カテゴリー
あれはなんだったんだろう コミュニケーション 読書

知識

早朝から國分功一郎さんたちのUTCP公開セミナーをみていた。2月18日(土)午後に行われた柄谷行人『力と交換様式』(岩波書店)の合評会の映像のアーカイブ。1:28:55あたりから本編、というのが面白い。動く國分さんがいるのに何も聞こえないし何か始まる気配がないから私のパソコンがおかしいのかと思った。会場には柄谷行人ご本人がいらしていたとのこと。いいねえ。そのあとご本人からのフィードバックもいただけたのよね、きっと。私はまだ読んでないけどDの到来か。こういう話だけ聞いていると面白いような気がしてしまうけど知識も教養も足りなすぎるからまずはとりあえず読むだな。いつもそうだ。

言語論の講義を受けて発表もした。話題にでた三木那由他『言葉の展望台』(講談社)を再読しようと思ったが読みやすいそっちはいつでも読む気になるだろうからモチベーションが落ちないうちに途中までしか読んでいなかった『グライス 理性の哲学 コミュニケーションから形而上学まで』を開いた。あ、話題に出たのは『会話を哲学する コミュニケーションとマヌピュレーション』(光文社)のほうか。昨年刊行された『実践 力動フォーミュレーション——事例から学ぶ連想テキスト法』(岩崎学術出版社)の刊行記念に監修者の妙木浩之先生が寄せた文章にもこの本は登場する。

コミュニケーションは断たれてしまったら何も生じない。それは未来にとっては危険なことだ。いくら本を読んだところで知識を身につけたところで実際のあり方をずっと問い続けて自らも実践していくことがなければ言ってるだけの人たちと変わらない。言ってるだけであっても言えてるだけマシかもよとも思うが。文章を書くその人がどんな人であろうと読んだり聞いたりすれば助かる人も多いだろうからそれはそれで一つのコミュニケーションのあり方なのだろう。そういう乖離を見せつけられる距離で絶望を繰り返しさらにコミュニケーションを断たれたとしても(ひどいことは大抵最後までひどい)知識は知識だ。とても冷めた気持ちで言葉を物質として淡々と取り込む工夫も必要だ。三木さんの本を読むとなおさらそんな気持ちになる。動けないという意味で時間が止まる。思考が停止する。それでも時計は動き続けひどい人はひどいまま今日も元気だろう。冷めた気持ちで淡々と。いずれ使えるように素直に取り込んでいこう、それが誰から発せられたものであっても、正しいと言われる知識であれば。

カテゴリー
精神分析 精神分析、本

「その場での旅」

今日は雨に濡れた。乾燥に困っていたので雨自体はありがたかった。夕方の空はすっきりしていてピンクと紺の重なり合いがきれいだった。細い月も出ていた。

オンラインでの仕事が始まるまでに片付けがてら見つけた資料をパラパラしていた。10年前に受けた江川隆男さんの「ドゥルーズの哲学」の講義資料だ。

江川さんは修論をカントで書いたそうで、その頃はまだアカデミックにやれるほどドゥルーズは知られていなかったのだといっていた。

私は、重度の自閉症の方と過ごす仕事をしていた頃、ABAを学びたいと思ったが、当時はアメリカで活躍しているセラピストの通信教育くらいしか見つけられなかった。今だったら日本でもスーパーヴィジョンを受けながら学べる。

学問との出会いは時代が大きく絡んでいる。文学だってそうだ。先日久々にパラパラした(パラパラしてばかりだな)柄谷行人『意味という病』にもそんなことが書いてあった。古井由吉のことを。もうすぐ彼が死んで一年が経つ。

それにしても「意味という病」を「意味のない無意味」と書いてしまう。年代的に近いのは千葉雅也さんの方だからか。いや、違う。あれは『意味がない無意味』だ。ドゥルーズつながりではある。

江川さんはドゥルーズの哲学は、新しい対象について考える哲学ではなく、考えている自分自身を変えないとわからない哲学だと言ったらしい。私の記憶にはないが、私のマルジナリアにはそう書いてある。それって精神分析が必要ということでしょう、と私は思うけどきっとそういうことではなかったと思う。

それにしても私のマルジナリアは読めない字が多いな。片方の肺がないのにタバコをやめなかったとも書いてある。ドゥルーズは「自宅の窓から投身して死去」した。

「哲学は悲しませるのに役立つのだ。誰も悲しませず、誰も妨げない哲学など、哲学ではない。」ドゥルーズ『ニーチェと哲学』江川隆男訳。

私はこれを読んでいない。江川さんが引用していたのを引用した。この講義はとても難しくて、かっこいい引用が多かった記憶がある。そのときすでに受けていた國分さんの講義で「ドゥルーズ読めるかも」と思ったのとは大違いだった。でも江川さんはわざとそうしているとも言っていたし、素人の私にも残る言葉がたくさんあった。否定でみるのが多義性、肯定するのが一義性、とか。フロイトの「否定」論文を再読したくなった、今。

ドゥルーズは「その場での旅」と言った。これは「運動」が生じるための「条件」の話であり、そこには「不動の差異」が存在するということらしい。ベケットとカフカが例にあげられている。「意味がない無意味」も再読したい、今。

「今」と書いても「いずれ」と書いても取りかからない限り同じことなのだが、あえて書き分けたくなるくらいの心持ちの違いはある。「その場での旅」。染み入る。

まずは今ここでやるべきことを。