夜通し、近所で工事をしていて時折家が揺れた気がして寝ては起きてを繰り返した。今「夜中中」と書いて中が続くのは強調表現として間違ってはいないのか、と思いつつやっぱりなんか変だなと思って「夜通し」に書き直した。工事は今も続いている。多くの人が起きだす時間には終わるのだろう。作業している人は完全に昼夜逆転か。大変だな。寝られるといいけど。
玄関に向かう門をあけると間近で虫が鳴きはじめた。すごく大きな声でびっくりして「人感センサーかよ」など思いながら本当に人感センサーのオレンジ色のライトの下を歩いて玄関の鍵を差し込んだ。虫の声が止まった。思わず振り返った。ドアを開けて入ると背後でまた鳴きはじめた。リズム。雑な詩のような私たちの関係。
私は「連帯」という言葉が好きではない。正確には良さそうな意味で使われる場合の。
先日もここで書いたエミリー・ディキンソン(Emily Dickinson 1830-1886)の詩をおもう。
I’m Nobody! Who are you?
I’m Nobody! Who are you?
Are you – Nobody – too?
Then there’s a pair of us!
Don’t tell! they’d advertise – you know!
How dreary – to be – Somebody!
How public – like a Frog –
To tell one’s name – the livelong June –
To an admiring Bog!
これは「連帯」の詩のように思う。nobodyであれば。声を出さなければ。詩人の孤独はいかばかりか。
人間として扱われないのにnobodyには決してなれない事態もある。
そこにあるものは
そこにそうして
あるものだ
ー石原吉郎「事実」より抜粋
石原吉郎に「ある<共生>の経験から」という文章がある。シベリアのラーゲリ(強制収容所)での体験である。収容所での<共生>はただ自分ひとりの生命を維持するためのものだった。
「それは、人間を憎みながら、なおこれと強引にかかわって行こうとする意志の定着化の過程である」
「例の食事の分配を通じて、私たちをさいごまで支配したのは、人間に対する(自分自身を含めて)つよい不信感であって、ここでは、人間はすべて自分の生命に対する直接の脅威として立ちあらわれる。しかもこの不信感こそが、人間を共存させる強い紐帯である(イタリックは本文では傍点)ことを、私たちは実に長い期間を経てまなびとったのである」
そしてこの認識の末に発見される孤独は現在私たちが使用しがちな「連帯」との関係で記述さえる孤独とは異なり
「孤独は、逃れがたく連帯のなかにはらまれている。」
私たちは石原吉郎が体験したほどの過酷な状況に身を置くことはこれからも恐らくないと思うが、実は石原の書いたことを身をもって感じとれるとも思う。私の苦手な「連帯」という言葉はnobodyでいられない、ここにいるものはいるものとしての人間の孤独を否認しているように感じる。これも数日前にここで書いたが「シスターフッド」という言葉を苦手と感じるのもこのことと関係があるのだろう。
石原吉郎の詩やノートには引用したいものが多すぎる。でも詩というものを抜粋するのも野暮な気がするし(さっきしたけど)、実際どのくらい引用していいものかわからない。
でも「居直りりんご」という詩を書いておきたい。教科書で読んだことがある人もいるかもしれない。今日もこんな感じで過ごせたらとちょっと思った。
居直りりんご
ひとつだけあとへ
とりのこされ
りんごは ちいさく
居直ってみた
りんごが一個で
居直っても
どうなるものかと
かんがえたが
それほどりんごは
気がよわくて
それほどこころ細かったから
やっぱり居直ることにして
あたりをぐるっと
見まわしてから
たたみのへりまで
ころげて行って
これでもかとちいさく
居直ってやった