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岩川ありさ『物語とトラウマ』とか。

朝焼けがきれいだったが、今は日射しはおさまっている。ショコラの香りがする熱い紅茶をいれた。

私には大切な本がたくさんある。今朝は、そのなかでも最近の本について書く。といっても、私の「最近」はここ20年くらいだが。家、学校、友達、バイト、大学、社会と世界が広がっていく中で読書体験はどんどん変容していった。そこには連続性もあるが断絶もある。子どもの頃はやはりまだ時間があった。その頃に出会った本から受けた強烈なインパクトを今の私が感じることできるとは思えない。

それでも本を読み続けているので、今朝は私にとってはとても最近の本について書く。トラウマの記憶について、いつも参照するのは中井久夫『徴候・記憶・外傷』(みすず書房、二〇〇四年)でだが、岩川ありさは『物語とトラウマ クィア・フェミニズム批評の可能性』(青土社、2022年)において、中井が同書で述べたトラウマの記憶を整理して使用している。自身のトラウマの記憶を「語れば癒える」という素朴な物語の回復の話にはしない岩川が、そこで呈示しようとしているのは、物語そのものではなく、物語がずれ、ほつれ、読み替えられ続ける可能性である。可能性を語る岩川の丁寧な論じ方は精神分析的な考え方との親和性も高いように思う。実際、岩川は、「フロイトは、ある出来事がトラウマとして認められるのは外傷に因果関係が発見された後であるという「事後性」についても指摘している」と「事後性」(Nachträglichkeit)もとりあげている。

岩川は「事後性」の「事後」が生じる瞬間を心と身体すべてで体験している。そして、その経験と研究や理論の言葉とを切り離さない。そこには、自分の体験を外へ開くという熾烈な試みがなされる場で必要なことが書かれているように思う。自分の心を守りながら、それでも外へと開いていくための言葉、なかでもその文法に焦点をあてる岩川の方法は、多くの読者の助けになるのではないか。

岩川が言う通り、「精神医学や心理学におけるトラウマ研究では、「非物語的なトラウマの記憶の物語への変容」という課題に対して、語りえぬものの領域や夢へのアプローチを欠かさないできた」。岩川は物語の力を以下のように述べる。

>物語は、自分をかたちづくると同時に、自分を縛りつける枠組みでもある。しかし、それと同じくらい、自分の生を規定しようとする力に抗い、支配的な物語のあり方を解きほぐすよりどころでもある。

>人生のそれぞれの段階において、物語の受けとめ方は変化し、新たな読み方の可能性が生まれる。支配的だと思っていた物語のほつれ目に、思いもよらない手がかりを発見することもある。

岩川は新しい物語とか、正しい物語があるとはいっていない。むしろ、物語と暴力について書いてきた内藤千珠子の姿勢を引き継ぐ。

>さまざまな事件を「物語の定型」に乗せて流通させ、消費し、その型を反復するときに生じる暴力の危険性に言及し、「物語が定型と化してゆく過程で生じた、いまでは忘れ去られてしまった意味の軌跡」をたどり、「細部に反響する声」を拾い集めようとする。

岩川も「細部に反響する声」を知りたいと願う。

そして、竹村和子の「ずれ」についての記述も合わせてこう述べる。

>同時に「集合的な物語」が「参照の枠組み」となりつづけ、そこから逃れられる人はいないことも竹村は示唆する。だが、竹村は、かならず「普遍的なものを個別的に実践するとき」、「ずれ」が生じるという。

>(物語がずれてゆくところにこそ)個別の物語が持っている可変力がある。それと同時に、普遍的とされる価値観や社会の規範、社会のあり方を変容させる可能性も物語のずれには生じうる。

>本書で私が見出したいのは、「ずれ」がいかにして小説のなかで起こりうるのかであり、トラウマ的な記憶について語る定型の物語を少しずつずらそうとする言葉の働きの探求である。

私たちは、普遍的、集合的な物語から完全に外に出ることはできないと感じるかもしれない。しかし、実際は、それぞれが生きる現実は多様であり(当たり前だが忘れられがち)、それを個人が生きるたびにその物語には必ず「ずれ」が生じる。その個別的なずれが逆に集合的な物語を変えていく可能性を持つ。

私がここで何度も書いてきた「概念と実践」の問題にもかなり近い発想だと思う。概念を捨てれば自由になるわけではない。概念なしには経験を考えることもできない。しかし、個々の臨床実践が概念にぴったり収まらない。その収まらなさを誤差として消去せず、概念の側を変化させる契機にする。岩川が文学について述べていることと似た構造がある。

「細部に反響する声」をこそ、私は知りたいと思う。
という言葉にも私は強く同意する。

今週発売になる『精神療法』第52巻第5号「大人の自閉スペクトラム症(ASD)の精神療法」 のReview of Books Abroadの欄(未邦訳の本を紹介するページ)でAnat Tzur Mahalel著Reading Freud’s Patients : Memoir, narrative and the analysand を紹介した。Anat Tzur Mahalelはフロイトの患者の回想録を「精神分析文学」として文芸批評の対象としたが、そこでも患者を単なる「フロイトの患者」という型にいれない慎重さを感じた。彼女の視線も岩川と重なるところがあるように思う。

共にいるからといって、共著者にはなれない。その人が自分に起きた出来事と共にあることができるように、聴き手にも読み手にも注意が必要である。

岩川は言葉のある側面について柔らかく記述する。

>ある光のようにして、たがいがたがいを支えあうような言葉の回路が「傷」を通して開くことがある。その瞬間を本書では捉えたい。自分でも把握することができないトラウマ的な出来事は、他者の物語や証言と出会うことによって、これが私に起こったことなのだという認識をもたらすことがある。トラウマについて語ることは困難さをともない、語りを聴くにも十分な準備が必要となる。語り出すまでの沈黙、叫びや息づかいに注意深くなり、時間をかけて言葉を待ちながら、トラウマについて語る人と聴く人との言頼関係をたがいに築き、傾聴することが求められる。

意識されることは少ないかもしれないが、私たちは、切実な体験をたやすくひとつの物語に回収してしまわないために、それぞれになにかしらの抵抗をしてきたのだと思う。語らなかったり、忘れたり、同じことを何度も思い出したりしながら。今日もそういうことを思い出したり、忘れたりしながら過ごすのだろう。岩川ありさ『物語とトラウマ――クィア・フェミニズム批評の可能性』(青土社、2022年)、ぜひ読んでほしい一冊である。

スイセン

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精神分析 精神分析、本

自転車と親子並行面接

オフィスのそばの自転車屋さんへ行った。学生時代に新宿で買ったマウンテンバイクもどき(マウンテンバイクなのかも)はもはや枠組以外残っていない。長い年月を経て様々な部品を交換しながらも原型を保っているこの自転車がちょっと愛しい。最近、ずっと乗っていなくてごめん。

枠組みは大切だ。

2020年、私が子どもと親御さんの心理療法を行っているクリニックのメンバーで本を編んだ。『こころに寄り添うということ 子どもと家族の成長を支える心理臨床』(金剛出版)という本だ。院長を中心とした日々の試行錯誤を仲間たちとこうして形にできたことは喜びだった。それぞれがそれぞれの技法でそれぞれの患者と実践を積み上げてきた痕跡がそこにあった。

私はそこで親子並行面接を取り上げた。「クリニックにおける心理療法の実際」の「第5章親子並行面接という協働」という論考である。社会人になってはじめて勤めた教育相談室時代からこの枠組みはずっと私の実践にある。多くの親子の「子担当」、あるいは「親担当」になり、私は先輩方と協働していた。慶應心理臨床セミナーに出始め、児童精神科医にスーパーヴィジョンを受け始めたのもその頃だ。まだ「親子並行面接」そのものを問うてはいなかった初期の初期。

その後、20年、実践を重ねるにつれ、この枠組みの意義について疑問を持つことが増えた。教育相談室をやめたあとも親子の心理療法を担当する場は持ち続け、この枠組みとはともにあった。今回論考を書くにあたり、テーマはあっさりと決まった。

昨日もここで、精神分析は、こころのなかに複数の人を住まわせる作業だと書いた。私は、集団をひとつのパーソナリティとみなすと同時に、個人のパーソナリティを複数の自己と対象からなる集団とみなす、というビオンのアイデアを援用し、親子並行面接という枠組みを見直してみた。

親子並行面接はこころの複数性に形を備えたものであり、それぞれが緩やかにつながりを維持することで、子どもと親のこころが安全に重なり合う場として空間的に機能する、というのが私の概ねの主張であり、論考ではそれを事例を用いて示した。

店には美しいフォルムのかっこいい自転車がたくさんあった。私の古ぼけた自転車も当時はそこそこ素敵でたくさん褒めてもらった。スクールカウンセラーをしていた学校の嘱託の先生は自転車乗りで、私の自転車を気に入ってくれてメンテナンスの仕方を色々教えてくれた。一緒に100キロ走ったこともある。若かったな、と今思ったが、彼は当時すでに還暦を過ぎていたわけで、若さの問題ではなさそうだ。

「これとっちゃっていいですか」若い店員さんの声に振り返る。手を黒くして作業してくれている。すでに本体のない台座を彼は指差していた。昔つけたスピードメーター、そのセンサー、最初につけたライト、2番目につけたライトなどなど。台座という痕跡が本体の記憶を蘇らせ、思い出を再生する。こんなに痕跡を残したままだったんだ。少し可笑しくなって笑いながら答えると店員さんもつられて笑った。

タイヤもサドルも当時とは違う。なのに見かけは当時のままだ。だいぶ黒ずんだけど。強固な枠組みは痕跡を抱え、私の年月を抱え、思い出を作ってくれた。私はこの自転車でとてもたくさんの場所を走った。昨日も自転車をとめては降りずに写真を撮った。曇り空の向こうに残る水色の空と夕焼けがきれいだった。

オフィスのある初台は昔住んだ街だ。当時とは街並みも変わった。商店街の名前は当時のままだ。あの頃から乗り続けているんだな。あれから何人の人と出会い、別れてきたのだろう。

これまで出会ってきた親子の多くはもうすでに別れているだろう、物理的には。当時子どもだった彼らはもうすでに子どもではないのだろう。当時すでに親だった彼らはきっといまだに親であり子どもでもあるのだろう。

私は教育相談室時代の仲間と今も緩やかにつながり、コロナ禍においても支えあった。私たちは彼らとの共通の思い出がある。いろんなことがあった。この論考も読んでくれた。まだ同じことを考え続けていることを褒めてもらった。論考に「協働」とつけたのはまさに彼ら彼女らとの仕事がそうだったからだ。

私たちは親子、あるいは大人と子どもという枠組みを維持したまま世代をつないでいく。緩やかに繋がりながら痕跡を残し、壊れたり、壊されたり、修復したり、捨てて新しくしたりを繰り返しながら日々を過ごしていく。この自転車ともいずれなんらかの事情で別れるのだろう。もう危ないからやめなさい、と言われまではメンテナンスを繰り返していろんな道を走りたいと思う。

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精神分析、本

『ピグル』

Twitterで東畑開人さんが、青山ブックセンター本店のブックフェア「180人が、この夏おすすめする一冊」で北山修先生の『心の消化と排出』を挙げていた。北山先生の本から「おすすめ」を選ぶとしたら私もこの本を選ぶ。「夏」っぽいとは思わないけど。

北山先生の『錯覚と脱錯覚』も私に大きなインパクトを与えてくれた。ウィニコット の『ピグル』とセットで読むべきこの本も「夏」かといえばそうでもない。

2歳の女の子とおじいちゃん先生ウィニコットとの交流が描かれた『ピグル』、16回のコンサルテーションの間にピグルは5歳になった。最初は1ヶ月に1回、二人が会わない時間は少しずつ増えていく。それでも1年に3,4回というのは私が保育園巡回に行くペースだ。3歳、4歳ともなればその頻度でも「また会えたね」となる。

ウィニコットはピグルと会わなくなった4年後に亡くなった。これからを生きる子どもと死の準備をする大人。妹の出生によって母親の不在を体験したピグルはウィニコットを一生懸命使い、持ちこたえ、生き残るウィニコットを発見し、「私」とも出会っていく。ピグルの名前はガブリエルだ。

1964年7月7日、6回目のコンサルテーションの冒頭、ウィニコットは「今回は、ピグルではなく、ガブリエルと言わなければならないとわかっていた」と書き、そこからの記録はすべて「ガブリエル」に代わる。そして帰宅したガブリエルも母親に「ウィニコット先生に、私の名前はガブリエルだよって言いたかったの。でも先生はもう知ってたの」と満足そうに言った。母親からの手紙でウィニコットはそれを知る。

子どもの治療の重要な局面だ。二人は通じ合っている。

夏の休暇前のセッション、「私はサンドレスと白いニッカーズを着てたの」とひなたに仰向けに寝転がるガブリエル、私はこの場面が好きだ。子どもが安心して空想に浸れること、複雑な情緒を体験する場所はいつもこうして開かれている必要がある。

そして夏の休暇後、二人がはじめて会う7回目のセッション、ガブリエルは「ウィニコットさん」とよそよそしい。「先生」ではないウィニコットの休暇に対する抗議のように「だれにも一緒にいてほしくなかったの」とひきこもっていた自分を知らせるガブリエル、このとき、彼女は3歳になったばかりだが、大きくなった。ウィニコットの記録を読むとそう感じる。

精神分析は週4日以上会っているので休暇の意味は大きい。たまにしか会わなくても会えない日々のことを想うのだから、この二人のように。

いない人のことを想う。いたはずの人のことを想う。そうやって描かれる私たちは大抵いつも現実と違うけれど、想うことだけが私たちを生かすこともある。

この夏、『ピグル ある少女の精神分析的治療の記録』(ドナルド・W・ウィニコット著、妙木浩之監訳、金剛出版)を読んでみるのはどうだろうか。彼女が青い瓶を目に当てて「ウィニコット先生は青いジャケットを着て、青い髪をしているのね」というように、本を読むことで(もはやなんの本でもいいかもしれない)この暑さを違う色に染めてみたり、2歳の頃の目で世界を見直してみる。この夏は、そんな旅もいいかもしれない。

(翻訳作業についてはオフィスのサイトに少し書いてあります。)