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お隣の国の文学、心を守る

昨日『文学カウンセリング入門』を読んでいると書いて、著者の参照URLをクリックした人は読んだと思うけど、著者のひとりチン・ウニョンの「私は古い街のようにあなたを愛し」という詩集も詩集としては異例の販売部数を記録したそうだがまだ日本語にはなっていない。しかしその詩集に収められている2014年4月に起きたセウォル号事件の遺族のために書かれた詩「あの日以降」は『文学カウンセリング入門』の訳者あとがきでその一部を読むことができる。それにしてもまだ10年か、この事件については「もう」ではなく「まだ」と感じるのはなぜか。この事件に対する韓国の文学者たちのアクションはそれを直接描く作品だけではなく、その後も続いているが、『目の眩んだ者たちの国家』(キム・エランほか著、矢島暁子訳)は素早いアクションの中の一冊である。この本は「セウォル号事件で露わになった「社会の傾き」を前に、現代韓国を代表する小説家、詩人、思想家ら12人が思索を重ね、言葉を紡ぎ出した思想・評論エッセイ集」(出版社Webサイト)だ。

私は斎藤真理子著『隣の国の人々と出会う——韓国語と日本語のあいだ』(創元社、2024年)『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス、2022年)でこの本を知った。斎藤さんも韓国の作家たちの走りながら考えるスピードについて書いていた気がするけど、斎藤さんも仕事が早い。もちろんそれはすぐに次なるものが前景をなすような早さではなく、どんなに基本的で大切と思われる事柄でもあっという間に忘れる私たちにその隙を与えない早さでもある、ような気がする。とてもありがたい。『韓国文学の中心にあるもの』は40ページが加筆された増補新版も今年はじめにでた。セウォル号事件については本や映像で読んだり見たりしたが、事件後の今、までも含め、本当に言葉を失うひどい事件である、と同時に、キム・エランが表現した「文法自体が破壊されてしまった」状況はまさに日本の言葉の使用の現状であり、私が日々出会う精神分析状況における言葉の使用であると感じる。

週末、詩集や句集がたくさん置いてある本屋さんに行ってとても久々なほっこりを体験した。やっぱり本に埋もれているような時間が昔から安心する。子供の頃はこんなに豊富でなかった韓国文学にたくさん影響を受けてきたけどここで書くにはあまりにもインパクトが大きかったのがチョ・セヒの『こびとが打ち上げた小さなボール』(河出書房新社)だった(とか言って書いたかもしれない)。多分、子供の頃に読んだ『ユンボギの日記』の記憶と混ざったからだと思う。おそらくこの本たちは同時代のことを書いている。きちんと調べてはいないけれど本を読んでいるとこういう重なりあいはよく起きる。行ったことのない土地の、まだ生きてもいなかった時代の子供や大人が生々しく立ち現れ、子供のときの私と大人になった私もそこに立たされる。その時代の空気に触れる。何年経っても繰り返されるばかりの失望や絶望に慣れてしまったのか慣れることなどないのかわからない、そんな登場人物に読者である私もどう振舞っていいかわからない。見過ごさないことでまだ自分は大丈夫か、と少し安堵したりもする。

自由を与えたふりをして、無意識のふりをして(無意識かもしれないが)搾取するのが当たり前、あるいは自分の思い通りにしたいだけの人、弱い立場の人の尊厳を考えない人の文脈に巻き込まれてはいけない。相手が国レベルならそおさら尊厳をひたすら主張しなくてはいけない。個人レベルでも基本的に相手を見下している人は表舞台に立ちたいだけの自分を支えている人のことなんて真面目に(というか普通に)考えることなんてしない。そういう人に限って自分の世界の狭い「普通」や「常識」を主張する。権力を握る人はそういう人が多いけど迎合する必要もなし。権力って官僚とか管理職とかそういう人だけが持っているわけではなくてそこらじゅうで権力闘争は繰り広げられている。私は、そういう人の提供する場で嫌な思いして荒んだ気持ちになるのは自分が辛いし、私が辛いと周りに優しくもできなくなるからそういう人には意見だけしてあとは様子見。意見しても何も変わらないし、強気でなにか言われたりするだけだけど意見しておかないといつのまにか同意と見做されるからそれは人として嫌。そんな面倒くさいことに関わらずにのんびり生きていきたいがそれは子供に優先されるべきこと。周りの人たちがせめてそうできるように、と思う。そしてやっぱりいろんな人と会って、聞いて、話して、ということをきちんと続けていこうと改めて思った。自分の欲しい言葉が自分のペースで与えられないと排除の心が動くような大人にはなりたくないしなってほしくない。子供のうちはいたしかたなくそうなることがあるからそこにはたくさんの守りが必要。お隣の国の本をたくさん読める時代に間に合ってよかった。そうそう、10月は演劇も2本見られたし、きちんと文化の秋楽しんでる。でも10月もあと10日。困った困った。北海道はもう雪なのね。寒くなると身体がつらくてどこにも行きたくないし何もやりたくないってなるから秋のうちに色々がんばれたらいいな。今週もがんばりましょう。

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あれはなんだったんだろう 精神分析 読書

身じろぎ

お寺の鐘が鳴っている。なんだかちょっと掠れたような。ちょっと頼りないような。

昨日書いた心と法の具体例みたいな案件が上がっていて驚いた。それにしてもSNSは、という感じはする。「名誉毀損」の重みって、とも思う。例えば慰謝料請求とかの場合、関係のプロセスで相手と直接コミュニケートできない状態だからと本人に請求するのではなく会社にとかしてしまったら逆に名誉毀損で訴えられる場合があるわけでしょう。どっちにしてもお金以外の解決は見込めないし。法って本当にうまくできてると思う。心の問題として考えるととても残酷とも思う。

「権力をいかに見定めるかによって女が被害者にも、加害者にも、抵抗者にも、抑圧者にもなりうることを示してみせた」

もろさわようこ『新編 おんなの戦後史』(ちくま文庫)の解説で斎藤真理子が書いている言葉だ。本当に女の位置ってこういうことなんだと思う。この本の刊行イベントでの話も興味深く関連の本も読んだ。今年はジェンダーに関する本をたくさん読んだ気がする。内容はあまり覚えていないが多く読むとさっき読んで納得していたあの説にはこういう背景とか反論があるのかとか知れるからそんな偏った取り入れにはならずにすんでいるのではないかと思う。きちんと後から使えるように読めばよかったと今は思うが、日々の幸福と苦悩をまずはじっと自分の中にとどめるための無意識的努力だったと思う。表現するならSNSなどではなく直接相手にと思っても自分自身の抑圧と相手からのさまざまな水準の圧力で言葉にできないという体験も多くした。いまだに「身じろぎできない」体験をするんだと自分でも驚くほどダメージも受けた。「身じろぎ」という言葉も斎藤真理子が取り上げたもろさわようこの言葉だ。「相手あること」については「あれはなんだったんだろう」という題名で書いた文章で何度か触れたと思う。あれはなんだったんだろうという問いは自分のこととなればたとえ事実を周知したとしてもなんの答えも得られない。

「みんなはどうしているのか」仕事でもよく聞く言葉だ。でも二者関係を第三者に開くことは問い自体を別のものに変えてしまうだろう。みんなではなくあなたであり私だ。もうそこに相手はいなくても「相手あること」なのであり引き受けるのは私でありあなただ。あまりに苦しいけど迫害的にならずそのせいで攻撃的にもならず耐える必要がある。構造の問題がすでにあるのは明確でも「名誉毀損」という法的判断は両者に同様に適用されるのが現状であることを思えば「賢く」動く必要がある。それについて考える自由は奪われていないのだから。

「行動」ではなく「言葉」で、というのは精神分析の基本だが言葉にしたら行動化への衝迫に駆り立てられるのもまたよくあることだ。どこまでとどまれるだろう。そして再び「身じろぎ」から始めることはできるだろうか。

今日も一日。実際にはもういない「相手」が残した問いに沈みながらであったとしても。