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精神分析 読書

三木那由他さんの本とか。

日の出がすっかり早くなった。5時くらいに暗さが抜けて青くなって白くなってオレンジがかって眩しい白になる。空は面白いな。

昨日『女の子のための西洋哲学入門 思考する人生へ』 メリッサ・M・シュー+キンバリー・K・ガーチャー=編 に少し触れた。若者に向けたメッセージのような本でもあるので教室の本棚や図書館などにおいてほしいし、周りの人とも共有したい。

言葉の治療である精神分析における言語の使用は私が最も興味を持って勉強しているところ。なので私は第12章「言語──コミュニケーションでの集中攻撃(パワープレイ)」 エリザベス・キャンプ/三木那由他訳を特に面白く読んだ。言葉の使用について色々と知っておくことでコミュニケーションをメタで考えられるのでセッションで生じたことを振り返るときにも必要。この章の訳者の三木那由他さんの本もとてもいい。私にとってとても新鮮だった。全部持っていると思う。『女の子のための西洋哲学入門』について書いたついでになんとなく『話し手の意味の心理性と公共性』(勁草書房)をパラパラした。この本は「共同性基盤意味論」という見方をとてもわかりやすい文章で教えてくれる。日常言語やコミュニケーションの聞き方、話し方の可能性を広げてくれる。この本で印象的だったのは「べき」論になりそうなところを丁寧に回避しているところ。書いていることと書き方が一致している文章はスムーズに読める。こういうのを読むと研究者ってすごいなあ、と思う。今は本当に易しい本が増えて勉強がとても楽になった。ありがたいな。

今日もいいことありますように。

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精神分析 読書

筋トレ、「女の子のため」

起きたときは東の窓がオレンジの光でいっぱいだったのにもう白っぽい光になってる。世界はいろんな時間帯にあって、コロナで当たり前になったオンラインの色々では「おはよう、こんにちは、こんばんは」を全部言ってから始まるようになった。大体英語で。「こんにちは、あるいはこんばんは」はSPY×FAMILY。スパイは朝は活動しない、というわけではないか。今日は暑くなるみたい。重すぎない重ね着にしよう。

腰が痛い。いけない。筋トレで無理があったのかな。負荷も増やしていないし、いつものサーキットしかしてないと思うけど。でもかなりハードなことをしているから様子みて気をつけて過ごしましょう。バスケやバドやっていた頃にこういうきちんとした筋トレを積み重ねたかった。動きと効果がわかっていないところでひたすらきつい筋トレやフットワークをやっていたけどあれは成長期の身体にはあまり良くなかったと思う。小さい頃からサッカーがものすごくうまくて有名だった男の子の身体の成長を気にしていた友達は何人かいたから中学生なりに気にししていた人はいたということだな。今の子たちは情報は豊富だけど情報では身体は動かないという現実に出会いつつ自分の身体に合った姿勢や動きを身につける機会を得られたらいいと思う。

6月、日本精神分析協会(精神分析学会とは別の専門家集団です)の学術大会の申込締切まであと1週間。医師、心理士(師)、ソーシャルワーカー、保健師、看護師、作業療法士等、臨床上の守秘義務をお持ちのみなさま、4月15日までお申し込みいただけます。ぜひ詳細をご覧ください。

☆ご案内  https://jpas.jp/convention.html

☆お申し込みフォーム https://www.jpas.jp/convention_apply.html

私はパネルで「二元論を超えて」という大きいテーマを掲げてしまったけど、精神分析ってそもそも二元論を越えようとしてthe thirdみたいな対象を作り続けてきた学問だと思う。でもセクシュアリティの話になると性器一元論というか、男性の言葉中心だった。それは多くの学問がそうで、哲学の分野だとメリッサ・M・シュー+キンバリー・K・ガーチャー編『女の子のための西洋哲学入門 思考する人生へ』を読むとそういうこれまでとは別の思考へ導くヒントが満載。哲学の様々な領域の女性哲学者の論考が、日本の女性哲学者の言葉で訳されている。翻訳は、三木那由他+西條玲奈=監訳 青田麻未/安倍里美/飯塚理恵/鬼頭葉子/木下頌子/権瞳/酒井麻依子/清水晶子/筒井晴香/村上祐子/山森真衣子/横田祐美子。こういうチャレンジはとても大事だと思う。この本、分厚いけどひとつひとつの項目は30ページずつくらいだから読みやすいし、「女の子のための」という言葉についても丁寧に説明されているのでぜひ読んでほしい。もちろん男性にも。精神分析も世界中で女性分析家が増えているからこれまでの男性の言葉とは別の言葉で精神分析状況における患者を描写していく必要があるのだろう、ということでパネルを立てたがかなり難しい。書かねば。看護師の世界は女性の言葉と言っていいかもしれない。看護師の皆さんにもたくさん参加していただきたいな。私たちは精神分析実践で理論に貢献していくつもりだけど、臨床実践として精神分析を営む予定のない人にも思考の手立てとしてまだまだ活用できると思うのでぜひ。

今日もがんばろう。

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北村紗衣連載、『8 Mile』、『女の子のための西洋哲学入門』、NewJeans

朝焼けが始まる。細い月も東の空に。今朝は河口湖の金多留満(きんだるま)の富士山羊羹。京柚子味。包み紙では金多留満は「多」に濁点がついている。洋菓子みたいな包みなんだけど出てくるのは富士山。京柚子味は透明な黄緑。さっぱりな甘さで美味しい。あ、でも結構甘いかも。でも美味しい。なんといってもきれい。河口湖の定番土産。湖は囲いという感じでいい。琵琶湖くらい広くなってしまうと海みたいだけど遠くても先が見えるってなんか安心するのかもしれない。昔、バド部の合宿で行ったのは河口湖だったか、山中湖だったか。あの時みんなでもっと観光も楽しめばよかった。ひたすら練習をしていた。といってもサボり好きの(ゆえの)弱小チームだったからみんなでワイワイしにいっていた感じだけど。それでもひどい筋肉痛でフラフラになるくらいには練習した。その後、バド部はすごく強くなってしまったそうだ。あの頃の私たちはなんだったんだろう。隣のチアがマドンナの曲で準備運動をしているのに合わせて踊りながら打ったりゲラゲラ笑ってばかりでひたすら呑気だった。ある試合で私が相手のエースになかなか点をあげなかったら(といってもひたすら拾うだけのミス待ちで時間がかかるだけで着々と点は取られていた)相手チームが泣き出して(最初はこちらを笑ってたのに)かわいいユニフォームの女子大を舐めているな、同じ女子なのに、と思ったこともあった。弱小だからせめてユニフォームはかわいくしたのにそういうのがムカつくみたいな感じなのかしら。今はあんなの着られないから(シンプルな白のミニスカートタイプってだけだったけどね)着ておいてよかった。今またこの歳で筋トレはじめて数十年ぶりにひどい筋肉痛を経験しているけど今週は関節痛。痛みは増えるものだ。減らし方も学んできたが関節痛の対処はよくわからないから様子見。身体がなんとか健康を保ってくれますように、いうのが一番の願い。

前にも書いたけど『8 Mile』が公開された頃、私はアメリカが身近だった。ユニバーサル・スタジオ・ハリウッドのエスカレーターから大きなエミネムのポスターが見えた。『8 Mile』のエミネムはなんか弱々しくてどこか上品で私は大好きだった。その映画をフェミストで批評家の北村紗衣さんの連載「あなたの感想って最高ですよね! 遊びながらやる映画批評」が取り上げていた。さすが、プロは違う。

「デトロイトの自動車工場ってかつては全米をリードする、エネルギッシュなところだったはずですよね。それがいまや、隠れてこっそりセックスするようなしょぼい場所になっている……みたいな。」

たしかに。唸った。デトロイトといえば自動車工場だった、そういえば。当時の私は白人、黒人という軸は持っていたけど(自分もアジア人として差別されたからわかりやすかったのか?)、当時のアメリカの状況を政治的、歴史的、地理的な文脈(ほぼ全てではないか)で考えたことがなかったし、アレックスのことこんな風に考えたことはなかった。ラビットの母親のことは色々思ったがそれは女として、というより母親としてであって、というか母親は女でもあるという視点がどこか欠けていたと思う。精神分析が持つ父権性や母性を別の言葉で記述できないかという格闘をこうして内側ですることがなければずっと何も思わなかったか、口先だけだったかもしれない、と思うと恐ろしい。男たちの世界の当たり前を何も感じずに素敵素敵と言い続けることすらしたかもしれない。誰々にもいいところが、とか、そこじゃないだろう的な表現をしていたかもしれない。ということは当時、このような記事を読んでもあまりピンとこなかった可能性があるということだ。今、読めてよかった。

昨日、アガンベンを勉強しながら「なんか結局男の本ばかり読んでるよな」と思った。分析家仲間とは女が女の分析家の本を読む、ということを続けてるけど。お昼に本屋に寄ると『女の子のための西洋哲学入門 思考する人生へ』が並んでいた。メリッサ・M・シュー+キンバリー・K・ガーチャー編、三木那由他+西條玲奈監訳、青田麻未/安倍里美/飯塚理恵/鬼頭葉子/木下頌子/権瞳/酒井麻依子/清水晶子/筒井晴香/村上祐子/山森真衣子/横田祐美子、共訳の本。「女の子かあ」と思って捲るとすでにそこに抵抗を覚える人に向けた言葉が書いてあった。あえてこういう本を出していく必要があるんだな、まだまだまだまだ。しかし、こういうのだって女の心身をものあつかいするような男の本と並んでいたりそういう人が書評書いたりおすすめしたりするわけで「変わらないよね、世界」とまた失望する。しかしこういう本が翻訳されること自体に希望を持つ必要もある。自分のことは棚上げしないと仕事にならない、というのは実際あるけど重大な問題であるという認識が足りないことに変わりはない。まあ、私もそうだった、という話でもない。色々難しいものだ。自分はどうありたいのか、何を大切に生きていきたいのか、そういうことをずっと考えていくのが日常をかろうじて守るのだろう。

今朝もジョン・バティステの『Beethoven Blues』を聴いている。Be Who You Are で共演したNewJeansが大変そうだ。世界に認められた若者も守れないとしたらこれからどうするつもりなのだ。昨日はイマニュエル・ウィルキンスの口承音楽について読んで考えていたが当たり前の自由を必死に守るための音楽だけではなく、もちろんそこに潜在する自由こそがインパクトを持つとしても、若い世代がひたすら自分のために伸び伸びと発する音楽も早く聞こえる日がきますように。