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テレビ 精神分析

精神分析とかドラマとか

フロイトは科学の名の下に自分の発見に普遍性を持たせることを試みた。そしてそこには必ず患者がいた。その初期の試みのひとつが「心理学草案」である、ということをそれを精読しながら現代の精神分析も学ぶ私たちは実感しつつあり、そういう感想が出たりもした。そんなフロイトのあとに続いたのがラカンであり、ビオンであるが、昨日もビオンの自伝(全集1、2巻)の良さを本を見せながら語ってしまった。

WR・ビオン全集』(著作15冊+索引)

The Complete Works of W.R. Bion. Karnac Books. 2014.

第一巻『長い週末 1897-1919』(The Long Weekend 1897-1919: Part of a Life)

第二巻『我が罪を唱えさせよ 人生のもう一つの部分』(All My Sins Remembered: Another Part of a Life『天才の別の側面 家族書簡』(The Other Side of Genius: Family Letters

フロイトの訳本の脚注などを読めばなおさら明らかだが、精神分析は言葉をあらゆる方面から使用するので、できるだけ確かな翻訳で読みたい。フロイトの翻訳だっていまだに色々あるわけだが、だからこそフロイトやビオン、クライン、ウィニコット、ラカンに関しては、理論と実践の両方を積み重ねている人の訳で読めるとありがたい。それにしてもこの自伝はもっと早くに読みたかった。全集の最初の1、2巻なわけだし、ビオンがあんなに詩的な素敵な絵を描く人だともっと早くに知りたかった。私が大好きな鳥たちがたくさん登場することにもはまってしまい、すっかりビオン大好きみたいになっている。

それにしても精神分析の面白さを伝えることは難しい。いまだにセミナーや読書会で多くの人が精神分析を学んでいるのに体験する人が少ないことは単に料金の問題ではないだろう。自分に投資するという点ではもっと多くの費用と時間をかけている人はたくさんいる。たしかに精神分析を受けることは主には苦痛でしかなく、それを無意識で知っている人は多く、自然と回避的になるのはよくわかる。探求を経ない諦めの方が痛みも危機も少ない。探求とそれに伴う苦痛を面白いというのはマゾヒスティックでナルシスティックなことでもあるだろう。しかし、他者を通じての自分との出会いには衝撃があり、そこに長くとどまることで結果的にはマゾでナルシスティックな側面は打ち砕かれることになる。他者に変化を求めるのではなく、それを頑なに求める自分を探求する中で心をできるだけフルに使ってあげること、どうせ限りある人生なら自分の持ち物くらい使えるようになりたい。それを生涯の仕事にしようと思ったのはずっと後のことだけど、私は最初そんな気持ちで精神分析を求めたし(事後的にわかったことだけど)、長い期間、いろんな人の協力を得て、自分を管理ながら通った、というか通うこと自体が自己管理になった。

これもビオン自伝から面白い部分として仲間内で共有したのだけどビオンが黄疸でクラインとの分析に行けなかったときも面接料を払わねばならない一方で、ビオン自身は仕事ができないので患者からお金をもらうことができないという状況を体験したビオンは「病気や災難はとても高価な贅沢品と悟るには時間がかからなかった」と書き、そのあとに予定通りにきたビオンに不意をつかれるクライン(こないと思って別の予定を入れていたんだって)のことを書くのだけど、こういうことの連続が精神分析。一人では起きない些細なようで重大なことがたくさん起きて心に常にさざ波が立つ。でもそれを相手に投げてしまわないで相手を通じた自分のものとして抱えていく、そういう力をつけていく、そういうイメージかな。それを面白いとか豊かだとか直観できる人にはとても効果があるはずだけどはやることはないだろう。寿命は伸びてもとどまる余裕をもてる世界ではなくなった。短絡的な評価ばかりされ、それを気にさせる仕組みを持つ世界になった。

昨日のNHK土曜ドラマ『ひとりでしにたい』の綾瀬はるかの台詞がとてもよかった、とそれにまつわる連想を書きそうになったが、今朝もやることやって仕事。身体も動かして美味しいもの食べたい。みんなのかき氷写真とかすごく美味しそうだけどおなかがもたないよなあと胃腸の弱さが悲しい。自分の身体を労わりつつ過ごしましょう。どうぞ良い日曜日を。

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散歩 精神分析

日曜日

まだそんなに暑くない。昨日の夕方、少し外に出たらすごい風だった。オペラシティのあまり人が通らない通路に咲く花にカメラを向けたが花より風を写す感じになった。実のなる木は強風をものともせずどっしり。たくさんなっていたけどなんの実だろう。

Reading Freudで読んでいる『心理学草案』、ようやく夢の話に入ってきた。ニューロンの量とか動きの話にも慣れてはきたが、イメージが難しいので具体例が出てくるとありがたい。それにしてもあの緻密な思考は尋常ではない。当時、ヒステリーの患者たちから受けていたインパクトをどうにか科学的な言葉にしようとしたのだろう。時折出てくる図もとてもシンプルなものだがあれこれ言いながら見ていてると少しわかったような気にもなるから不思議だ。粘るべし。いずれ破棄される理論と分かっていても部分がその後重要な全体を成すことを知っているのだから。

はてさて、今週に限っていつも以上にPCに向かう時間がない。移動時間でうまい具合にいい感じのアイデアが浮かんでくれないだろうか。なんて考えている時点でダメな気がするが希望は大事。というかそれを願うしかない。

なにはともあれ6月最後の日曜日。二つあるカレンダーの一つはもうめくってしまった。7月のカレンダーは鹿さんがいる。いい一日になりますように。

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イベント 精神分析

暑い朝

早朝から日差しが強いなあ。この部屋は冬の晴れた日は暖房要らずだけど夏は恐ろしく暑くなるから普段よりもう一枚日よけを増やさないといけない。と今年もキッチンの小さな窓に布をかけたのに帰ってきたら落ちていた。養生テープじゃだめだっけ。いつもそうしていたと思うのだけど。この家に住んでそれなりに長いのに毎夏困っているとはなにごと。口に入るもの、肌に触れるものは全て冷蔵庫という原則とこの布などで日差しを防ぐ以外の対策を持っていない。もっと暑くて設備の整っていない国もたくさんあるわけだから私は環境に甘えすぎだよなあ、と毎年反省している気がする。とりあえずきゅうりで水分をとった。

開いたままのパソコンのキーをポンッと押すと作業中の画面が出てきた。開いて何もしないまま寝たという痕跡があった。確かに何かをした記憶がない。何か思い浮かんだ記憶はあるがそんなのはすでに記憶の彼方で本当に思い浮かんだのかすら怪しい。

Reading Freudの準備はちょこちょこしているが他の作業が進まない。今みんなで読んでいる『心理学草案』は人文書院の「フロイト著作集」では「科学的心理学草稿」。人文版はいまやKindleで読める。この論稿は精神分析の本より哲学の本で引用されている印象。私が出会うのは大体哲学の本。哲学は歴史を大切にするから起源には常に意識的なのかも?

あとちょこちょこやろうと思って全然進んでいないのは精神分析とアートについての議論。あれやこれやおしゃべりするにはものすごく楽しい領域だからそのノリで進めたいけど時間が足りない。

この前行ったパウル・クレーの展覧会はわりとシンプルな構成で同時代の画家たちとの関係もわかりやすかった。でももうちょっとあれもこれもみたかったな、という物足りなさはあった。クレーは解剖学にも詳しかったらしく、いかにも腑分け、私たちだったら部分対象、という言葉が浮かぶ絵からはいくつかのことを連想した。バラバラとただ置くこと、それと向き合うことは大事だと思う。無理にまとめず。

暑い季節は美術館とかなるべく屋内で過ごしたいものです。行くまでが辛いけど。あー、疲れやすい季節だけどがんばりましょうね。それぞれどうぞお大事に。

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お菓子 イベント 精神分析 読書

森鴎外、フロイト、坂本葵の本

少し蒸し暑い。窓を開けた。風がない。除湿運転をはじめる。このエアコン、手をかざすとメニューが表示されるリモコンなんだけど電池がすぐなくなるので不便。昔ながらの方はリモコンの電池も全然なくならないし、機能は少ないかもしれないけど全部見えている分、使いこなせている気がする。まあ、壊れたから新しいのにするしかなかったんだけど。これも私もあと20年くらいもってほしいな。

今朝は埼玉県杉戸町の銘菓「日光古街道」緑茶味と冷たい麦茶とキウイ。キウイ、すごく美味しくなってる。嬉しい。

先日、森鴎外の記念館に行った。千駄木の坂の途中にある。ぎっくり腰みたいな脚から腰にかけての痛みが強くてちょこちょこすり足しながら歩いていたら同じような歩き方のご老人とすれ違った。ぎっくり腰のときも軽いうちは少しでも動かしておかないとどんどん固まっていく感じがあるから痛いのを克服した気分になるためにもちょうど沿線にいたので寄ってみた。常設展は大体知ってるけど何度見ても面白い。正岡子規や高浜虚子はお手紙にもきちんと俳句を書いている。特別展は「本を捧ぐ―鴎外と献呈本」。鴎外に贈られた本32冊と鴎外が贈った本10冊とそれにまつわるエピソード。呉秀三からの本もあった。こういうのはそれぞれの字体とか紙の使い方を見るのも楽しい。

7月のフォーラムのための討論は原稿を全部いただいてから書きたいけど待っている時間がないから個別の反応みたいな感じになってしまうと思う。一応「死の欲動」を巡ったものになるのかなあ。わからないな。

さて、それよりずっと以前、私のReading Freudで読んでいる「心理学草案」(=「科学的心理学草稿」)のこと。改めて読むとなんだか曖昧に使っていた「力動的」「局所論的」「経済論的」とは、ということがみえてくる。

«[Aこの草稿の]狙いは、自然科学的心理学を提供すること、言い換えると心的諸過程を、呈示可能な物質的諸部分の量的に規定された状態として表し、こうして[SE/GW心的諸通程を]具象的で矛盾のないものにしょうとするものである。»p5(388)

「心理学草案」におけるフロイトのこの狙いは達成されなかったけどフロイトはずっと科学的であろうとしたり、生物学を捨てることもしなかった。欲動という概念はこういうことを考えるときに生きてくる。神経症だって身体と情緒の間をいくものだろう。「心理学草案」を読むことでフロイトがしようとしてきたことを俯瞰で捉えることができるかもよ、ということで今月もがんばりましょう。

フロイトは『フロイト全集6』の「性理論三篇」(1905)でWisstrieb、つまり知識と探求への欲動を示した、というメモを見つけたけどこれも欲動のことを考えていたときのかな。Wisstrieb、アブラハムを経由してクラインがそれを受け継いだが、クライン派の乳児は性的な空想に苦しんではおらず、攻撃性と共に知りたがっている印象がある。そこには母の去勢、母の死、というテーマがある。だからあとが大変というか、ウィニコットで有名なgood-enough motherはクライン派の中では乳房の修復欲動によってようやくその輪郭を現す、というイメージを私は持っている。最早期の格闘とモーニングワークともいえるか。辛い。というか、私はなんでこんなことを書いているのか。もっと目的を持った作業をしないと原稿が書けない。

そして通勤本は坂本葵さんの『その本はまだルリユールされていない』。これも本の話。こういうのはいいよねえ、という場合の「こういうの」を言語化できないけどする必要もない。言語化、可視化にはなんとなく逆らっていきたいかもしれない。特に理由はないが。

暑いなあ。熱中症に本当に気をつけましょうね。

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精神分析 精神分析、本

Reading Freudなど。

雨が少し降っている。昨晩は急に寒くなって今朝起きたときはくしゃみがたくさん出た。今は落ち着いた。最近、いろんなものに対するアレルギー反応みたいのが増えた気がする。アレルギーは色々蓄積なんだろうから(違う?)この歳までそんなに出なかったことがラッキーだったのかもしれない。

風邪をひいたり怪我をしたり何かしらの症状を出すとその状態をすごく観察するようになった。観察とは言わないか。たとえば喉が痛かったらどこのどのへんかどうなのか、それがどう変わっていくのかをすごく細かく感じようとするようになった。人の身体ってどうなってるの、という興味は小学校低学年の時はすごくて図鑑ばかり見ていたが今は病気の側から色々知りたいと思うようになっている。

昨晩、Reading Freudで『心理学草案』の第一部の続きを読んだ。ニューロンの興奮量の話はニューロンになりきりたかったがフロイトの時代のフロイトが使用している「ニューロン」というのは今とは違うからフロイトが描いた図の中に入り込もうとしても今どきのニューロンさんにしかなれない。どっちにしても自分は人としてしか登場できない。まあ、フロイトが描き出そうとしている世界も人のことであるんだけどフロイトの基盤にはヤツメウナギとかザリガニとかいるわけだし。ヤツメウナギは脊髄神経の研究、ウナギは生殖器、ザリガニが神経細胞の研究だったのだったかな。だからニューロンまで遡っちゃったのかな。科学的であるためにはそれじゃなくてもよかったんだろうけど、とりあえず私も動物とシームレスに人間を見たい。

最近、鹿の赤ちゃんが産まれたという画像が流れてきてじっくり見ているのだけど生まれたての赤ちゃんが脚ガクガクさせながら立ち上がって親に舐めてきれいにしてもらうときもバタンって倒れないで立ててたり、親にくっついて歩いているうちに別の鹿を親みたいにしていて本当の親が迎えにきたり色々しているのをじっと見てるとせめて動物の感覚を知りたいと思ったりするんだよね、など話した。母鹿の方は子供を匂いでわかるらしい。羊膜も胎盤も食べちゃってるわけだからなんかすごく子の識別能力高そう。子供の方は母のお腹にいたわりにまだぼんやりな感じ。ものすごいスピードで組織化されている部分とそうでない部分があるんだろうな。

『心理学草案』は第二部で人の形をとったエマが登場。楽しみ。今日は事例検討グループ。色々追いついていないががんばれたらいいなあ。どうぞ良い1日を。

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お菓子 イベント 精神分析、本

祭りとかReading Freud「心理学草案」準備とか。

窓を開けたら冷たい風。隙間だけ残して閉めた。曇り空。今日もお天気落ち着かないのかしら。

今朝も秩父の菓子処「栗助」さんの銘菓「まつりばやし」。一粒栗入りパイ饅頭。秩父といえば秩父夜祭。京都の祇園祭、飛騨高山祭とともに日本三大曳山祭りのひとつ。春の高山祭しかいったことない。秩父は行こうと思えば行けるから行こう。祇園祭も行こうと思えば行けるがすごい混雑なんでしょう?行くときは京都の人にお付き合いしてほしいな。高山は何回か行っていて京都ほど広くないからたくさん歩くなかでなんとなくの土地勘ができてる。秩父も多分大丈夫。でも京都は何度行ってもどこもかしこも名所で人が多くて、あ、そうか、人の流れが読めないから躊躇するんだ、多分。祭りのときってある程度人の流れがあって、あそこを抜ければ一気に静かになる、みたいなのがあると思うけど祇園祭ってどこ行っても人のうねりがありそうなイメージでビビるのね、多分。でも一度は行きたい。

私のオフィスで月一回やっているReading Freudが今年度も始まる。今年度は『心理学草案』。使用するのは岩波書店『1895-99年 心理学草案 遮蔽想起』の翻訳。参考文献はジェームズ・ストレイチー『フロイト全著作解説』 (北山修監訳・編集 笠井仁/島田凉子他訳、人文書院、2005)とジャン=ミシェル・キノドス『フロイトを読むー年代順に紐解くフロイト 著作』 (福本修監訳、岩崎学術出版社、2013)。今年度は新しいメンバーを迎えてキチキチだけど継続的にフロイトを読んできた人もいるし、それぞれ臨床しながら系統セミナーもこなしてきた人たちだから色々議論できるといいな。そのために勉強していたのだけど以前はこれもビビっていたのか難しい難しいと思っていたけど今は楽しい。その後の理論の展開を知っているからエキサイティングなんだろうね。草案は英語でproject。プロジェクトというと急にイメージが変わりませんか?フロイトのこのプロジェクトは頓挫するけど種まきプロセスとして超重要な局面になった。記憶をどう説明するかって話、とざっくり捉えるとわかりやすさはあるかもしれないけど、私たちはあくまでフロイトの臨床的な視点を忘れないようにしたい。この論文の背景に驚くべき症状を示す患者がいたことを。「草案」に事例は登場しないので『ヒステリー研究』と同時に読むのもいいかもしれない。

というかReading Freudの準備と発表原稿作り、両方しようと思っていたのに勉強しかできなかった。明日は初回面接の事例検討会とかあるけど夜にできる、と思いたい。一度に色々やるのってすごく苦手。最初からひとつ終えたら次、って着々とこなせばいいのだけどメインの仕事(=臨床)以外ではすぐ頭の中が煩雑になって優先順位もわからなくなってしまう。厄介厄介。でもこの厄介な身体と頭でこんな歳までやってきたのだから信頼していなくもない。みんないい一日になりますように。