模索は続く、与作は木をきる、ってなんか似てる、と思った、今。北島三郎が歌った「与作」。多分今生まれてはじめて書いた、北島三郎も与作も。ヘイヘイホー。
サンフランシスコでプライベート・プラクティスを営む精神分析家のトーマス・オグデン(T.H.Ogden,1946〜)が2021年12月にThe New Library of PsychoanalysisのシリーズからComing to Life in the Consulting Roomという本を出した。副題はToward a New Analytic Sensibility。
オグデンはここでフロイトとクラインに代表されるる”epistemological psychoanalysis” (having to do with knowing and understanding) からビオンとウィニコットに代表される”ontological psychoanalysis” (having to do with being and becoming)への移行とその間を描写する試みをしているようだ、と以前に書いた。
オグデンはウィニコットをはじめとした精神分析家の重要論文の再読、詩人ロバート・フロストの読解など”creative readings”を試みてきた。詩を読むことは一種の「耳の訓練」であり「言語の使用されかたによって創造される効果に気づき、それに対して生き生きしているという能力を洗練する」。精神分析における患者の言葉を「意識的無意識的な情緒体験の構造や動きが、無自覚にその文章を構成する道筋をかたちづくった」と捉え、それを「書き、読む体験のなかで初めて生起する何かを創造する」ために「分析家は、耳を傾けている自分自身に耳を傾けなければならない」とオグデンはビオンを引いていう。
引用はT.H.オグデン『精神分析の再発見 ー考えることと夢見ること 学ぶことと忘れること』(藤山直樹監訳、木立の文庫)「一種の「耳の訓練」として詩やフィクションを読むこと(p94)」からである。
オグデンは最新刊でこれまで中心的に取り上げてきたロバート・フロストに加えエミリー・ディキンソンの詩、There’s a certain Slant of lightを取り上げている。
8:Experiencing the Poetry of Robert Frost and Emily Dickinson
短い章だが死を想うオグデンを感じることができる。オグデンはもう70代後半だ。
I’m Nobody! Who are you?
Are you — Nobody — Too?
Then there’s a pair of us?
Don’t tell! they’d advertise — you know!
ディキンソンのI’m Nobody!Who are you?の冒頭だ。対象と出会う乳児のこころを描写したウィニコットの言葉のようだ。
この詩はWilliam BlakeのInfant Joy(赤ん坊のよろこび)Infant Sorrow(赤ん坊のかなしみ)の後に読むとさらにグッとくる。
『魂の声 英詩を楽しむ』(亀井俊介、南雲堂)でその体験ができる。この本は私が思春期に詩をたくさん読み書いていた理由を体感的に思い出させてくれた。誰もが知る(私は詩人たちの名前しか知らなかったが)有名な詩の数々を対訳で読むことができる。亀井俊介の序文の言葉は「詩ってなんだっけ」とぼんやり考えていた私にしっくりきた。亀井は序文で詩に対する考え方が自分とは異なる研究者として二人をあげ、その一人は阿部公彦なのだが翻訳家の柴田元幸と共に帯文を書いているのも阿部だ。もう一人、亀井が序文で批判を向けた研究者がいたが名前を忘れてしまった。今手元に本がない。
音声ファイルをダウンロードし美しい英語で美しいリズムで読まれる名詩たちをきく。どれだけ多くの人がこの調べに支えられたりものおもったりしてきたのだろう。
誕生のよろこび、すぐにやってくるかなしみ、私は誰、あなたは?という問い。
「赤ん坊は生まれたとき、みんな泣くんだ」
生後二日で事故にあった宇宙船で育てられてきた(誰にかは読めばわかる)9歳の少女がはじめて宇宙船の外に出る。「初めての」だらけの「外」へ。泣き出す少女。
新井素子編『ショートショートドロップス』に収められた萩尾望都「子供の時間」の一場面だ。一緒に泣きたくなった。
喜びも悲しみも言葉にすれば分かれているようだが体験としては分けられないだろう。詩の言葉が持つ多義性を曖昧にせず、「曖昧」という言葉で7つの型に分類した『曖昧の七つの型《記号学的実践叢書》』 ウィリアム・エンプソン(著) 岩崎宗治(訳)にも似たようなことが書いてあった。亀井の本にも。
なんだか止まらなくなってきてしまったけどもう準備しなくては。ダニエル・ヘラー=ローゼン『エコラリアス 言語の忘却について』(みすず書房)に詩を全部忘れたら詩を書ける、とビオンのno memory,no desireのような話がある。そのことも、というよりむしろそのことを書きたかった、ということを今思い出した。こういう忘却はどうなんだ。
まあ、今日も色々あるに違いない。私たちは頭だけでできているわけではないから子供のこころと身体で人間以外の世界にも助けてもらおう。昔読んだ詩とか思い出したりするかもしれない。そうだったらちょっと素敵だ。私が最初に思い出したのはヘイヘイホーだったけど。