空がとてもきれいだった。ブラインドの隙間から見える色ですぐわかった。ベランダ側の大きな窓を開けるとピンクと水色と白とグレーとがたなびいていた。グラデーションではなくそれぞれの色をきちんと残して。空がきれい、月がきれい、飽きることもなく言い続ける変わらないきれいさ。これはとっても昔から変わらないことなんだろうなあ。いろんな言葉でただ指差しながらただ見上げ汚いの対としてのきれいではなくてただそのままきれいと思える対象はこうして古来からある。戦いの現場へわざわざ出向いてそこが戦場ではないと言い張りたい人はこのただきれいであるということをを知らないのだろう。どうしても汚いがあるはず、そうでなきゃおかしい、と思っているのかもしれない。変わりゆくものにも対応できず変わらないものに驚嘆したり感動したりすることもできずとどまることをせず自分で耐えられない自分のもやもやを投影できる先を探しにわざわざ遠方まで出向く。カメラとか引き連れて。その問題はあなたとは関係ないからだよね。心揺さぶられない場所へ。私たちはそのためならなんでもするよね、意外と。そういう「抵抗」は精神分析ではずっと言われてきた。現実の理不尽に抵抗するのではなくて外側と関わりたくない、正しいのは自分、だから変わりたくない、と関わる前から怖がっている自分をどうにかごまかすために関わりの薄い場所へわざわざ。よく考えれば、いや考えなくてもそこは全然関わりの薄い場所ではないよ。私たちがそうやって負担を押し付けてきた結果でもあるんだよ。その加害性を認識するのは私たちにとってもっとも怖いことかもしれないけれど。
高校時代、タバコくさい喫茶店でヤンキーの仲間とバイトをしていた。上下スウェットで長い髪を垂らし愛想など全くないゆっこちゃん(仮名、子がつく名前が多い時代だった)の接客はかっこよかった。全然もてなしていないが存在の迫力は全く無駄を生なかった。多動気味の私は歩き方からして落ち着きがなくよく笑われた。でもまあ仕事はそこそこできたので高校卒業できたら(バイト三昧でいつも単位が危なかった)働こうと思っていたけどとりあえず大学に行くことになった。とりあえずで勉強を続ける場を与えてもらえるのは恵まれているのだろう。大学では出会いに恵まれた。それまでも本だけは読んでいたので大学という場所は私にあっていた。季節ごとにいろんな姿をみせる小さな森の図書館でいつも過ごした。ずっとじっと静かに本と。
ゆっこちゃんは幼馴染で怖いことが起きる世界にいたけれど私のことを守ってくれた。「あみはやめときな」全く無駄のない言葉だった。彼女がいえばそれが正しいと思えたしそれは実際に正しかった。
何かをしている人に対して「何もしてないじゃん」と言いたくなる人に「何かしてる感しか出してないじゃん。その人あなたに関係ないのにわざわざさ」といったらどれだけ自分が「良い」ことをしているかを説明してもらえるのだろうか。「何もしていない人ほど言葉でそれを埋めていくんだよ」っていったら黙ってもらえるだろうか。ゆっこちゃんの静けさをあげたい。私もほしい。
空をきれいと思う。好きな人を好きだと思う。怖いものを怖いと思う。汚いものは汚いという。そのままを言葉にしていくなら饒舌さなど必要ないはずだと私は思う。
今日は韓国、台湾、インド、オーストラリアの精神分析家や候補生が集うカンファレンスに参加する。ふだんづかいしていない言語でどこまで表現できるだろうか。できるだけそのまま感じそのままいえたらと思う。