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精神分析、本

『個性という幻想』『実践力動フォーミュレーション』

ツイートもしたが自分のための備忘録。精神分析関連の本。

12月の精神分析基礎講座(対象関係論勉強会)は岡野憲一郎先生による「サリヴァンとコフートと自己心理学の流れ」の講義。私は司会を務めるので2022年10月に出たばかりのサリヴァンの本を読んでいる。KIPP主催のサリヴァンフォーラムに申し込むのをすっかり忘れていたが出席された方に聞くとサリヴァン(Sullivan,H. S 1892―1949)のオリジナリティはもとより阿部先生が大変個性的でとても面白い会だったそうだ。サリヴァンの翻訳といえば中井久夫先生のイメージが強いが、阿部先生が今回訳出された日本語版オリジナルの論集は個人の病理を実社会に位置付けるサリヴァンの主張の源泉を感じさせてくれるものだと思う。各論考の冒頭にある《訳者ノート》が大変ありがたい。

個性という幻想』(講談社学術文庫)
著: ハリー・スタック・サリヴァン
編・訳: 阿部 大樹

「本書は初出出典に基づいて新しく訳出した日本語版オリジナルの論集である。ウォール街大暴落の後、サリヴァンが臨床から離れて、 その代わりに徴兵選抜、戦時プロパガンダ、 そして国際政治に携わるようになった頃に書かれたものから特に重要なものを選んで収録した。」(14頁)

ちなみにこの本に収録された12編のうち11編は、日本で唯一未訳の著書“The Fusion of Psychiatry and SocialSciences”(1964) にも収められている、とのこと。

“The Fusion of Psychiatry and SocialSciences” は1934年から1949年に亡くなるまでのサリヴァンの社会科学に関する17の論文を集めた著作らしい。題名からすれば精神医学と社会科学の融合となる。

サリヴァンは当時、米国精神分析の中心だった自我心理学に対してインターパーソナル理論を用いた精神分析をトンプソン Thompson,C.らと模索した。これがその後1960年代からのシェイファーらによる自我心理学内部からの批判とどのように連動したのか忘れてしまったかいまだ知らないでいるが、自我心理学に対する批判がその後の米国精神分析の多様化を導き、関係論の基盤となった。この辺は岡野先生のご講義で確認してから書いたほうがよさそう。書いてみるとなんだか曖昧。

次は、筆者の皆さんからということで編集者さんから送っていただいた実践の本。感謝。

実践力動フォーミュレーション 事例から学ぶ連想テキスト法』 (岩崎学術出版社)

「事例から学ぶ連想テキスト法」の実践の記録。

第1章で土居健郎 『方法としての面接 臨床家のために』 (医学書院)に立ち戻らせる妙木浩之先生のさりげなさ。わかるわからないの議論をはじめ、「見立て」とは何か、ということを考えるときに土居先生のこの本は必須なのだ。

そして妙木先生考案の「連想テキスト法」とは、「事例概要を構成するナラティブ(物語)を一度分解し、さらに再構築するための方法」であり、フロイト『夢解釈』、ノーベル経済学賞受賞の心理学者ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』の合わせ技として説明。「三角測量による客観性も、また同時参照によるリフレクションも働かない」よくあるスーパーヴィジョンの形式ではなくそれらを可能にする方法として考案された「連想テキスト法」はグループでの事例検討会に最適であり、私も妙木先生のフォーミュレーションのグループの初期メンバーとしてこの意義は確信して自分のグループの基盤にしている。

実践編に入る前の妙木先生の説明(1章)はもちろん必読だが、理論がないところにフォーミュレーションは成り立たないので基礎として知っておかねばならない精神分析的発達論のまとめ(3章)も役に立つ。実践編では主要な病理毎に一事例取り上げられ、その連想テキストが提示されその結果どのようなアセスメント/フォーミュレーションがなされたかが記述される。「ヒステリー」 の症例が取り上げられている(5章)のは力動的心理療法の歴史を考えれば当然だが価値がある。基礎を押さえつつ書くためのモデルとして手元に一冊置いておきたい。

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うそもほんとも。

そんなに寒くない。暖房つけてるから当たり前か。ほとんど寝転がったまま暖房の音しか聞こえないオレンジの光の部屋でこうしている。明るくなってきてもずっとこうしていたいな。

何歳になっても理不尽に耐えかねる。今起きていることは最初から起きていたこと。言葉になるのは時間がかかる。言葉になってはじめていかに自分が憎まれているかを知ったということだってある。どうしてもっと早く。どうして違和感を感じたときに。と思うが多くの場合、違和感は自分の思い込みで処理される。身体の関わりが入ってくるとことはもっと複雑だ。どうしてそんな気持ちで他人の身体に触れられるのだろう。身体と心は別だから、と簡単に割り切れるものではない。ものすごい戸惑いをどうにかするために思い切って委ねた相手が暴力を振るうことだってある。本当は最初から怖かった、と今なら思う。でもそれは違和感として処理された。今思えば、ということがありすぎるのに愛情の方を信じてやり過ごす。そんなことの連続だ。小さな意地悪を受け続けようと、小さなあざや傷を作り続けようと痛みを伝えることができない。たまに思い切って伝えれば別れを仄めかされる。そういう圧力をかける相手とは本来すぐに別れたほうがいい。それは一つの支配だから。でも、ということの連続。人はそんなに簡単じゃない。

ずっと感じていたことが形になっただけなのに、いつも通りこうなったというだけなのにポカンとししている。どうしてこんな目に合わなければならないのだろう。いや、むしろ今までこんな目にあっても我慢してきた方がおかしい。もっと早くに気づいていたことなのだから。最初から違和感があったのだから。時折襲ってくる強い気持ちに目を閉じる。行動にしてはいけない。やり過ごす。またやり過ごす。気持ちが散々な感じになっている。また同じことを繰り返すかもしれない、こんな気持ちだと。相手を変えてまた。愚か。でもそういうもの。本当は二人で超えたかった困難。そんな相手を見つけるためには実際に一緒にいてみるしかないという矛盾。喜びも悲しみもというのは一緒に生活したらそういうものと共にやっていくことだよということなんだろう、多分。