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『日本の戦死塚 増補版 首塚・胴塚・千人塚』室井康成著を読んだ。

日本の戦死塚 増補版 首塚・胴塚・千人塚室井康成著を読んだ。これは2015年に刊行された『首塚・胴塚・千人塚 : 日本人は敗者とどう向きあってきたのか 』の増補・改訂版ということで、今回はありがたいことに文庫、といっても私が入手したのはkindle版なので528頁もあるというその厚み、重みを私は感じられていない。実際が何ページであっても常に平面にしか感じられないのがKindleの残念なところだ。だけど内容はずしんと響いた。

「敗者」という単語は文庫版の書名からは消えてしまったが、文庫版ウェブサイトの紹介文にあるように、本書は、”「敗者」の声なき声を記憶にとどめようとする日本人の心意が刻みこまれている” 戦死塚の伝承を誰もが知る歴史的な戦争を素材に時代順に紹介し、戦死者、特に「敗者」がどのような霊的処遇のもと記憶化されてきたのかを示し考察を加えた本である。

著者の「趣味」によって見いだされた戦死塚が柳田国男を祖とする日本の民俗学の膨大な資料のもと検討しなおされ、大河ドラマ以外の歴史(それすら怪しい)をよく知らない私のような読者にもその厚みに関わらず一気に読めてしまう書物として編まれたことに驚くしありがたい。

この本は、まず読み物として面白い。もちろん扱われているのは戦いであり、死、それも戦死、自決、処刑であり、その結果としての首塚であったりする。しかし、著者に導かれその戦死塚の伝承の変遷を知るにつれ、また、だれもが知る歴史上の戦いで命を落とした「敗者」に対する霊的処遇のあり方が、近代にかけて、死んでなお「勝者」と「敗者」を分けようとするしかたに変化していくことを知るにつれ、現代を生きる自分自身がちらつき、心がざわめく。

そして自分たちがいかに自分の声や想いを託す場所を、私の専門領域でいえば投影先を必要としているかも自覚する。本書でのそれは戦死塚という対象を伴った語りであり、それはいずれ伝承となり、時にはその「敗者」の、時にはその土地の人たちの声と共鳴しながら後の時代まで響いたり、怨霊譚になったり、神格として崇められたりという変遷の末、消えていったりした。語り継がれなくなる、塚そのものがなくなる、ということだって実際に起こる。首塚があり「忌地」として恐れられていたその土地が、今や何も経緯を知らない市外の人に買い取られ、アパートが建設されたという話も載っていた。

目に見えないものは本当にそこにはないのかという問いはいつだって必要だ。だけど私たちは自身の考えと矛盾したり、信念が脅かされるくらいなら今目の前にみえるものだけ見ていたい、という心性ももつ。

「勝者」「敗者」というのも、括弧つき以外ありえないだろう。それはその戦争において、という条件つきである。にもかかわらず、もし「戦争を知らない子供たち」である私たちが、著者が言うように「男/女、成人/未成年、親族/他人、健常者/障碍者、国民/外国人、正規/非正規など」「属性を峻別していく苛烈さ」から逃れようとしないとしたら、、、ということも考えさせられた。

著者は歴史的真贋ではなく伝承を重視したという。敗者の声はどう奪われ、どう記憶されてきたか。「その声なき声に耳をそばだてること」、それは私たちひとりひとりに潜む「勝者」と「敗者」の対話をも導くかもしれない。私たちは自分を「敗者」だと言いながら誰かに対して「勝者」であろうとすることもしばしばだ。果たして私たちは何者として何を伝承していくのだろう。

文庫版に加えられた「補章 彼我の分明──戦死者埋葬譚の「近代」」の結びの言葉もこの本の重みを増しているようだった。歴史から学ぶ、単に事実からではなく。反射的に反応するのではなく。

本書はその試みを手助けしてくれる一冊だと思う。

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精神分析 精神分析、本

オグデンを読み始めた

昨年、邦訳が待ち望まれていた『精神分析の再発見 ー考えることと夢見ること 学ぶことと忘れること 』(藤山直樹監訳)がようやく出版された。原書名はRediscovering Psychoanalysis ーThinking and Dreaming, Learning and Forgetting。https://kaiin.hanmoto.com/bd/isbn/9784909862211

オグデンのこれまでの著作はRoutledgeのサイトで確認できる。https://www.routledge.com/search?author=Thomas%20H.%20Ogden

『精神分析の再発見』以前に邦訳されたのはおそらく2冊目の著書『こころのマトリックス ー対象関係論との対話』、4冊目『「あいだ」の空間 ー精神分析の第三主体』、5冊目『もの思いと解釈』、6冊目(かな?)『夢見の拓くところ』の4冊だと思う。つまり12の著書のうち5冊が邦訳されたことになる。未邦訳のものも翻訳作業は進行中のようでそう遠くないうちに日本語で読めそうでありがたい。

2021年12月にはThe New Library of Psychoanalysisのシリーズから新刊が出た。このシリーズはクライン派の本はすでに何冊も訳されているが、独立学派のものは昨年邦訳がでたハロルド・スチュワートの著作と、そのスチュワートが書いた『バリント入門』くらいだと思う。オグデンの最新刊はComing to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibility

オグデンは本書でフロイトとクラインに代表される”epistemological psychoanalysis” (having to do with knowing and understanding) からビオンとウィニコットに代表される”ontological psychoanalysis” (having to do with being and becoming)への移行とその間を描写する試みをしているようだ。

この本はこれまでに発表された論文がもとになっているが、私はまずはオグデンがその仕事の初期から行ってきた”creative readings”に注目したい。読むという試みは常に私の関心の中心にある。

オグデンは『精神分析の再発見』においても「第七章 ローワルドを読む―エディプスを着想し直す」(Reading Loewald: Oedipus Reconceived.2006)と「第八章 ハロルド・サールズを読む(Reading Harold Searles.2007)とローワルド、サールズの再読を行っている。

これまで彼が行ってきた精神分析家の論文を再読する試みには

2001 Reading Winnicott.Psychoanal. Q. 70: 299-323.

2002 A new reading of the origins of object-relations theory. Int. J. Psycho-Anal. 83: 767-82.

2004 An introduction to the reading of Bion. Int. J. Psycho-Anal. 85: 285-300.

などがある。

ほかにも詩人フロストの読解などオグデンの”creative readings”、つまり「読む」仕事は精神分析実践において患者の話を聴くことと同義であり、それは夢見ることとつながっている。

オグデンの新刊”Coming to Life in the Consulting Room Toward a New Analytic Sensibility”ではウィニコットの1963、1967年の主要論文2本が取り上げられている。

Chapter 2: The Feeling of Real: On Winnicott’s “Communicating and Not Communicating Leading to a Study of Certain Opposites”

Chapter 4: Destruction Reconceived: On Winnicott’s “The Use of an Object and Relating Through Identifications”

まだ読み始めたばかりのこの本だが、50年以上前に書かれた論文がなお精神分析におけるムーヴメントにとって重要だというオグデンの考えをワクワクしながら読みたいと思う。

オグデンがウィニコットとビオンに十分に親しむ(ウィニコットの言い方でいえばplayする)なかでontological psychoanalysisをhaving to do with being and becomingと位置付け、「大きくなったらなにになりたい?」という問いを”Who (what kind of person) do you want to be now, at this moment, and what kind of person do you aspire to become?”とbeingとbe comingの問いに記述し直し、ウィニコットの”Oh God! May I be alive when I die” (Winnicott, 2016)を引用しているのを読むだけでもうすでに楽しい。

そしてすでにあるオグデンの邦訳が広く読まれ、精神分析がもつ生命力を再発見できたらきっともっと楽しい。

本当ならここでもっとオグデンについて語った方が読書案内になるのかもしれないがここは雑記帳のようなものだからこのあたりで。

そういえば中井久夫『私の日本語雑記」の文庫が出ましたよ。おすすめ!

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『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』清田隆之(桃山商事)著を読んで

自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと

長い。書名が。しかしそのままの本だ。「一般男性」が括弧つきである理由は「はじめに」を読めばわかる。読み終えると「男らしさ」にも括弧をつけたくなるかもしれない。

著者の清田さんは「桃山商事」という恋バナ収集ユニットの代表だそうだ。主に女性たちの話をたくさんきいてこられた。

こんな記事もありました。ユニーク。)

そのなかで著者は、彼女たちが発する「男の考えていることがよくわからない」という声に賛同し、この本ではその男性たちが「何を感じ、どんなことを考えながら生きているのか、その声にじっくり耳を傾け」る作業を行っている。もちろん、著者が聞いた女性たちの「男の考えていることがよくわからない」という声は、特定の男性を思い浮かべるところに端を発していると思われ、本書に登場する男性たちもその彼女たちの特定の相手ではない。しかもたった10人の男性たちが「男の考えていること」を代表できるはずもない。自身でインタビュアーも務めた著者も当然そこに「それぞれの人生」という固有性を見出す。しかし同時に「驚くほど似通った価値観やメンタリティが浮かび上がってくる瞬間」も多く体験したという。

読者が本書を読んでそれを体験するかどうかはわからないが、私は読んでいてそれぞれの語りごとに思い出す顔があった。このインタビューは、著者の細心の注意によって加工されている。私たちの仕事における多くの症例報告がそうであるように、そのような加工は素材の生々しさを剥ぎ取り、第三者に伝わりやすい形にそれを変形する効果がある。つまり、こうして抽象度をあげることでより多くの人がそこに自らの体験を投影しやすくなる。私が自分の知っている顔をどの話に対しても思い出したように。本書の表紙のイラストにもそのような意図があるのだろう。三十三間堂で自分に似た顔を探せてしまうのも私たちのそういう性質ゆえだ。

とはいえ、このインタビューは「男性たちの正直な気持ちを知ることを目的とするため、質問や相づち、個人的な価値判断などは一切入れず、それぞれ「語りおろし」という形でありのままを伝えられたら」という考えのもとになされたと書かれてもいる。誰もが知るようにありのままという言葉は厄介だ。このありのままにも著者自身が即座に括弧をつける。言葉は語られてしまえば独り歩きする。「ありのまま」にはあっというまに色がつく。ある人にとっては我が事のようであり、ある人にとっては普遍的な事柄として、あるいはある人にとっては、、、と。

昨年『ヘルシンキ 生活の練習』(筑摩書房)という大変軽妙で悩ましく、しかし他者と社会の中で生きる希望をくれる本(必読!)をだされた社会学者の朴沙羅さんの『家(チベ)の歴史を書く』(筑摩書房)という本がある。私も仲間に勧められて読んだ。朴沙羅さんの父親は在日コリアンの二世で、母親は日本人だ。父は10人兄弟の末っ子、つまり朴さんには在日一世の9人の伯父さんと伯母さんがおられる。この本は、その「面白い」伯父さん、伯母さんの生活史を聞き取り考察を加えたもので、在日コリアンの人の歴史を知る上でも必読だと思うが、聞き手と語り手の呼吸や語り口、その場の空気が伝わってくるかのような生き生きとした書き方がとても魅力的で、「声」で語ること、それを聞くことを大事にしたい、と改めて思わせてくれる本だった。

一方、この『自慢話でも武勇伝でもない~』は先述したように、一切介入をしないという方法をとっている。そのため、文章がさらさらと流れ「読み」やすく、ひとりひとりの語りが発生する土地の違いのようなものを感じることはできるが、あまりによどみなく、彼らがそれぞれ異なる形で体験したであろう様々な情緒に直接的に心揺さぶられることはなかった。これは著者が「プライバシーの保護の観点から」彼らの語りを加工したせいではないだろう。20年近く、非常に多くの人の語りを聞いてきた著者には相当の具体例の積み重ねがあり、それはこれらの加工によって抽象化されたとしてもそのリアリティを失うことはないだろう。だったら、もしかしたらこのよどみなさこそが、著者が出会ってきた女性たちがいう「男の考えていることはわからない」ということと関係しているのだろうか。わからないが、私には形式の作用というか効果が大きい気がした。

著者は、10人の男性のインタビューの後に得た印象をそれぞれの語りの後に記している。その短い文章が挟まれることで、私たち読者は今読んだばかりの男性の語りに個別具体的な印象を見出すことができる。

著者は、この男性たちの語りはこうだが語られた側からしたらそれは別の語りになるかもしれない、という可能性を常に考慮に入れている。「おわりにー「感情の言語化」と「弱さの開示」の先にあるもの」で、著者は自分が「多数派という枠組みの中で守られ、様々な優遇や恩恵を知らぬ間に享受してきた“マジョリティ男性”だった」ことに気づくまでの著者自身のプロセスを書いている。そして「男の考えていることがよくわからない」と言う女性たちがいう「男」とは「この社会のマジョリティとして生きてきた男性たちではないか」と言う。

著者自身の言葉は少ない本書だが、男性に対しても女性に対しても一貫して流れているのは、これらを読む女性たちのこころの動きに対する配慮に加え、たとえ“マジョリティ”であったとしてもそこに潜むそうではない部分、いわばその人だけが持つ感じ方や考え方、あるいは体験に侵入しないようにという配慮のように感じた。私にはこの配慮が、介入を控えるという形式を採用したことと通じているように思えた。

もう少し具体的に書いておく。もし、彼らの語りがいかにも特定の相手に向けた形で対話の形で記述されたとしたら、著者が危惧するようになんらかのトラウマに触れる可能性は強まるだろう。特に、性が軽んじられたり、暴力的な関係においてはそれらが身体に与えるインパクトに比して言葉は貧困でパターン的になりがちだ。女性たちの「わからない」という言葉が傷つきの体験を伴う場合、その体験の再現にさえなるかもしれない。しかし、本書では彼らの語りを聞く相手の存在を意識しないですむため、読者は自分のペースや距離感でその語りに接近することができ、受身的に内容だけを取り込みながら読み進めることもできる。つまり、話されている内容が陰影や情緒で膨らむには読み手の能動性を発動させる必要があり、読みながら急激に自分の体験を近づけてしまうような、自動的に何かが生じてしまう危険性は遠ざけられる。少なくとも男性同士の対話として記述されるよりは、と思った。

私は、最初、それぞれの語りに対して「これって男性に特有のものなのかな」などと思いながら読んでいたが、身体性の関わる描写が増えるにつれ、違いはたしかに存在するし、お互いの想像力と対話が欠かせないことも改めて感じた。

著者の言葉は、内省的でシンプルで中立的で柔らかい。私が感じたように、読者がするかもしれない負担が減っているとしたら、直接彼らの話をきいた著者のこころがたくさんの作業をしてくれたおかげかもしれない。ただ聞く、というのはなかなかできることではない。

さて、題名に戻るが、もし、男性の話が「自慢話」や「武勇伝」に聞こえるとしたらそれは固有の事情以前に歴史も関係していることも意識できたらと思う。朴沙羅さんの本でもそれを学んだ。そしてもし「生きづらさ」を感じるとしたら、その歴史に対してあまりに受身的に巻き込まれているせいかもしれない、とも考えてみたい。

「らしさ」というのは曖昧なものだ。それをめぐってあれこれするよりも目の前の相手や状況に対する自分のあり方に少し注意をむけてみるのもいいかもしれない。自分が何者であるかはすでに内からも外からも規定されているかもしれないが、結局はなにかひとつの分類におさめられるものでもないだろう。そして自分のことをこうして静かに聞いてくれる誰かに話す機会を持つことの重要性も思う。たとえそこに多くの間違いがあったとしてもそれはたやすく個人の問題に還元できることではない。小さな声で届く範囲でなされること、それがより広い視座をもたらしてくれる可能性はこうして実際にあるのだから。