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お菓子 俳句

ダンゴムシ、あんぱん

昨晩からずっと雨の音。気温はちょうどいい。

昨日はオフィスにこもっていたけどお昼に少し散歩に出た。新宿中央公園に入るとハナミズキも小手毬もチューリップもツツジもみんな花を終えて緑へ。緑がとても濃くなってきた。公園大橋に出るとドンドンドンドンと置いてある白くて丸い花壇の花の植え替えをしていた。古いお花をとって土を耕すところまでだったみたいで帰りにまたとおると土だけの花壇がドンドンドンドンとあった。昨日は曇っていたけど日差しはそれなりに強かった。みなさん、首元まで隠れる大きな帽子をかぶっていた。ボランティアなのかな。女性ばかり。都から報酬が出ていますように。いつもすごくきれいにしてくれているから。切られた梅やこぶしを思いながら橋までくるとベビーカーの人が子どもに声をかけていた。帰りたがらなくて大変なのかな、と思っていたら端っこの花壇を小さな子が指差している。お母さんが私の前を横切ってその子に近づいた。「ダンゴムシ!いっぱいいるね!こっちにも。こっちにも二つ、こっちにも、あ、たくさんいるね!」と楽しそうな声が聞こえた。その子は無言でじっと土を見ていた。そうか、そこにはそんなにダンゴムシがいるのか。いるだろうなあ。私も朝、玄関前でダンゴムシがコロコロ転がっているのを見たよ。花壇にはつきものだよね。昔、机の中にダンゴムシを集めている子がいた。嬉しそうに見せられたけど・・・。うむ。保育園のお散歩でもみんなダンゴムシに夢中になる時間がある。あれはなんなんだろう。関わりやすさか。小さい頃、触っては丸くしていたが、コロコロに固く丸くなるのがほんと不思議だった。今日も0歳から5歳の子供たちのお話を聞くからまた子どもたちの興味深い話が聞けるだろう。

昨日、現在、病気を患っている作家の作品を読んでいた。ふと、私はもし病気になってもこんなユニークで豊かな言葉をもっていないからきっと辛いんだろうな、と思った。でもすぐに、想像する辛さなんてその人の辛さと比較できるものでもないのになにいってるんだろう、と思った。ふと感じた自分の不安や怖さのほうが勝ってしまった。

正木ゆう子『現代秀句 新・増補版』は著者が選んだ二百五十四句の観賞からなる。どの句もどの鑑賞も素晴らしいが、特にいいのが

野菊道数個の我の別れ行く 永田耕衣

の鑑賞。何年か前に英国精神分析協会の重鎮、マイケル・パーソンズが精神分析学会の講演にきたとき、人はいくつ可能性があったとしてもひとつの道しか行けないというようなことを話していた。とても心に響く講演だった。正木ゆう子は子供の頃の自分の妄想に触れ、分裂して無数になって世界を埋め尽くしてしまわない身体でよかったと安堵した思い出を書く。そして永田耕衣の句をもう一つあげる。

あんぱんを落として見るや夏の土 永田耕衣

こちらには人間の不確かさに対するあんぱんの存在感の確かさを見る。「もの」の強さ。正木ゆう子がああいう句を書き、俳句がものを読むというのもわかる気がする。

朝ドラ「あんぱん」ではあんぱんを落とすシーンはまだなかったと思う。これからもあるかわからない。あってもよさそうなものだが。あんぱんを渡そうとして落とす。落ちる。あっ、と互いの時が止まる。私はこの句の「夏の土」は熱気ムンムンであんぱんを焼き直してしまうような土ではなく、日陰のひんやりした、しかし生命力に溢れた土を想像する。あんぱんはころころ行ってしまったりもしない。そこにただドンと落ち、ただそこにいる。それをじっと見る。ほんの短時間だがその存在感に圧倒され人間としては一瞬空虚になる。拾い上げる。あんぱんは怪我もせず丸いまま拾い上げることができるだろう。

鉛筆を落せば立ちぬ春の土 高浜虚子

の柔らかさはそこにはないが、どちらも「もの」の確かさはすごく伝わってくる感じがした。朝ドラでも戦争が始まった。これ以上人間の不確かさを利用しないでほしい。一人一人の存在を大事にする社会であってほしいと思う。

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精神分析、本

あれこれ

昨晩は雨だった。夜遅くなるにつれ雨脚が強まる音がしたけれど私が最寄駅に着いた頃はそれほど降っていなかった。気温が高めだったこともあってなんとなく傘もささず歩き始めたら意外と降っていた。傘をさしていない人は朝に持って出なかった人たちか。駅からそれぞれの道へ向かう人たちがあまり傘をさしていないようにみえてそんなに降っていないのかと思ってしまった。たしかに朝は降っていなかったね。先日持っていかれてしまったビニール傘とは違うビニール傘に懲りずに養生テープを巻いて今度は名前を書いた。マジックがあまり出なくて掠れてるけどないよりいいと思う。

この仕事をしていると私たちは何度も何度も同じことを語ってしまうものなんだと実感する。それを失われた愛、叶わなかった愛の対象、つまり母のイメージを求めている、というのは精神分析のデフォルトで、私自身それに対して「またか」と思ったりするが、本当にそうである場合も大変多いのもまた事実だ。本当にそう、というのは患者の語りからして、ということ。精神分析の理論が患者の言葉と接続している限りは、外側から「いつもそれ」と言われようと「そうなんだよ、患者さんが実際にそう言葉にするから」と真剣に考えなければいけない。患者が言っていることをこちらが言わせてるくらいに思われているときもあるが、それも一部は本当だろう。コミュニケーションというのはそうならざるをえない面を持つ。だからこちらが母なり父なり神なりとは異なる言葉を使うことも大事だ。どうしても戻るそのイメージはどんな感じで動いてて、今どんな表情や形をしていますか。繰り返す語りで欲していることはなんだろう。いろんなことは動詞で考える。それは「名詞」ですね、ではなくて。一番ほしいものはそのものとしてはすでに失われているので手に入らない。でもそのイメージなら、ということでそこに拘束される。そのイメージで自分を守ってきた人はそれを手放すことが難しい。分離不安という言葉があるけどあれもどの水準で使っているのかというのは結構ばらつきがある気がしている。だから結局理論的背景がないとその問題について深く考えるということをしていくのは難しいと思うのだけど、そして理論というのはかなり難しいもので、研修とかはそれを自分で深めるためのきっかけに過ぎないのでもし深めたい場合は自分で一生懸命勉強するしかない。

ということを分離不安とは関係なく、昨日IPAジャーナルのThe Interface Functionという論文を読みながら思った。フロイトが『心理学草案』で想定したニューロンの機能である「流れ」、そして相反する作用が生じる場所である「接触障壁」、ビオンが「経験から学ぶこと」で展開した「接触障壁」、つまり「αファンクション」、これらをさらに展開してこの論文の著者らKaracaoğlan, U. & Speckmann, E.はThe Interface Functionを提案しているらしい。差異の創出と情報のやり取りが生じるファンクショナルスペースについては図で説明されている。ざっとしか見てないけれどこれはあまりに「情報」の話ではないか、という気がしているので大事かもしれないと思っている。

昨日の朝ドラ「あんぱん」のたかしとのぶのすれ違いが何かの本にあった描写と似ているんだよなあ、と思って、あ、これだ、と解決した気がしたのだけどそれがなんだったか忘れてしまった。たかしとのぶの場合は見えている部分が違うというすれ違いで2人を使ったスプリットの描写だと思うけど、その本はこうも見えるけどこういうところもあるよねという描写がやや一方的にされ、それを好意的に受け取る読み手がいてという往復書簡の一部だったと思う。そういう場合、対立は起きないけどすれ違いは起きてると思う。フロイトとフリースとかそんな感じ。

今は雨。これから止むらしい、予報では。どうぞ良い一日を。