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Isn’t this a boiled egg ?

週末は第一回アジアパシフィックオンラインカンファレンスだった。

参加者は国際精神分析協会(IPA)に関連するオーストラリア精神分析協会、中国スタデイグループ、インド精神分析協会、韓国スタデイグループ、台湾スタデイグループと日本精神分析協会の会員と候補生。

テーマはGender in the Consulting Room and in Culture。Individual paperでは日本、インド、台湾の先生方がこのテーマで発表をしてその後にみんなで議論。

Clinical small Conferenceでは各国の分析家、候補生が6つのグループに振り分けられて国の異なる2人のモデレーターのもと準備されたclinical materialを素材に議論。

India: 07:00- China and Taiwan: 09:30- Japan and Korea: 10:30- Australia: 12:30- という時差のもとスタート。

私はいつもの仕事より遅いスタートだったので景気付け(一日英語使用という苦行に向けて)に行きたかったカフェのモーニングへ行ってみた。そしたらなんとゆで卵が生卵だった。「ゆで卵が生卵だった」を自動翻訳にかけるとThe boiled egg was raw.うむ。ありえない事態になるので言葉足らずは誤解を生みますね。でも実際この事態ありえなくて卵をトントン「うん?」トローリ。面白かったのは一瞬それをありうることとして理解しようとしている自分がいたこと。カフェのモーニングはトーストとサラダとゆで卵が一般的だけど「ここって何かに生卵使うの?」とサラダとか眺めてしまう自分がいた。ごく普通のサラダにみえるのに。というのも入ったときから違和感が多かったのだ。一番は店員さんの独特のペース。The boiled egg was raw.はおしゃれな容器に入って出てきたドレッシングと蜂蜜のことも「これなに??」と勘ぐったあとの出来事だった。蜂蜜大好きなので蜂蜜でよかったけど。いやいつもだったら疑いもせず喜ぶのだけど。

「これってゆで卵ではないんですか」。自動翻訳だとIsn’t this a boiled egg ? 見りゃわかるだろうみたいな話だが見てわからないのが卵だということがわかった。この質問、変だろうと自分でも思ったが思わずこう聞いたら例の店員さんがさすがに普通にびっくりした。安心した。おお、私がおかしいわけではなかった。

あ、私は記念すべき第一回アジアンパシフィックオンラインカンファレンスについて書いていたのだった。お昼が終わってグループに振り分けられたあとに雑談する時間も少しあったからこの話して各国モーニング状況を聞けばよかった。食べ物の話なら英語がよくわからなくても楽しいし。

しかし皆さんよく話す。議論はよい感じで盛り上がり大変勉強になった。グループでの作業はグループメンバーによるところが大きいが、私たちのグループはモデレーターの先生方のマネージメントのおかげで2時間があっという間に過ぎた。

「この病理のこういう状態にある患者さんに通じる言葉は」ということも検討できた。日本語臨床については常々考えているが英語でも同じようなことができて楽しかった。言葉についてはオーストラリアの訓練分析家の先生が中心になってくれた。アジアの先生方も英語圏でトレーニング受けてたり帰国子女だったりして英語が達者な方が多かったけどその人にインパクトを与える言葉を探す作業に含まれる色々を話しあう基盤は精神分析理論にあるので私もなんとかついていけた、気がしている。

今日もちょっと別の角度から言葉について考えることになる。そしてウィニコット再読。先日も書いたがウィニコットの「対象の使用」という考えは言葉を象徴として使える患者かどうかのアセスメントと関わっている。これは病理をどう理解するかということでもある。患者が現実の対象をそれとして認識することが難しいにも関わらず分析家がコミュニケーションをしないことの重要性を理解せずコミュニケーションを促すことは患者にとって侵入的である。ウィニコットは解釈するということは分析家の理解の限界を示すことであるといった。何かをせずにいること、それをできるだけ少ない言葉で語ること、私は「安全」ということを考えるのであれば、精神分析に限らずケアや支援というのはどれもそこを目指せたらいいような気がしている。

お世話になった先生方にお礼のメールをしているがもっとも感謝しているモデレーターの先生方にも書かねば。一番が一番遅くなるというのはよくあることですよね?そんなことないか。

今はインドは何時かな。時差はあれど国は違えどそれぞれの場所でそれぞれの一日をどうぞご無事に。

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開業してまもなくだっただろうか、しばらくしてだろうか、いずれにしても5年ほど前に神経麻痺で右手の手首が上がらなくなった。うたた寝をして起きたら手首がだらんとしたままだった。寝ぼけながら混乱していたのだろう。シャワーを浴びた。ものすごく不便だということだけわかった。利き手だ。頭痛もひどかったのでどうしたらよいか病院へ電話したらすぐにくるようにと言われた。脳の異常ではなかった。それだけでとても安心した。血圧は異常に上がっていた。

私は落ち着きがなく怪我をしやすいので自分が怪我をしたときにオフィスまでどう辿り着くかのシミュレーションはなんどもしていた。いつの間にかそうするようになっていた。できるだけ楽に、と思ってのことだがその前に気をつけられる自分になるべきだろう、本来的には。

しかしまさか手首がこんなにだらんとなるとは・・と途方に暮れた。記録が書けない。お箸が持てない。混雑した電車で吊り革をつかめない。シャワーを上手に浴びられない。両利きになっておくべきだった。

ということを句友の句がずらっと並ぶページに鉛筆をあてながら思い出した。右手で追えなくなるかもしれないんだなと思って左手であててみた。景色が変わる。でもすぐにやめてこうしている。どうにかなるか、予防したところで防ぎようもないでしょ。切迫感がないとなかなか・・

うとうとしてしまった。あぶない。圧迫に気をつけないと。

何を思って書いていたんだっけ。忘れてしまった。

聞いたことに答えない、答えてないだけで嘘をついているわけじゃない、小さく情報を操作する、誤解を招くだろうけど嘘は言っていない、誰も傷つけたくない、ほしいものはほしい。そんな人でも深く愛情を向ける対象がいる。それらは全て両立する。人の気持ちがわからないというか分かりたくないのだろう、傷つけているとか気づきたくもないだろうし、優しい自分でいるために、といういつもの見立て。そんなことを考えながら橈骨神経麻痺のこと思い出して書き始めてうとうとしたんだっけ。まあいいか。

この句友はそういう人とは正反対だな。受賞の言葉があまりに素直に自分にも他者にも開かれていて余計な加工が全くされていなくてびっくりした。子育てと一人でされているお仕事で猛烈に忙しくて余計なことを考える暇がないのか、いやそういう問題ではないか。すごい人だ。読んだことのないタイプのいい文章だった。励まされた。

またうとうとしそう。素敵な気持ちのまま休みましょうね。