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料理 精神分析

スパイスとか。

うっすら朝焼けがきれい。朝焼けは雨、夕焼けは晴れというけど、このくらいの薄色だと朝焼けとは呼ばないのかしら。今日の東京は一日晴れの予報みたいだし。

昨日、突然、クミンシードを使ったおかずを思い浮かべ、今すぐ帰って作りたい!となった。スパイスは使い始めると楽しい。植物と同じくスパイスも全然覚えられないけど、私が使うのはクミンパウダー、コリアンダー、ターメリック、チリペッパーが主で、クミンシードとシナモンが時々登場という感じなので簡単。中華料理の香辛料も大好きだけどあまり作らないからまだ賞味期限内に使い切ることができないなあ。北京、広東、四川、上海だと四川が一番美味しい、と若い頃に勤めていたクリニックの先生が言っていてよく連れていってくれた。休み時間まで気使うのはみんな嫌だったのでなんとなく顔を見合わせるときもあったけど自分でお金を出せるような店でもなかったから時々ついていった。美味しかったと思うのだけど、四川が一番美味しい、という言葉の方が残っている。昔、近所に北京料理の店があって安くて美味しかった。中国語が飛び交う古くからの店で、小さいのに中華街みたいな店構えだった。出前もやっていてとても使い勝手がよくありがたかった。どうしてなくなっちゃったのか。同じ名前の店は見るけどチェーン店ではなかった。と書いていたら中華料理が作りたくなった。東京で一人暮らしを始めるときに親が暮しの手帖版「おそうざいふう中国料理」という本をくれた。これ実家にもあって装丁も素敵で眺める本として馴染んでいたから嬉しかった。でも「サッと湯通し」とかも面倒だったし、揚げ物レシピが多いイメージがあってどうも火を使うのに適さない私には眺める以上の価値を見出せなかった。今見ると全然そんなことなくて、出来上がりの美しい写真とそこに向かう工程が数字つきではなく、ただの●の箇条書きでですます調の文章で説明されている様子は上品で素敵。「冷めたら、二枚にへいでから」とかいう表現も好き。普段「へぐ」って使わないから。料理の仕方だって今は揚げ焼きで油の量も少なくて大丈夫って学んだし、面倒さを解消する工夫はそれこそたくさん料理してきた人たちがたくさん開発してくれているから合わせて使っていけばいいのよね、と気楽にどんどん取りかかるようになったのは随分歳を取ってから。色々億劫がる余裕があったのだろうね、若い頃は。それはそれで大事だった。最近、また大学時代の友だちと集まることも増えているからダメダメな頃を笑う機会も増えることでしょう。

そうだ、フロイトの「治療の開始について Zur Einleitung Der Behandlung」(1913)について今日もメモるけど、そういえばボラスの『終わりのない質問』第4章「耳を傾けること」の冒頭でも引用されていたな、と思ってパラパラした。この論文は精神分析における耳の使い方を考えるときの必読論文だと思っている。「平等に漂う注意」というやつ。

「精神分析を実践する医師への勧め」(1912)からボラスはこちらを引用。

「医師は、自分の注意力に由来する意識的な影響はすべて差し控えて、自分自身の「無意識の記憶」に完全に自らを委ねるべきである」「医師は単純に耳を傾ければよいのであり、自分の心の中に何かを留めることに煩わされてはならないのである」

これってどういうことか、というお話。もう時間がなくなってしまった。今日も美味しいもの食べてがんばろう。

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精神分析

お手伝いとか精神分析とか。

風が気持ちいい。昨日は弱雨が降ったり一時的に寒いくらいだったり陽射しで暑くなったり強雨になったり空も大忙しだった。私もハードだった。書き物が全く進まない。でも身体を使いながら感じることも多く、この年齢になってわかることの多さ、この年齢までとりあえず生きてこられた幸運さなどを思うと同時に「お手伝い」を健やかになせる自分でありたいと思った。動けない人の代わりに動いている過程で出会うその人に関する評価とか出来事とかもあたたかく胸に留めたい。「ケア」とかとは違う「お手伝い」のなにか。それを大事にしたい。

精神分析を始めると親を知ろうとする動きが増える。自分を知ろうとすることは環境を知ろうとすることでもあるのだろう。頻回の設定でカウチに横になると自分でも「え、なんで?」「ずっと忘れてた」という記憶が次々と出てきたりする(それを言葉にできるかはまた別の話)。それは直ちにじぶんごととして語れるおものではない。ボラスの言葉でいえば乳児だった私たちは自分は最早期から人間的な過程の内部にいることを知っているし、それを変形性状況と認識するからこそ、変わりたい(最初は(相手を)変えたいだったりする)という欲望を持って分析の場を訪れるともいえる。だからかどうか、親と関われる状態なら色々聞いてみたくなるし、もう話せなくても次々に思い出される記憶と対話が始まったりもする。設定の力は大きいし、言葉の拘束力も可能性も大きい。

現代の精神分析は心の中の自己表象や対象を欲動、情動、記憶などが連動した力動的過程(退行を含む進化か)と見做している。私がオグデンやボラスを読むのは内的あるいは内在化された対象関係と外的あるいは外在化された対象関係の動きの詳細に関心があるが、欲動理論をそれと分けて考えるのも違うと思うのでフロイトの構造論を再検討しつつ主体が対象と、あるいは対象になしていることを論じるアンドレ・グリーンの存在も重要となる。フロイトは素朴な対人関係の記述はするが心的構造の記述に対象関係の文脈を持ち込むことはほとんどなかった。しかし『喪とメランコリー』の有名な一説に示されるように、動機づけ原理となる欲動に対する対象の影響力を無視していたわけでもない。しかし、内的な対象と対象関係を欲動論に付け加えたのはフェレンツィ以降だろうし、現実の対象との同一化に注意を向けることを強力に打ち出したのは小児科医でもあったウィニコットである。では、精神分析を特徴づけてきたエディプスコンプレックスはこれらのどこに位置づけられるか。私はエディプスコンプレックスという概念は今も今後も有効だと考えているが、それを発達的な観点でどこに位置づけるかは、環境の位置付けと同様、難しいものがあるなと感じる。精神分析は言葉と言葉のやりとりだが、この言葉が機能している水準というのを私は最も重視するし、それは情動が喚起される瞬間を正確に読み取っていくことと関係している。

こういうことを書いている間に先日思い浮かんだアイデアを思い出せないかなあと思っているのだが全然蘇ってこない。私ももう一度カウチに戻れば浮かんでくるだろうか。そんなことはないな。そういう水準で言葉は使われなくなっていた。今思うとカウチでのアウトプットはまさに記憶なく欲望なくとなっていった。これは分析家側の体験とも一致してると思う。分析状況は夢見の場でもあるが、その場合の夢とはなにかについても考えが変わった、というよりビオンがすごく読みやすくなる程度には体験を積み重ねられた。最初の数年間のあれはなんだったんだろう。偽りの自己との戦いだったか。過ごす必要のあった時間には違いないがきつかったな。しかし患者になることで知ることの多さたるや。もちろん知るべき、とは全然思わない。大抵の場合、それをしたい人がすればいいことばかり。「お手伝い」も大抵の場合はそう。が、しかし、となってくるとまた難しいことがたくさん。ケアとかなんとかいう言葉を使うことが増えそう。

オグデンの引用をしようかと思ったけど時間がなくなった。今日も少し雨が降るらしい。良い一日になりますように。

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精神分析 精神分析、本

パウンドケーキ、ボラス“Being a Character”

朝はだいぶ涼しくなってきた。まだ時折アブラゼミの声が聞こえる。鳥たちも元気。この前、近所でオナガが大きな声を出していた。山とは鳥の鳴き声もずいぶん違って聞こえる。

大きなトラックが通り過ぎた。この道を通るのは早朝から長距離を移動するトラックではないと思う。昨日の昼間も秋だなんて嘘だみたいに暑かった。日中の同じような時間にいろんな配送会社の人が汗だくで大きな荷物を走るようにして運んでいるのをみながら大変だね、ありがたいね、と話すことがいつもより多かった気がする、この夏。

季節ごとに届くパウンドケーキ、秋はハーブとスパイスのパウンドケーキと丸子紅茶のパウンドケーキ。この丸子紅茶はとっても美味しくてケーキにしても香りがとてもいい。

また余裕のない平日となり、日曜日に考えていたことがどこかへ行ってしまった。日曜の間にやっておけばよかった。

引用しないと決めたChristopher Bollas(クリストファー・ボラス)をちょこちょこ読んではいる。文学として魅力的でなんとなく読んでしまう。

例えばBeing a Character: Psychoanalysis and Self ExperienceのIntroductionの冒頭をなんとなく訳すと

>私たちは皆、ある特定の香りが、まるで子ども時代の遠い村から呼びかけてくるかのように感じられる、あの胸を打つ瞬間を知っている。過去へ手を伸ばし、遠い昔の自己体験のエッセンスに触れられるかのように。人生のとても特別な時期に流行した音楽を耳にしても、呼び起こされるのは単なる記憶というより、イメージや感情、身体の鋭敏さに満ちた内的で心的な星座である。たとえ「この匂い、子どもの頃、うちの庭にあった花の匂いだ!」と誰かに言葉で説明しようとしても、内的体験の質感を伝えきることはできない。

みたいな。プルーストやシェイクスピアが偉大なのはもちろん、それを自由に取り込んで精神分析理論と重ね合わせて書く仕方が魅力的。おお、マドレーヌ、とパウンドケーキを食べながらでも喚起される香り。

ちなみにボラスがここで書いているのは、単なる対象としてというより過程として重要性を持つボラスが変形性対象(transfomational object)と呼ぶもののこと。この部分は国際精神分析学会(IPA)が無料で提供しているIREDという事典の日本語版でもすでに訳されている。そこから引用する。

>>Bollas(1987)は、母親が「全体的な対象として幼児にとって人間化される」前は、「母親は変形の領域あるいは源として機能している」と主張した。したがって、「母親は、他者としてまだ十分に同定可能ではないが、変形の過程として経験される。そして、この早期の存在の特徴は、大人としての生活の中で、 対象が変形のシニフィアンとしての機能のために求められる時、対象希求の特定の形式において生き続けている。」(1987)

Bollas の「対象の統合性」については、Bollas(1992, p4)は次のように書いている。これもIntroductionの一部。

>>かなり驚きなのであるが、対象関係論では、個人の投影のコンテ イナーとして見なされている対象のもつ際立った構造にほとんど思考が向けられていない。確かに対象は私たちを持ちこたえてくれる。しかし、十分皮肉なことに、まさに対象が私たちの投影を保持してくれるからこそ、一つ一つの対象の構造的特徴がさらにより重要になってくるのである。と言うのも、再経験の際に、 自身の自然な統合性に従って私たちを処理してくれるコンテイナーに、私たちは、 私たち自身をも預けるのだから。(引用ここまで)

そうそう。対象と環境の関係について表現する際にはここを押さえておきたい。精神分析の事典となるとここしか引用しないけど、このあとのボラスの表現に私はむしろひかれる。次は私の直訳だから間違っているかもだけどメモとして書いておく。ボラスが続けて書くのはこんな感じ。

>たとえば、思春期初期に野球の技に由来する喜びの感情をシューベルトのハ長調交響曲に投影し、同じ週にガールフレンドへのエロティックな反応をサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』に投影したとしよう。大人になってこれらの対象に出会えば、そこに蓄積された自己体験が喚起されるだろう。

良き。とか言っていないでやることやりましょう。どうぞ良い一日を。

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Netflix テレビ 精神分析 精神分析、本

ドラマ、Mac、HOKUSAI、ボラス

夜中、雨の音で目が覚めた。今も結構降っている。ひどくならないといいがほかの地域はどうなんだろう。

今朝は野木亜紀子脚本の「連続ドラマW フェンス」をみていた。昨年映画「ラストマイル」をみて、それを楽しめるように関連ドラマ「アンナチュラル」「MIU404」もみた。どれもおもしろかったけど「ラストマイル」はそういう準備もして、かつ映画館で見たから面白かったという感じかも。昨年だったら友達に勧められてみた篠﨑絵里子脚本(子鹿ゆずる原作、大槻閑人(漫画・作画)「アンメット ある脳外科医の日記」の方がよかったかな。テレビドラマだと女性の脚本家が活躍しているようにみえる。

それにしても私のMacBook AirOSはもうだめかもしれない。Apple Storeに行くと「ヴィンテージ!」と「今はここにこんなのないんですよ」とか嬉しそうに教えてもらえるが高値で引き取ってもらえるわけではなく故障したらしたで「もう部品がないかも」と言われ続けながらなんとか生き延びている。OSはMonterey12.7.6からアップデートできないので入れられないアプリも増えてきた。どうしよう。でもこうやって動くうちは使い続けることは決まっている。

映画『HOKUSAI』監督は橋本一、脚本、橋本一、河原れん、葛飾北斎の青年期を柳楽優弥、老年期を田中泯が演じ、この切替の仕方は大胆ながら自然。大河ドラマ「べらぼう」のおかげで私の中の江戸文化年表の基準となった蔦屋重三郎も登場。阿部寛が静かな迫力(背の高さだけでもインパクトある)があって素敵だった。それにしても田中泯の動きがとにかく素晴らしい。表情も含め、全部が躍動している。鬼滅を見ながらも思ったが筋肉を全部動かせたらいいのに。筋トレしていると驚くが、自分でコントロールしながら使っている筋肉のわずかなこと。それでも少しずつ使い方うまくなっていると思うけど。肩こりとかは全然なくなって美容師さんにも驚かれた。今日は台風のせいだと思うけど身体が変。頭痛には耳くるくるマッサージをした。耳も大事ね。身体はみんな連動して補い合っているはず。そういう部分のひとつひとつに注意を向けられたら器官言語みたいに多義性が上手に伝われる言葉を紡げるのかもしれない。

昨日、クリストファー・ボラスが読めない、ということを書いたが、ボラスの精神分析以外の仕事に目を向けると、あ、なんか読めるかも、という感じになり、少し読み進めた。ボラスのいう
The Evocative Object はウィニコットの移行対象の変形だと思うが、より動的で情動に関わるものらしく、ウィニコットの使うingをくっきりと浮かび上がらせる対象のように思う。ボラスとグリーン、ボラスとオグデンをつなぐのもこういった対象の機能なんだろうな、と思うとなんかわかる気がする、という感じになった。ボラスもオグデンもアメリカにしっかり根ざしているのに英国精神分析に馴染んでいるというところに独特の香りを感じるのかもしれない。英国精神分析は豊かだよね。

ということで今日は台風に気をつけつつ過ごしましょう。