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光で混じり合う領域

カーテンを開ける。レースのカーテンが少し破けてきた。確かにそういう年月が過ぎたかもしれない。満月だ。空はもうだいぶ明るい。でも満月もしっかり光っている。太陽と月が一緒にいる時間はなくても光で混じり合っていく。

せっかく楽しかったのに、限られた時間しか一緒にいられないのに、今そんな話してなかったのに、私が嫌がると知っているのに・・・。

こう並べているとだんだん自分のいってることが馬鹿みたいに思えてきてさっきまでマグカップの湯気で誤魔化しつつ涙ぐんでいたのがスーッと冷めて無表情になる。こういうのは私のわがままだから相手にとっては理不尽なだけなんだから考えても仕方ない。さあ帰ろう、と立ち上がろうとする。

一応専門家としては全然仕方ないとは思わないけれど。

ひたすら自分のなかでこなしてこれは誰のせいでもないというところに落ちつける。人は自分の欲望を優先させたいものだ。ちょっとした好奇心を満たすことの方が好きな人へのちょっとした愛情表現より優先されることなんて誰にでもあるし実例ならSNSに溢れている。してほしいこと、してほしくないことなんてそんなはっきりしているものではない。こちらには一番重要なことでも相手にとってはどうでもいいということだってありうる。様々なズレの中でどう均衡を保つのか、相手の自由も自分の自由も尊重するってどうすればいのか。大切にしたい人にどういう態度を取れば大切にしていることになるのか、もう、なんだかケアという言葉について考えるときと同じ難しさがある。

餌を与える、という言葉がちらつく。嫌な言葉だ。その人の特徴をよく知っている。こうしたらこうなるということを知っている。だからこうしておけばいい。こうなるのは仕方ない、だから慣れないと。私がここで反応しすぎたらその人はなおさらそれをするだろう。なんの悪気もなく、忘れてたルーティンを思い出したかのように。だったら反応しすぎる私の問題なんだろう。

臨床でもそうだが、私たちは関わりがつらくて仕方なくなると相手を変化しないものとして捉え始める。相手にとってもそのほうが楽な面もたくさんある。でも変わらないってありえるのか、お互い。

マグカップを両手で握るようにして頭を垂れる。頭で考えているうちに落ち着いてくる。これを知性化というと頭の中でいう。だいぶ落ち着いてからその人のことを具体的に思い浮かべる。気持ちがざわつき始める。なんだ何も落ち着いてないじゃないか。自分に嘘をついてる。本当のことがいいたい。それが私のわがままでどんな馬鹿らしいことでも私はそう思った、私はこんな気持ちだった、もう我慢したくない、といいたい。

また涙が出てくる。頭で考えてるだけじゃダメだ、やっぱり。今日した会話を思いだす。たまにしか会えなくても積み重ねてきた言葉のやりとりを思いだす。冷たい手も暖かい手も思い出す。悲しいことより理解しあおうとする時間の方がずっと長いことに気づく。いつもこの繰り返しだ。どうしてすぐに小さな方に反応してしまうのだろう。もちろんその一言に私が反応するのにも理由がある。でもお互いを知るほどズレもたくさん知ることになるのは普通のことでは。だから言い合いをしたりほかでは感じないような気持ちになったりする。親密さは大抵強い気持ちとセットだろう。

ちょっとした好奇心を満たすことの方が好きな人へのちょっとした愛情表現より優先されることなんて誰にでもあるし実例ならSNSに溢れている、と書いた。データをとったわけではないが印象では子育て中の夫婦、特に母親側に多いつぶやきな気がする。辛いなと思う。なぜその一言が言えない、という事態は第三者が登場すれば増える。二者は常に第三者に揺さぶられる。そこで私たちが感じる気持ちはどうしたらいいかという話以前にまずは無条件で傾聴されるべきだろう。とても簡単なことなはずなのにそれを求めることすら許されないという絶望を抱えていれば自分に対してもどんどん懐疑的になる。それは辛い。もちろん湧き上がる衝動を抑圧し無理や我慢にとどめるか、もう壊れてもいいとぶちまけてみるか、それぞれのあり方はどれにも間違いはないだろう。それに関係というのはずっと続ければいいというものでもない。選択肢があることを忘れてしまうほどに身動きが取れなくなる前にお互いがお互いの光に支えられていることを感じる瞬間が生まれたらいいのに。

私はできたら時間をかけたい。限られた時間をお互いにとって開かれたものにするために言葉にするまでにも時間をかけたい。そこには確かに無理があって嘘っぽい自分にうんざりし泣き過ぎて頭痛で起き上がれないこともあるが、とりあえず事実に即した気持ちを優先的に描写することをしていきたい。結局臨床と同じみたい。

どうにもならない気持ちのときほど別の仕方を探せたらいいと自分に願う。与えられた構造が有限であるのは当たり前。それでも私には長すぎる時間だったり広すぎる空間だったりするのだろうからそっちを意識したい。ただでさえ限りあるものをさらに自分サイズにしてなんていたらそれこそ独りよがりだもんね、と持ち直していきたい。

どれもこれもまた心揺さぶられたらあっさり忘れそうだから宣言ではなく希望として書いておこう。すべき、やらねばという言葉で自分を縛るのも変だと思うから。

太陽と月。光で混じり合う。そういう領域を増やせたらいいな。

良い日曜日を。