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副都心線:明治神宮前

あー、渋谷止まりか、と思う。渋谷からバスでオフィスの近くまで行けるので雨の日とかはとてもいいのだけど同じ渋谷でも東横線からだと結構歩く。副都心線直通の電車だったら新宿三丁目で乗り換えることになる。そこから新宿へ出て、新宿からオフィスまで歩くとなったらそっちの方がいっぱい歩くことになるわけだが結局歩かねばならない距離や時間で選んでいるわけではないのだな。直通ではなく渋谷止まりの電車を見るたびにどのルートで行こうか迷ってしまう。

いつのまにか他の路線に乗り入れる電車が増えた。

精神分析家の藤山直樹先生がご自身の本の最後に副都心線が開通して賑わう明治神宮前にて、みたいなことを書いていた。ちょうど見直そうと思っていた『集中講義・精神分析 上』(岩崎学術出版社)を手にとった。あとがきの最後を後ろからめくる。

「二〇〇八年九月 夏の名残の夕立の音を聞きつつ、神宮前にて」

あれ?違う。では『精神分析という営み』(岩崎学術出版社)を。はじめて明治神宮前にある先生のオフィスへ伺った頃に出た本。あのグループで一緒だった仲間から今年精神分析家が誕生した。育てている。この本は國分功一郎さんや村上靖彦さんも言及している転移の本質を描写した本だ。藤山先生の本で一番読まれるべき本だと思う、ということは以前にも書いた。二日目のグループが終わったあとのオフィスで著者割で買ってサインをいただいたのだと思う。藤山先生の落語を聞いたのもあのときがはじめてだった。今や安くともお金をとってホールで披露するまでになっている。寿司でも落語でも精神分析でも極めるのが好き、というか極まっちゃう(日本語間違っているってわかってる)のか、あと俳句も。この時点で私は「あ、多分、『落語の国の精神分析』(みすず書房)だ、副都心線開通のことが書いてあるのは」と思っているがそばにおいていないので確認できない。

一応『精神分析という営み』のあとがきの最後をみてみる。

「二〇〇三年 初夏の神宮前にて」

あれ?シンプル。この本もさっきのも夏に出たのね。あ、これはこの前の一文が大事なのか。

「フロイトも見し暗澹を昼すがら寝椅子のうへに編み上げほどきて」

ほとんど短歌。フロイトの見た暗澹はすごかっただろう。ユダヤ人であることに生涯苦しめられた。死ぬ間際にナチスから逃れロンドンへ移住。姉たちはガス室で殺された。フロイトのテクストは苦しみよりも悔しさや人間のやることなすことを徹底的に見つめていこうとする姿勢に貫かれていると思うけど。

副都心線が開通したのはいつだろうと調べてみた。2008年か。だったら『集中講義』上巻が出たときじゃん、と思うけどこのときの副都心線は先生のオフィスがある明治神宮前まで伸びておらず和光市と渋谷間の往復だった。東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線との相互直通運転開始は2013年3月16日。やはり『落語の国の精神分析』のあとがきに書いてあるのだろう。

面白いのは副都心線開通に関する年表をウィキペディアでみていると

「2013年(平成25年)

2月21日要町駅 – 雑司が谷駅間で携帯電話の利用が可能となる」

などちょこちょこと「携帯電話の利用が可能」となった日時と区間が記されていることだ。そういえば前って電車で携帯使えなかったんだっけ。今や通じすぎる時代になった。気持ちが通じることの難しさは何も変わっていないけど。精神分析が細々と生き残っているのもそのせいだろう。

そうそう、なぜ『集中講義』を手にとったかというと三浦哲也さんの『映画とは何か フランス映画思想史』(筑摩書房)をパラパラしていたらアントナン・アルトーの

「映画は、人間の思考の曲がり角に、すり切れた言語がその象徴力を失い、精神が表象の戯れにうんざりする、まさにその時点に到来する。」

という言葉が引かれていたのをみて「藤山先生もどっかで精神分析は鞍馬天狗のように現れるんだみたいなこと書いてたよね、そういうこと言うから精神分析の印象悪いんだと思うよ」と思い、どこに書いてあったんだっけ、と思ったから。探してばかりだな。まあ、50歳近くなってもまだ候補生という立場で(精神分析のトレーニングってそういうもの)直通運転とは遠い世界にいるのだし「おー、やっと携帯繋がったよ」という感じでいろんなことが繋がっていけばいっか、と思っているので地道にのんびりやりましょ。

今日は東京は30度超えないみたい。大雨の被害がこれ以上広がりませんように。