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精神分析

止まる。動く。

夜明け前の曖昧な明るさ、静けさが好き。鳥たちが鳴き始めたら世界が少しはっきりしてきた証拠。

複雑な状況をどうにかこなそうと意識的にも考えるが多くの場合仕事をするのは無意識だ。無意識というのがあれなら、私が意識的に何かをしている感じがしないといえばいいのか。胸が苦しくなるような出来事に涙や怒りやどうしようもなさを感じてもじっとそこに浸る。今具体例を書こうとしたが、こういうときもセーブがかかる。私がどうかしそうになる瞬間を多く体験するのは親密な関係においてだけど、親密な関係であることを権利として奪われていると感じ毎日絶望しながら戦っている人たちもいるだろう。差別的な発言でない限り、私が何かと比較して表現を抑える必要はないとわかってはいるし、そうすること自体が何か偉そうな気さえするが意識して考えようとしなくてもこういう考えが次々に浮かんでくる。辛くて悲しいけどそれらをじっと観察している自分を感じる。それすら私がそうしようそれがいいと思って選んだ方法ではない。声をあげる権利は誰にでもある。悲しむこと寂しがること怒ること自体に抑制をかける必要などないはず。そう思っても相手のことを誰かのことを想うと私はこうしてじっと自分を追う以外なくなってしまう。こんなに書けない、書いては消すみたいな状態になるときこそ不用意に最初に感じた強い気持ちをぶちまけたくなるときかもしれないが自分でもよくわからない。

こんなときも「とりあえず」だ。「動こう」と思う。世界が二人でできていない以上、私があなたが誰かに向ける感情はすでに二人だけの関係で生じたものではないからものすごく複雑だ。憎しみや怒りも本来特定の人に向けるものではないはずで、だから私たちは苦しむ。でもこの立ち止まる感じなく、みながみな自分を制止する自分や誰かを振り切って「声をあげる」ことを善として動き始めたらそれはそれで相当の無理が生じているだろうし、誰にも気づかれないように少しずつなんとか関係を紡いできた日々をすべて同じ色で塗りつぶすようなことにもなりかねないのではないか。

私は止まる。いつも通り動く。その両方を今日も繰り返す。無意識が仕事をしてくれることを願いつつ私は私の仕事をする。私も私たちの関係もものすごく複雑な世界にあるのだから半分委ねつつ自分たちを観察し想いあい小さな関係を大事にしていけたらいいのに、と辛くなりながらも願う。測定しえない何かはもうそうなっていると信頼する以外ないが盲信するべからずではある。普通に見て普通に聞いて自分の感じることを大切にする。何を書いても無理そうな気分なときもあるけど、そんなふうにできる時間が少し先のあなたや私を守ってくれる気がするのだ。さぁ8月、と意気込むには暑すぎるので無理せずいこう。熱中症気をつけようね。