毎朝迷うほどの種類のお茶が我が家には今ある。今日は寒くなるのではなかったか。まだ寒くない。昨晩は帰るときは行きの服装では寒かったのでいつもリュックに小さく詰めている薄手のダウンを羽織った。冬の間、暖房効果のためにというより外はまだ暗いだろうからとカーテンを開けずにいたが今も開けていない。今外はどんな感じなのかな、というのをカーテンの向こうの気配から推測する遊びをしている、心の中で。まだ暗いと思ったらめっちゃ明るかった、夜明けがこんなに早くなってる!とかはまだ全然なくてむしろ逆で日が長くなってきたと思ってたのに朝の空はなんだかどうしたいのかな、という感じ。冬の朝の方がすっきりしてピンクとブルーの混じり合いと凍てつく雲がきれいだった。晴れが多かったからだろう。今、晴れが腫れとなっていたのに気づいて直したのだけど最近どっか腫れたっけ、しかもそれどっかに書いたっけ。腫瘍という言葉は使った。あと書いてないけどこの前松屋でシュルメクリだっけ、あれを食べたらあれグツグツさせながら出てくるのね、びっくり。いつ食べればいのだろう、と思ったけどお店の人から何も言われなかったしいつでもいいのだろう、でもこのグツグツ怖い。どうしよう、と思ってグツグツがおさまってから食べたのだけどあちちであった、案の定。なのに一度食べ始めるとなんか止められず途中口の中の上の方がプクって膨れたから焦った。またやってしまった。口の中の火傷。口の中だから治りは早いだろう、と思ってしまう私は甘いのだろうけど怖いは怖い。氷の入ったコップを手に取り氷だけ口に含んで冷やす。一体何をしているのだろう、カウンターだけのちっこい松屋でいろんな人の出入りを眺めながら。この日は隣の席の男性がバッグで1席取っている上に逆側に長い足を不自然に伸ばしており3席分を占めていた。足が邪魔という感じの長さがなんだか羨ましい。私がバッグの隣に座ると何かをしてくれようという動きをするのだがこの松屋の椅子は動かないのよ。ありがとう。なんだかいっぱい食べていたな、そんなに細いのによう食べるのう、と思っていた。小さくカーブしているカウンターだから視界に入るのよね。そうそう、シュクメルリの正しいお名前を調べよう。お!あってるじゃん!松屋でラジオだか掲示だかで「これで忘れないよ」みたいな感じで名前の説明があったおかげかな。自然にそれに従っていたのかな。私は本当に固有名詞覚えられないからなんだか嬉しい。この前なんてなんだっけな、ああ、忘れた。ずーっと勘違いしていてその食材の専門店だと思っていたら読み間違えていただけで注文するときにその食材のを頼むときに「○○にきたんだから食べないとね」と言ったら「だから○○ではないって」と笑われた。みんなでやりとりしてる時からおかしいなと思っていたけどまさか今の今まで間違っているとは、と呆れられつつそれをいただいたのだけど肝心の○○が思い出せない。これは間違える人いるでしょ、と言いたいのだけど。まあいいか。なんかすごいどうでもいいことを書いているね。資料プリントアウトしていきますよ。今日は東京は雨っぽい。みんなの住んでいるところはどうかしら。鳥たちはお元気らしい。私たちもなんとかがんばりましょう。
ちなみに今朝読んだブログ。
PRE-OEDIPAL FREUD AND THE LOST SIBLING
Author: Mary Adams
ここで著者はThe trauma of being a replacement childに注意を促す。長男を失ってすぐの両親から生まれたジェイムズ・ジョイス、生後すぐに亡くなった姉をもつルイーズ・グリュック、そして一歳のときに弟を亡くしたフロイトなど語られない喪失を体験した家族のなかで彼らがなにをどう表現したかなどが書かれている。
Why is the concept of the ‘replacement child’ not more widely used?
とあったが日本の臨床では神話的にも焦点化されやすい部分だと思うけど用語としてはどうなんだろう。「代わりの子」?「取替子」だと意味が違うし「生まれ変わり」もなんか違う。私もその文脈で症例つきの論考を書いたことがあるがそのような用語としては使わなかった。ちなみに書いたのは「こころに寄り添うということ 子どもと家族の成長を支える心理臨床」の「第5章 親子並行面接という協働」です。