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強風、Dana Birksted-Breenの本、「クライン派用語事典」

西側の窓はまだ暗い。ブラインドが時折風でカタカタいう音が少し大きいので布で対処。少し風が強い。台風22号の影響か。伊豆諸島7町村に暴風・波浪の特別警報が出ているとのこと。建物が揺れるくらいの風だという。眠るのも大変だったかもしれない。被害が出ませんように。

学会前なので教える側として出版情報をチェックしているが、自分の勉強をしなくてはならないし(大体英語の論文を読む作業)ここ数年、翻訳情報にも非常に疎いので既に翻訳が出ているのかどうかもパッと出てこない。

The Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind By Dana Birksted-Breenの翻訳が出るのはいいことだと思う。女性の精神分析家たちで原著を読んでいるが翻訳があれば助かる。Dana Birksted-Breenは1946年生まれ、2024年1月に亡くなった。The International Journal of Psychoanalysisの編集長を2007年から2022年まで長く務めたDanaの論文のリストはこちら。国際色豊かな言葉の持ち主であることは明確で、今回翻訳された本を読めばそのワールドワイドな知識にも圧倒される。

精神分析の仕事 セクシュアリティ,時間,精神分析のこころ』 ダナ・バークステッド-ブリーン 著/松木邦裕,富田悠生監訳(金剛出版,2025)

Bulimia and anorexia nervosa in the transference以外の全訳である。この章のアブストラクトならこちらで読める。秀逸な臨床論文だと思う。私は、引用文献を探すためにDanaの仕事を参照する、ということをしている。 精神分析に向けられてきた批判を十分に意識した書き方も勉強になる。

批判といえばR.D.HinshelwoodのA Dictionary of Kleinian Thought(1991)は第二版で1989年の第一版への批判を受けて改訂された。2014年に衣笠隆幸総監訳で『クライン派用語事典』(誠信書房,2014)として全訳されている。第1版への批判は第二版へのまえがきに書いてある。その主なものの一つは「死の本能」と「羨望」のある側面について、もう一つは、ベティ・ジョセフに関連した最近の技法の発展について、ということでその内容が書いてある。

ヒンシェルウッドのこの第二版はクライン派の中心的な13の概念がエントリー。技法、無意識的幻想、攻撃性、サディズムおよび要素本能、エディプス・コンプレックス、内的対象、女性性段階、超自我、早期不安状況、原始的防衛機制、抑うつポジション、妄想分裂ポジション、羨望、投影性同一視。各見出しに定義と関係論文の年表がついている。この第二版では引用文献も1987年から1989年までのものに更新されている。

そしてこの事典のさらなるアップデート版がE.B.スピリウス版 The New Dictionary of Kleinian Thought(2011,Routledge).こちらは多分まだ翻訳されていないと思う。この第二版が翻訳された時点で既に出版されていたことは衣笠先生の総監訳者あとがきを読むとわかる。衣笠先生によるとこちらは「より整備された構成と記述からなっているが、やや教科書的で個性のないものに改訂されている」とのこと。原著で確認すると、こちらは無意識的幻想、子供の分析、内的対象、妄想分裂ポジション、抑うつポジション、エディプスコンプレックス、投影同一化、超自我、羨望、象徴形成Symbol-formation、病理的組織化Pathological organizations、で最後に技法というエントリー。クライン派関連文献はこちらも1989年まで。1989年だけみてもブリトン、フェルドマン、ヒンシェルウッド、スタイナー、ジョセフ、メルツァー、オーショーネシー、サンドラーなど重要文献がたくさん出版されている。

とまあ、事典、辞典、辞書は大事ですよね。ヒンシェルウッドが書いているようにクライン派の概念はフロイト派の思考の中から生じているからその枠組みを理解することが必要だし、そういうのを整理してくれることのありがたみをすごく感じる。ヒンシェルウッドがこの事典以上に説明が必要な人にはラプランシュとポンタリスの『精神分析用語辞典』とライクロフトの『精神分析学辞典』をお勧めすることしかできないと書いているけど、この二冊も必携と思う。私は若いときに古本で半額とかで入手したような気がする。学問としての精神分析を大切に思う人は信頼できる辞典に何度も立ち返りながら勉強を続けていってほしい。お互いがんばろう。

窓の外で時折、風がうねる音がする。都心はどうなるのだろう。どの地域にも早く平穏が訪れますように。どうぞお気をつけてお過ごしください。

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因幡の白うさぎフィナンシェ、Dana論文、オグデン

毎日、空が明るくなる前に起きてしまう。そこからすぐなにかやりたいわけでもないのでカーテンの向こうに強い陽射しを感じるまでは寝ていよう、とぼんやりしていた。ウトウトしてすごく眠ったと思ったがそんなに時間は経っていなかった。そんなのを繰り返しているうちにNHK俳句の時間になったのでテレビをつけた。桃も剥いた。桃もとてもちょうどよく熟していて皮は引っ張るとつるんと向けてどろっとせずにきれいな形に切れた。果物の水分って贅沢。美味しかった。食べたらまた眠くなった。コーヒーをいれよう。寿製菓の「白ウサギフィナンシェ」をお茶菓子にしよう。有名な「因幡の白うさぎ」の洋菓子バージョン。「古事記」の神話「因幡の白兎」は有名だけど、この夏、その神様が祀られている白兎神社に行ったの。鳥取駅からバスで行けるのだけどそのバスだとその後の行程を考えたとき、白兎神社にいられる時間が短くなってしまうからちょうど出るところだった山陰本線で無人駅の末恒駅で降りて30分くらい歩いていった。おかげで結構時間が取れたし、面白い神社だった!地元の人って様子の方がひとり、またひとりと兎いっぱいの小さな神社に参拝に訪れていて、私がみたのはみなさん割と年配の男性ばかりだったのも興味深かった。

さてさて勉強のメモをしておこう。

昨晩は、Dana Birksted-Breen ”The Work of Psychoanalysis Sexuality, Time and the Psychoanalytic Mind”に収めれている6 PHALLUS, PENIS AND MENTAL SPACEを読んだ。少し前に準備したのですっかり忘れていたがみんなと話しているうちにDanaはこういうことを言いたいのだろうと考えていたことが口から出た。思い出せなくても話しているうちに出てきてそうそうそうだったとなることは多い。この人の論文は膨大な理論的裏付けがあるので、それらの歴史的変遷をこちらが踏まえている必要がある。勉強勉強。

が、今の頭の中はオグデンとそれにヒントをもらいつつ深めるウィニコット。特にウィニコットのgoing on beingについて。これは胎児の状態といえるが、ウィニコットは生まれてまもなくの状態もその延長と考えているのだろう。ウィニコットはこの特別な時期における母親と胎児の体験を彼らの時間感覚で書いているのだと思う。

オグデンThomas H. Ogdenは、サンフランシスコで開業している精神分析家。今のところ、彼の一番新しい著書、What Alive Meansもだいぶ読み進めた。次回、アプライしたい演題に向けて再読したのは7 Transformations at the dawn of verbal language。オグデンがこの章の後半で引用するヘレン・ケラーのThe Story of My Life(1903)はヘレンがサリヴァン先生との間で、前言語的な記号の世界から言語的に象徴化された世界に開かれるプロセスを描いている。言葉によってヘレンの時間がそれまでとは異なる感覚で大きく動き出す瞬間ともいえるだろう。書いてあるのはこんな感じ。

With the acquisition of verbally symbolic language, there developed a new way of experiencing, a new way of coming into being, and a new way of being alive. Emotions that she had not previously been able to feel-repentance and sorrow and love-Helen became able to experience. It is not that these feelings were latent and were waiting to be unearthed. This is emphatically not the case.

These feelings were created for the first time when Keller entered the world of experience verbally symbolized. “Everything had a name, and each name gave birth to a new thought… every object which I touched seemed to quiver with life.” Names are not simply designations for feelings and things, they are ideas about feelings and people and things. Language gives rise to a qualitatively different realm of experience, a realm in which one is both subject and object, one is able to think of oneself thinking, one is alive to levels of meaning, range of emotion, complexity of feeling, and forms of experiencing not previously attainable.

「言語的な象徴言語(verbally symbolic language)を獲得することで、まったく新しい経験の仕方、新しい存在の仕方、そして新しい生のあり方が生まれた。ヘレンは、それまで感じることができなかった感情――悔恨、悲しみ、愛――をはじめて経験できるようになったのである。だが、これらの感情がもともと心の奥に潜んでいて、掘り起こされるのを待っていたわけではない。断じてそうではない。これらの感情は、ケラーが言語によって象徴化された経験の世界に足を踏み入れたとき、初めて創造されたのである。「すべての物には名前があり、それぞれの名前が新しい思考を生み出した……私が触れたすべての物が、生命の震えを帯びているように見えた」。名前は、単に感情や物のラベルではない。それは感情や人や物についての思考そのものである。言語は、質的に異なる経験の領域を生み出す。その領域では、人は主体であり対象であり、自分自身を考えることができる存在であり、意味のレベル、感情の幅、感情の複雑さ、そしてこれまで到達できなかった経験の形態を生きることができる。」

直訳だけど。

この記述の前にオグデンの分析的第三者の記述があって、病理的な分析的第三者Pathological forms of the analytic third (“the subjugating third” (Ogden, 1996))が出てくるのだけどここは保留。the analytic thirdってこういう形態変化するものではなくてもっとニュートラルな概念として登場したのではなかったっけ、と思ったから。あとで確認。