどんどん読めるけど最初が難しいんだよね。かっこいい文体で大好きだった。今回の展示は、パラオ滞在中に息子とやりとりした手紙が中心。次男は当時まだ小さくてお返事は書いていないけど長男の手紙が子供なりのしっかりさで次男の様子も伝えてくれている。中島敦の子供たちはあまりに早くに亡くなった父親の思い出とどう生きたのだろう、戦争の時代を。

昨日の朝ドラ「あんぱん」は戦争が終わったあとの父の顔も知らぬ子どもや孫世代が登場した。この重たさと悲しみに触れれば戦争が終わることがないんだと知る。だからこそすぐに終わらせねばならないのに。一日一日が平和を願う気持ちで過ごせたらいいのに。せめて今日、せめて明日、って少しずつ先延ばししながらずっと平和を願って、本当に平和が訪れますように。

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ウェブサイト更新とかフロイト読書会番外編とか

年末年始は東京よりも日の出が30分遅い土地にいたので朝になるといちいち「東京は早いなあ」と思うようになった。旅に出ると早朝から散歩にでるのが習慣だが今回は街灯も少なく真っ暗。それでも白い小さなお花をたくさんつけた木が雪みたいに明るかったのが不思議だった。

今朝は久しぶりにオフィスのウェブサイトを整えた。整えただけで特に記事を足したりはしていない。ここはただの雑文だからもう少し専門的なことをもうひとつのブログに書いてウェブサイトにリンクを貼りたい、と前から思っているけどやっていない。オフィスのウェブサイトは記事の量に制限があってひとつの記事が長い分にはいいらしいのだが、一つのカテゴリーに10個とか制限があるらしくすでに結構使ってしまっているのだ。でもそれも結構前に確認したことだから今は変わってたりするのかな。みてみよう。

ツイートもしたが、昨晩は毎週実施されているフロイト読書会番外編ということで私企画の輪読会を行った。私は普段はアドバイザーとして招かれているだけなので基本的には参加者のみなさんのやりとりを見守ってなにか聞かれればなにか言うみたいな感じなのだが読書会のしかたで迷いもあるとのことだったので私がオフィスでReading Freudと称して行っているフロイト読書会の方法を紹介がてらやってみた。といってもひとりずつ順番に1パラグラフずつ読んでいき、内容の区切れるところで議論をしてまた読み進めるというシンプルな方法で、今回はフロイトが第一次世界大戦中の1915年に書いたメタサイコロジー論文の中から「欲動と欲動の運命」を取り上げた。2時間で読むにはちょうどいいかなと思ったら議論の時間を含め本当にちょうどよかった。よかった。今回は岩波の全集ではなく十川幸司訳『メタサイコロジー論』(2018,講談社学術文庫)を使用した。フロイトのメタサイコロジー論文を読むならこれが一番いいと思う。文庫だし電子版もある。

ツイートしたが参考文献はこちら

欲動というのは精神分析が想定する身体内部から生じてくる本来的な原動力のことである。なんのこっちゃという感じかもしれないが、フロイトは本論文でこの概念を基礎づけることで内部と外部、主体と対象、快と不快、愛と憎しみなど対極的なものを力動的、立体的に捉えようとしている。自己へと回帰する欲動の動きを言語的な枠組みを用いて描写するしかたはダイナミックで楽しい。途中なんで突然これ持ち出すのみたいに思った部分もあったがそれはフロイトが死ぬまでわからないと言い続けた事柄でもあるから錯綜するフロイトとともに読み続けることが大切なのだろう。この形での読書会はそれなりによかったようなのでよかった。継続の希望もあるようだけど時間がとれるだろうか。細々とやれればいいか。

一生懸命、真剣に大切にしてきたものを思いもかけない形で失ったことはあるだろうか。たぶんあるだろう。語りえないものとして残るであろう穴とも傷ともいえるその喪失をめぐって精神分析は独特の言葉の使用の場を提供してきた。精神分析はなんでもセックスと結び付けてなにかいう印象があるかもしれないが精神分析におけるセクシュアリティは単なるセックスよりもずっと広い対象をカバーしている。病理をいわゆる正常と地続きのものとして捉える精神分析の大きな特徴も今回の読書会で確認した。快だけを取り入れ不快なものは外へ、という今回読んだ論文にも記述されているあり方をいくら繰り返しても逃れることができない欲動とともに私たちはどうにかこうにかやっているらしい。死にたい。そんなことを時々つぶやきながら今日もなんとか。