昨晩のおかずの匂いがまだ残っている。台所の窓を開けた。今日も虫の声がした。もう蝉の声に戻ることはないだろう、来年の夏までは。来年の夏なんて本当にくるのだろうか。くるにはくるだろうけれど。不安がよぎった。
待ちくたびれた返事に返事をした。一瞬胸が疼いた。こういう時なんだな、不安になるのって、と少し笑った。おかしいからではなくてそうなるってわかっているのにまたそうなっていることに対して。
フロイトは、とまたフロイトが私の元へやってきた。昨日、私なんだかんだほぼ毎日ここでなんらかの本を取り上げている気がすると思った。メモがわりにツイートしておこうと思ったけど昨日分だけして面倒になってしまった。
フロイトは『フロイト全集 21』「終わりのある分析と終わりのない分析」(岩波書店)のなかで「分析を受けた人間と分析を受けていない人間とのあいだに本質的な相違をつくり出す」ものがあるのではないかという。フロイトはそこで分析によって作り上げられるのは「新しいダム」であり、それは「以前のものと較べ、まったく異なった堅牢さを有する。つまりわたしたちは、新しいダムに対して、それらはそんなにたやすく欲動の高まりの洪水にやられてしまわないだろう、という信頼を寄せることができる」と書いた。この論文は精神分析とは何かということを考えるための必読論文だ。そうか、私は、彼彼女は、あなたは「新しいダム」を作っているのか。大変なわけだ。
白川郷、飛騨高山へ向かう途中、ダム建設によって水没した村、元荘川村、現在は御母衣ダムのそばで高速バスが止まった。バスガイドさんが巧みな話術でそこから移転した桜の話をした。荘川桜の話だ。母も泣いていた気がする。
以前通っていた墨田区鐘淵に都営白髭東アパートという大きな防災団地がある。最初に見たときには思考が停止した。団地それ自体が防火壁になっており非常時にはシャッターが降りる大きな門がある。え?人が住んでるよね、と。もちろんこの構造は人を守るためでもある。でも人住んでるよね….。どうにも理解が追いつかなかった。
自分を新しいダムとして再建する。そのイメージを使えばその構造はそんなに矛盾を孕んだことではないのだろう。しかしリスクは大きい。まさに、だ。
フロイトはこの論文の最後では治療の終わりに突き当たる「岩盤」として去勢不安に基づく心的両性性の受け入れ困難の話もする。フロイトのダム建設過程において両性性は当然のものとされながらフロイト自身によって拒絶されたといえるだろう。そこはまだ「新しい」ダムではなかったのかもしれない。ダムや防災団地の建設過程にはマゾヒズムの問題を見出すこともできるだろうか。どんな建造物ができればそれは「新しい」といえるだろうか。それはどこまでいってもまだ途中のとりあえずの形なのかもしれない。
何はともあれもうこんな時間。地道にやることやりましょうか。まだまだ暑いですからお大事になさってくださいね。
cf.「終わりのある分析と終わりのない分析」(1937) は岩崎学術出版社の『フロイト技法論集』にも入っています。